翼が招く終わり
「……はあ」
泰楊は頭を後ろにそらし、苦笑いをもらした。
「俺が言うのもなんだけど、お兄さんいい性格してるねえ。役人の中じゃ浮くんじゃないの?」
「お褒めいただきどうも」
天霧は、ゴミをみるような目で泰楊を見つめながら言った。
「でも、偉そうに言うのなら……もう少し強くなってね」
不意に泰楊が動いた。兵を突き飛ばし、海に向かって飛ぶ。宙に浮かんだ彼の体を、見慣れない形の黒い影がさらった。
「鳥か!?」
「……いや、違う!」
皆が唖然とする中、風を切っているのは、布を張った人工の翼だ。泰楊をつかんだそれは一旦高度をやや下げたものの、再び上昇していく。そして、雲の彼方に消えていった。残っているのは、泰楊が残した立ち回りの跡だけだ。
「やられた」
あの動きはまるで鳥だ。船で追っても、とうてい追い付けないだろう。天霧は早々に追跡を諦め、放り出された兵の方へ向かった。
「大事ないか」
「はい。しかし……せっかくの手がかりを、みすみす逃がしてしまいました」
兵は声の端々に、悔しさをにじませている。天霧は、彼の肩をたたいてやった。
「元から戦力差がありすぎた。俺の読みが甘かったんだ。まさか空を飛んで逃げるとは思わなかったしな」
「本当に飛んでいました……あんなことが可能なんですか。烏が、奴を助けに来たんですか」
兵士の問いに、天霧は首を横に振った。
「聞いたことがある。竹や木で骨組みを作い、それに布を張った翼で、空を飛んだ者がいると。あれもその応用だろう」
最初の翼は、すぐに落ちてしまったと聞く。長時間飛べるよう改良したとしたら、かなりの腕を持った技術者がかんでいるに違いない。
「また一から調べ直しだ。今度会うときには、手加減してくれないだろうからな。さ、立て」
自分に言い聞かせるように天霧は言い、船内に入った。まだ船室にはざわめきが残っているが、船長に港に戻るよう告げる。それでようやく、生きているという実感がわいてきた。
やがて、ゆっくりと船が動き出す。感心なことに、乗組員や兵たちは、徐々に普段の動きを取り戻していった。
しかし余暉と交流があったものは、口を半開きにしながら立ちつくしている。予想外のことが多すぎて、思考がついてこないのだろう。一番冷静だった翠玉ですら、この常識外の事態に無言を貫いていた。
天霧は彼らを横目に、真っ先に土下座している伊吹に話しかける。
「……岸についたら、専門の官が待っている。取り調べでは、知っていることをありのまま話すように。隠すと大変なことになるのは、もう分かっているだろう」
天霧が言うと、伊吹は鼻をすすりながらうなずいた。
「彼は……どんな罪になりますか」
その隣にしっかりと寄り添いながら、春朝が尋ねる。
「通常、己の主人を殺すことは最も重い罪になる」
この国の基本は、身分が下の者が上に服従することである。それを踏み越えた先に待っているのは、死──それも残酷な刑を伴う──だけだった。
「……だが、そうと決まったわけではない。今回は、本人が菓子を食べ過ぎたのが死亡原因になった。そうだな? 枸橘」
「はい、そう記憶しております。薬を飲んだ他の人は、誰も亡くなっていませんから」
「ということで、あくまで主の行動を止められなかった過失として申し送っておく」
これなら、流罪で済む余地が生まれる。死罪の可能性がなくなったわけではないが、天霧はできる限り酌量を申し出るつもりでいた。無罪では済まないが、もう何年もこき使われてきたのだから、それくらいしてやってもいいだろう。
「ほ、本当に……」
「妙な気を起こすなよ。今度変なことをやったら、さすがに庇いきれんからな」
「はいっ」
伊吹はそれ以上声もなく、深々と頭を垂れ、床についたまま動かなくなった。次いで天霧は、傍らにしゃがんでいる春朝に声をかけた。
