特定
あちこち錆びついた玄関のドアを、キイーという甲高い金属音を立てながら開けると、そこには半袖短パンの小学生が、子どもらしい無垢な笑顔で立っていた。
「おねーさん、この前のおねーさんですよね?」
三年生。中性的な顔立ちのその子は、ワクワクし興奮した様子で見上げながら、目の前の女性に尋ねる。
時刻は朝九時で、日曜日。レンタルした映画を昨日の夜、度数の高いお酒を飲みながら鑑賞していたため、今朝は寝覚めが最悪だった。
「ええと……」
酒は弱いほうではないが、少しはぼーっとする。目の前の子どもが誰か、記憶を巡らせる。
「あれ、覚えてませんか? 三日前、河川敷でマラソンの練習してて気分が悪くなったぼくに、スポーツドリンクくれたのは、おねーさんですよね」
マッチ棒みたいに細いその子は、少し困った顔をした。
あ、と女性は低い声を発し、恐怖が一瞬だけ体を駆け巡った。
「……思い出した。うずくまってたから、この暑さで熱中症になったのかと思って……」
さっきまでぼーっとしていた視界が開けたように感じ、女性は男の子の顔を思い出す。そうそう、三日前はランニングウェアを着ていて、スポーツブランドのマークが入っている帽子も被っていたから、分からなかった。
「そうです、あの時は助かりました。だから、お礼をしたいと思って来ました」
男の子はヘヘッと照れ笑いをし、片手で持っているレジ袋を掲げた。
「そうなんだ……」
コンビニの半透明の袋の中身は、おそらく有名なスポーツドリンクだ。三本入っているようだ。今日は最高気温が三十五度を超えそうだから、とても助かる。
「あの、ここ、けっこう日差しが強いですね……」
男の子は、アパートの階段の窓から差してくる強烈な日差しを、もう片方の手でさえぎった。袖の中が見え、きれいな脇が女性の目に焼き付けられる。
「そ、そうね。まあ、とりあえず上がって」
ひ弱そうなこの子が部屋の前で倒れられたら困るから、招き入れることにした。
少年は、脱いだ靴をきちんと整えていた。育ちは良いみたいだ。
そういえば、と女性はリビングへの廊下を先に歩きながら聞いた。
「どうしてわたしの家が分かったの?」
すると男の子は一瞬ニヤッと笑ったあと無邪気な笑顔に戻り、
「後をつけました」
女性は鳥肌が立ち、立ち止まって振り返る。
「え?」
「昨日、同じ河川敷で、おねーさんが来ないか見張ってたんです。お礼をしたかったので。そして、ここを突き止めました」
少しだけ、女性の体が震える。
「あのね、そういうことは、やっちゃダメだよ。大人だったら、ストーカーで捕まってるかも」
「大丈夫ですよ、今回は飲み物を持ってきただけですから」
男の子は、下心を一切感じさせないにこやかな顔を保っている。本当にお礼がしたくて家まで来ただけだろう、と彼女は思った。
リビングに通されると、少年はローテーブルの周りに置かれているペラペラの座布団の一つに座った。そして辺りを見回す。
テレビ、壁時計、漫画本、そして高価そうな二画面のデスクトップパソコン。白を基調とした空間で、清掃が行き届いている。
「あっちは寝室ですか?」
少年は、リビングの奥にあるドアを指さした。
「う、うん、そうだけど、じょ、女性の寝室を見るのはダメだからね」
お盆に乗せていたコップを落っことしそうになりながら、女性はそう注意する。そして、少年の前にジュースを差し出す。
「ありがとうございます」
彼は正座しながら両手はグラスを握っているが、それを口に持っていく様子はない。
女性は、彼が早くそれを飲んでくれるのを待っていたのだが、
「あ、あの、飲まないの?」
「ところで、一つお願いしたいことがあるんですが、いいですか」
「え?」
少年の向かいに座った女性は、息をのむ。
「こっそりぼくを尾行するのやめてください」
「…………」
三十秒ほど、沈黙の時間が流れる。
「ここ一か月くらい、誰かに見られてる気がしたんです。家と学校の間が多かったですかね。だから、逆に犯人の家を特定しようと思って。それで、ここにたどり着きました。三日前、具合悪くしてたのはわざとです。そうしたら、必ず声をかけるだろうと考えました。お礼という名目で訪れたら、家の中に入れますし、問い詰めたときに逃げられずにすみますし」
「…………」
「試しにぼくの個人情報をSNSで検索したら、そのことをよく書いている一つのアカウントを見つけました。フォロワー0のタダの独り言用として使われているみたいですが、鍵がかけられていなかったので、ぼくでもすべてのつぶやきを読めました。そのつぶやきの文章をまとめたら、ぼくを特定できてしまいました。名前や小学校や家の場所、趣味がランニングであることや塾に通っていることとか……。そして、ぼくに関すること以外のことで、○○の店に行った、○○のコンビニ○○店でスイーツゲット、○○の路線によく乗ること、最寄駅……。それらを総合すると、○○県○○市○○区、つまりこの辺りに行きつきました」
少年は立ち上がり、飲み物には一切手を付けず、リビングから廊下へ出るドアのノブを握った。
「びっくりしたでしょう? こういう三年生もいるんですよ、今時は」
彼は部屋を出る直前、奥から女性のすすり泣く声を聞いた。
少年は翌日、担任の先生から、その女性が自首したこと、彼女の寝室には、彼を盗撮した写真が壁を埋め尽くすように貼られていたことが知らされた。
なお、女性の家を訪れた際に彼に出されたジュースの中には、睡眠薬が入っていたという。