ヘリオスフィアの相見
おはようこざいます、いたちと申します。
昨日、連載を開始いたしました警察・スパイもの小説、ヘリオスフィアシリーズ第二話です!
今回は、女刑事からの視点になります。お付き合いいただけますと嬉しいです。
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ブックマークをしてくださった方、ありがとうございました。
初投稿で色々わからないのですが、大変励みになります。
[ヘリオスフィアの相見]
「じゃあ、うちらは帰るからね」
泣き喚いたお陰ですっかり目許を赤くした女性に言う。
コクコクと無言で頷いた彼女の肩に手をやって、隣の男が「ご迷惑おかけしました」と苦笑いにも似た表情を浮かべた。
「いいえ、仕事ですから何かありましたらいつでも…では」
極力にこやかに言って、背を向ける。
サーモンピンクにマリンブルー、東の端に淡い色を覗かせはじめた空へ向かって、ガイアは小さな溜め息を吐いた。
遡ること五時間前。
山奥県警刑事生活安全課に、一本の電話が鳴り響いた。
『○○市△△区3の5の2、女性からの110番。以前交際していた男性による暴力との通報です』
以前交際していた、という一節に皆が色めきだつ。
痴情のもつれは殺人などに発展する可能性も高いとして、巡査部長という肩書きを持つガイア、そして県警内でも屈強な男刑事ら数名が現場へと急行した。
だが到着してみれば、そこにあると思われた喧騒のあとは欠片もない。
顔を真っ赤にして泣く女性と、額を押さえてソファにもたれ掛かった男性が、別々の部屋にいるだけだった。
三時間にもわたる事情聴取でやっと判明したのは、まず男女は交際中であること。「以前交際していた」という表現は、別れ話を持ち掛けられた女性が当て付けに用いただけのことらしい。
さらに痣がみえるのは男性のみ、暴力をふるっていたのはどう見ても女性だが、本人は「腕を掴まれた」だ何だと泣いている。
男性に詳細を訊いてみても、「いえ、まあ」とはぐらかされておわりである。
いつもこうだ。
少々の苛立ちが吐息に混じった。
大抵の人間は、いざ事の顛末を話すとなると相手が捕まらないかどうかばかりが気になって、「何でもない」を繰り返す。
何でもなくて110番なぞしないだろう、大したことでないなら呼ばないでほしい、呼んだのなら事情を隠すことなどしないでほしい。
こうしている間にも重大な事件が動いているのだから──
そう言えないことに、ガイアは不満を持っていた。
刑事生活安全課とは、窃盗、放火、殺人などを扱う刑事課と、家庭のいざこざなどを扱う生活安全課が人数不足のために合併した、ガイアの所属している課である。
難解な犯罪の謎を解き、犯人を追い詰め捕まえる、その姿に憧れて志願した刑事の道。
しかしこんな山奥の県では刑事課として活躍する事件など殆どなく、酔っ払いの後始末や愚痴の相手をしながら朝を迎えるのが常である。
何のために警察になったのか。
最近、そんな問いが頭を掠めていくようになった。
勿論、事件が起こらないだけ平和なのだということはわかる。
喜ばしいことだ、それもわかる、ただ。
女、高卒、ノンキャリアの24。
結婚も、結婚に通ずる道に足を踏み入れることもせず、やっと手にした巡査部長の肩書きをぶら下げて酔っ払いを家まで送り届ける、そんな日々に若干の空しさを覚えるのは事実だった。
「ああ、もうひとつ良いかね、ガイア巡査部長」
件の報告書を提出し、退室しようとした時だった。
上司が、ガイアを呼び止めた。サンノという白髪混じりのベテラン警部である。
「何でしょうか」
「今朝方、WCOの基地が県内にあるという情報が入った」
「…」
WCO。
それはここ数年で発展した国際的な麻薬組織のひとつである。
麻薬密輸などで大金をせしめる組織ならいくらでもあるが、発展のスピードが速すぎるとして一際警戒されている存在だ。
規模が日に日に大きくなってゆく原因は、そのパフォーマンス性にあるとされる。
密輸、と言うからには目立たぬように活動するのが普通だろうが、WCOは違う。
密輸場面の動画をネット上で上げたり、犯行予告を電車のいたるところに貼り付けたりと目立つことばかりしながらも、いまだ下っ端さえ捕まっていない。
世界を欺こう、そんな謳い文句を掲げて、しかも絶対に捕まらないと豪語する組織、それがWCOである。
略称が世界税関機構と同じであることひとつとっても、世の中を揶揄しているのがよくわかるだろう。
勿論ガイアもニュースなどでは聞いたことがあった、だが。
「この、県内に…ですか?」
にわかには信じられない話である、あのWCOの基地がこんな田舎にあるなど。
そんな考えを読み取ったかのように、サンノは低音を発した。
「油断と断定は刑事の敵、わかっているね」
「…はい」
古兵と言われるサンノの顔を正面から見据える。
かつて勤務していた警視庁では総監からも一目置かれるほどの優秀な捜査官であったらしい。
しかし十年ほど前に都心から離れたここに異動となった。
よっぽどのことがない限り警視庁のエリートがこんなところに飛ばされるなど有り得ない。
左遷された理由としては、表沙汰に出来ない不祥事を起こした責任を取らされたとか警視総監らに楯突いたが故の左遷だとか色々言われているが、実のところは明らかになっていない。
しかし確実に言えるのは、彼が自ら事件を察知して辺鄙な土地へ出向いたという噂が立つくらいには、サンノは英雄的存在であったということだ。
ガイアとて例外ではない、自分が憧れていたのはまさに、若き日のサンノのような捜査官だった。
「で、話の続きだが…」
サンノが短く咳払いをした。
ゆったりとした椅子から立ち上がってデスクを回り、こちらに近づいてくる。
「厚生省の麻薬取締官は土地勘のあるウチと手を取り合って行きたいと言っている、そこで」
瞬間、グレーの瞳に、ぐ、と力が込められたのが解った。
「警察を代表する捜査官として、君に活動してもらいたい」
今、サンノは何と言った?