「これから、どうするつもりだ」
「待ってます。どんなことになったとしても」
春朝は伊吹の肩に手を置いたまま、力強く言った。天霧はその姿に二人の未来を見て、笑みをこぼす。
「そうか。良い結果になるよう、祈っておく」
「……ありがとうございました」
船が止まるまで、伊吹と春朝はずっと頭を下げたままだった。彼らが船を下りてから、天霧はようやく伸びをする。
「ひと段落、か」
「ですね。お疲れさまでした」
「しかし、今回は……」
「見事に解決なさいましたね。活劇のようでした」
無邪気に紫苑は言うが、天霧は肩をすくめるしかなかった。
「おいおい、すごくはないぞ」
「むしろ、敵に塩を送られましたよね」
枸橘の言い方はきついが、的を射ている。余暉は黒い烏に頼って、伊吹を始末しようとしていた。この情報があれば、情状酌量が受け入れられやすくなる。泰楊はそれを天霧に言うことで、伊吹を犠牲にさせまいとしたのだ。
「向こうの方から暴露してきた。しかも証人は俺だ。やられたよ、完全に」
「ぐうの音も出ないとはこのことですね」
「……ただ、次は勝つ。俺はやられたことは忘れないからな」
天霧は拳を握り、宙をにらんだ。明日からはまた、烏を捕らえるために地道な調査を重ねる必要がある。今の悔しい思いが、きっとよすがになってくれることだろう。
「おーい」
「なんか俺たちのことを忘れてねえか」
きれいに決めたと思っていたのに、天霧の正面をでかい男二人が塞ぐ。尋唯と流真だ。彼らの回りには暗い空気がたちこめていた。
「なんですか。事件はもう解決しましたよ」
枸橘がうるさそうに手を振っても、二人は恨めしげな表情を崩さない。
「行くところが」
「なくなった」
話を聞いてみると、翠玉から暇を出されたらしい。それも明日からというから、ずいぶん忙しない話だ。
「俺は余暉派だと思われているし、薬を使っていることもバレちまった。やっとゆっくりできるだろう、陸で療養しろとさ」
流真が言った。悲しい。
「俺は単にいらないって言われた」
尋唯が言った。さらに救いがない。
泣き出しそうな大男二人に向かって、天霧はため息をついた。泣きたいのはこちらだが、誉れ高い毒殺行の官として正しい判断をせねばならない。
「……お前たちの身柄は、一旦俺が預かるから」
「えっ」
「いいのか」
「二言はない。さっさと荷物をもってくるように」
男たちは大喜びで立ち去っていった。そこで天霧は枸橘を見る。彼女の目は、全く笑っていなかった。
「……別に、実力を買ったわけではないぞ。職がないのを哀れんだわけでもない」
毛穴という毛穴から怒りの気を噴き出している枸橘に向かって、天霧は言った。彼女に理解してもらわないと、明日からの仕事が進まない。
「あの二人は、目撃者だからな。どうしたって狙われる」
黒い烏、泰楊の顔を近くで見ているのだ。この国からいなくなる翠玉や一旦牢に入る伊吹と違って、彼らには安全の保障がない。もし放っておいたら、町中でこっそり消される可能性もある。
「だから、保護のためだ。もちろん、春朝さんや遊女にも護衛を手配する。店に出る人は、宮中で保護できないからな」
それを聞いた枸橘は、ようやく矛を収めた。彼女も官だ、我儘よりせねばならないことを優先する。
「わかりました。では、あの哀れな二人に安全な寝所を手配します。ほとぼりが冷めたら、どこかの部署に押し付けましょう」
後半部分で本音をだだ漏れにしながら、彼女は紫苑と共にすごい勢いで去っていった。天霧を誘ってくれないところを見ると、怒りは消えていない様子だ。
「これでまた、佐保夫人への面会が遠退くな」
一人になった天霧は、懐に手を入れながらこっそりとつぶやいた。