忍べないニンジャ
暗殺。その言葉が脳裏に浮かんで、天霧の背筋が急に冷たくなってきた。自慢ではないが、嫌われている自覚は十二分にある。
幸い、すぐに異変に気付いた警備兵が駆け寄ってくる。
「ご無事ですかっ」
「ああ。危なかったよ」
兵たちは外の様子を覗く。ものものしい雰囲気だが、幸い二発目以降はないようだ。血相を変えた兵が捜索を続ける中、ようやく天霧は枸橘に歩み寄る。
「見てください、矢に文が結わえられておりました。これを届けるのが目的だったのでしょう。侵入の形跡がないので、忍びを用いたものと思われます」
程なくして、兵の一人が戻ってきて報告した。兵が紙片を差し出す。
「しかし、忍びといっても容易に忍び込めるものではないはず。ここは宮なのですよ。警備はいったいどうなっているのですか。油断していた責任者を出しなさい」
枸橘が彼らに食ってかかっている横で、天霧は紙片の文字に目を走らせた。
「そう怒るな。元から宮に出入りを許されていた忍びなら、警備の目を盗んで矢文くらいやってのけるだろうよ。全く、とんでもないことになった」
「え?」
「差出人は、朴木様の奥方だ。よりにもよってあいつ……」
思わず天霧の口から苦笑が漏れる。
『貴殿の忍びを捕らえた。返してほしくば、明日中に朴木宅まで来られたし』
文にはしっかりした格調高い文字で、そう記されていた。
☆☆☆
「探っていた家で捕縛されるとは、なんたる失態」
「でも、無事でよかったですよ……」
「まあまあ。相手がなりふり構わず襲ってきたら、あいつには厳しかろう」
道中、愚痴をこぼす枸橘。紫苑と二人でそれをなだめながら、天霧は朴木宅へ向かう車中にいた。
紅や黒が目立つ市中を貫く広い通りを、馬が引く車で一刻ほどいけば、朴木宅がある。竜馬の高官の家は、黄壁に緑屋根という柔らかな色彩をしていた。庭には木々が茂り、のんびりした雰囲気があって暮らしやすそうである。
しかし当の朴木は宮中で寝起きすることが多く、ほとんどこちらに帰っていない。留守を守るのは、賢夫人と名高い彼の妻だ。史上最年少で官の登用試験に受かい、上司の顔を青くするほどの才を見せたが、そこで朴木と出会いあっさり家庭に入ったという。
天霧は会ったこともなく知識が薄いのだが、今回の件で彼女がとんでもない存在だということはよく分かった。矢文など一歩間違えれば罪に問われかねないが、夫に恩と弱みがある天霧なら大事にすまいと読まれているのだ。
「でも、質素にお暮らしなんですね。他の方だと、もっと無駄な飾りが多いのに……」
紫苑は屋敷の佇まいに感心しているが、天霧は同意しなかった。
「あの瓦の緑は、珍しい釉薬を使わないと出ないぞ」
地味に見えても、かけるべきところにはかける家風なのだろう。批判されないよう、あからさまな金ピカにしないところに知性を感じた。分かる奴にだけ分かればいい、という態度だ。
庭を抜け、宅前にいる門番に文を見せる。一行は、あっさり中に通された。
「お待ちしておりました」
完璧に整えられた客間に入ると、すでに夫人が待っていた。丁寧に挨拶をする彼女に、天霧も礼を返す。すると、床に倒れている百日紅が見えた。
こちらに背中を向けた状態で横たわり、ぴくりとも動かない彼から目を離し、天霧は夫人に向き合った。
「隠れているのを見つけたところ、抵抗したので取り押さえてございます。文句はありませんね?」
「至らない部下で。申し訳ありません」
天霧が頭を下げる。夫人は厳しい声のまま、さらに続けた。
「調べていたのは、夫のことでしょう?」
「ええ」
「彼の様子がおかしいのは、周知の事実。不審な言動で公務に影響が出ているとあらば、お調べになっても無理はございません。沙汰が出たなら、本人がごねようとも従わせます」
朴木夫人は、凜とした調子で言った。そこに甘えは、微塵もない。
「──しかし、あなたの忍びの言動は目に余りました。何の関係もない下女の寝所を覗くなど、下卑た行為が過ぎます。どうせやるならもっと上手くなさいませ」
「心にとめます」
天霧はできるだけしおらしく言った。その誠意が通じたのか、夫人はやや笑顔に似た表情を作る。
「……お分かりなら結構。一服していかれませ」
「いえ、そこまで甘えるわけには」
「むしろ飲んでいって欲しいのですよ。最近、主人が茶ばかり集めるものですから」
今度は夫人の眉間にはっきり皺が寄った。
「お好きなのですか」
「好きではありません。朴木が点てるのが下手で、失敗するのでやり直し用がたくさん要るだけです」
「立てる?」
聞き慣れない単語に、紫苑が首をかしげる。
「茶の粉と、湯を混ぜ合わせることを『点てる』というんだ。上手い人は、手首の振り方のコツを体得しているらしい」
混ぜるときにできた泡が細かいほど、口当たりが滑らかになって美味いという。それくらいは、風流に疎い天霧も知っていた。それを説明してやると、紫苑が納得した表情になった。
「朴木は、力任せにやりすぎなのです。ゆっくりやれと言っても、適切な温度も守らねばならないようで、時間をかければよいというものでもないと……女の私でも、なかなか上手くいきませんのよ」
夫人がため息をついた。体の大きな朴木が茶碗相手に奮闘している姿を、天霧は思い浮かべてみた。確かに、苦労していそうだ。
「そこまで頑張るのには何か理由が?」
枸橘が聞いた。生まれた時から芸術一家ならともかく、朴木は茶ができなくても恥にはならない立場のはずだ。そこが不思議だったのだろう。
「──それは」
朴木夫人はなにやらつぶやきかけたが、慌てて言葉を引っ込めた。使用人が茶を持ってきたのと入れ替わりに立ち去り、そこから彼女が出てくることは二度となかった。
茶自体は高級な物で、そこそこ飲める味だったのだが、天霧は夫人から話が聞けなかったことを残念に思った。しかし、深く追求せず、百日紅を抱えてその場を立ち去った。こうなったら、相手はてこでも動くまい。
「……百日紅。終わりましたよ、自分の足で立ちなさい」
公道まで来て、枸橘が文句をとばす。それを聞いて、百日紅がひょいと頭を起こした。ことの次第を飲みこんでいなかった紫苑だけが、目を丸くする。
「うまくいきましたか」
「お前のおかげで、残りの二人は見つからなかったようだ。報告が楽しみだな」
天霧が、朴木邸の植え込みを見る。そこから、影が二つ飛び出してきた。影はまっすぐ、都の方へ向かって動いていく。彼らも、天霧が雇っている忍びだ。
「あの家は警備もしっかりしてましたからね。蟻の巣みたいなふかーい中心部に入り込むには、どこかで隙を作らないと」
忍びは通常、三人で班を作って行動する。今回はわざと百日紅が変なことをして捕まって、残りの二人を動きやすくしたのだ。彼らが引き上げてきたということは、何か進展があったという証拠だ。
「ま、捕まっても危険が少ないと思える場合にしか使えませんけどね」
「一人、見殺しにするようなものだからな」
「そうですよ、いてて……あいつら、思ったより容赦なかったな」
「下女の部屋に入るからですよ。公私混同です」
「好き好んで入ったんじゃありませんよ!? 俺の名誉のために言いますが……」
そんな話をしながら、天霧たちは車に揺られて官舎に帰ってきた。すると、忍び二人がすでに室内で待機していた。彼らに百日紅のような趣味はないため、普通に床に膝をついている。
「さて、試してみた甲斐はあったのかね」
百日紅が偉そうに口火を切った。忍者たちはそれに怒った様子もなく、話し始める。
「はい。奥方の日記を拝見しましたので、全てはっきりしました。……朴木様がご心配なのは、孫様のことで」
「嫁いだ家の姑、性格が最悪にも程がありまして」
孫夫婦の仲はいたって良いのだが、息子第一で生きてきた姑にとってはそれが面白くない。結果、あれがまずいこれがまずいと、嫁のやることなすことにケチをつけ言い訳を許さない。
「典型的な嫁いびりですね」
「息子を取られたように感じて、張り合っているようですが」
「朴木様の娘を無下にするなんて、どれだけお偉いつもりなのかしら」
枸橘が呆れた顔でつぶやく。
「いやあ、関係ないんですよ。相手は芸術家で、官吏なんて下僕としか思ってませんから」
百日紅が天井に逆さに張り付きながら言う。実は、目立つの関係無しにあの格好が好きなんじゃなかろうか。
忍びたちは百日紅を見もせず、話にもどった。
「いくら仕事ができても、野暮という点だけでつついてきますからね。朴木様も可愛い孫の足を引っ張るまいと、必死になっておられる」
「茶の点て方を学んでおられたのにも、理由がありまして」
野暮だ野暮だと言われるのにたまりかね、朴木はとうとう皆の前で大見得を切ってしまった。孫の嫁ぎ先で行われる茶事で、亭主役を務めると宣言してしまったのだ。
天霧は首をひねった。
「……朴木様にできると思うか?」
「いやあ、細かい作法が多すぎて素人にはとても無理ですよ。今頃、向こうの姑は笑いが止まらないでしょう」
百日紅の言葉を聞いて、天霧は胃の腑のあたりが痛くなってきた。嘘がつけなくて世渡りが下手な朴木の性分が、完全に裏目に出ている。
「天霧様、朴木様のためになにかできませんか」
気の良い紫苑は、怒鳴られたのに相手の心配をしている。天霧はうなずいた。
「ああ……手はあるぞ。紫苑。申し訳ないが、これを分析にかけてくれ」
天霧は持っていた水筒を、紫苑に渡した。
「中身はなんですか?」
「朴木の家で出された茶だ、こっそり持ってきた。俺の推測が正しければ、頭痛の原因はそれを分析すればはっきりする」