ガイアは暫し呆然とする。
「警部、それは」
もっと経験を積んだ者の方が、そう言おうとしたガイアの肩をぽん、と叩いて上司は言う。
「君なら大丈夫だ」
何を根拠に、と顔を上げれば、彼はただひとつ「刑事の勘ってやつかな」と微笑んだ。
閉めたドアにもたれ掛かって、ふうと息を吐く。
全身が脈打っているのがわかる。
麻薬、WCO、厚生省、基地。
刑事の勘なんて言葉、警察官になってから今まで聞いたことがない。
事件とも言えないような事件に飽き飽きしていたのは事実だけど、いきなりこんなドラマのような展開を連れてこられても。
困る、というより、怖い。
足許からせり上がってくる吐き気にも似た恐怖、目をつぶればさらに心音が激しく乱れる。
ガイアは、震える手を無理矢理にぎりしめた。
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森の奥、アーチ状の橋を渡ったところにそれはあった。
草だ。
右にも左にも、そして見上げた先にも、草、草、草。
自分が小人になったかのような、との表現も頷けるほどに背の高いそれらがガイアを威圧する。
まるで意思を持つ草の壁。
違う、そんな訳がない、浮かんだ言葉を打ち消すようにガイアは足を進める。
ここが薬草屋という怪しさ満載の店だからそんな風に感じるだけ。麻薬組織と通じている可能性があると聞いているから、異質に感じるだけだ。
ただ、草に威圧されてたまるかと力んで踏み入れた足さえ草に取られて転びそうになり、ずぶりと不安が押し寄せる。
一人で来るんじゃなかった、そうは思うがもう遅い。
唇を噛み締めて前方の一点を見詰める。思考を排除するときに行うガイアの癖だ。
暫く後。
果てしなく続くのではないかと思われた草地獄もようやく終わりを見せ、顔を上げたガイアは目を見張った。
そこにあったのは、緑色の大きな固まり──否、そこかしこをツタに覆われた建物であった。
もともと洒落た洋館だったのだろうレンガ造りのそれは、今や巨大な怪物のようにどしりとした存在感を放っている。
絡まる枯れかけたツタをかき分け、やっとのことで"Well Come"、という金字が書かれた扉を見付けた。
ようこそじゃないよ、ガイアは心の中で小さく悪態をつく。
歓迎してくれているんだったら、まずはこの家をどうにかしてくれ。
薬草屋の主に軽い殺意すら抱きながら、古ぼけた木製のドアを二回、ノックする。
どうぞ、と中から静かな声が聞こえた。出迎えるつもりはないらしい、まあこれでも店なのだから鍵を開ける必要性もないのだろう。
ドアは、見かけの割にスムーズに開いた。
暗い暖色がもれているところへまっすぐ進んでいけば、すぐに小さな空間に出る。
目に入ってきたのは、狭い部屋に敷かれたペルシャ風の絨毯だった。それから斜めに配置された低いテーブル、陰影を描くオレンジ色のランプ、そして。
揺れる椅子の上にもたれ掛かっている、一人の男。
ぞくりと、何かが背中を這った。
モスグリーンの膝掛けをし、深い茶色のカーディガンを羽織り、椅子をキイコと鳴らしている二十代から三十代の男性、別段変わったことをしているわけではない。
男の瞳に何か表情が浮かんでいるわけでもない、ただ薄い笑みをはり付けてこちらを見ているだけだ。
だが、違う、違う、確実に何かが違うと言える。
これが刑事の勘というやつなのだろうか。今までに感じたことのない、見ただけで本能が危険だと報せる、そんな感覚。
「いらっしゃい」
感情のこもらない、ほんの僅かに笑みを含んだ声に震えが走った。
特にまとわりつくような声色ではないのに、何故だか心臓が侵食されていく。
まるで、総てを見透かされているような。
「何の用件で?」
疑問系で投げ掛けられて、自分が何の挨拶もせず突っ立っていたことに気が付く。
「あ…の、少しお伺いしたいことがありまして」
「ああ、刑事さん」
取り出した警察手帳を一瞥して、男はなんでもないことのように頷いた。
「よくいらっしゃいますよ、仕事柄か」
相変わらずの薄笑みに、どう反応すればよいのか解らない。
「どうぞ」
とりあえず勧められたままに椅子に座る。
「…お名前と生年月日を教えて頂けますか」
「言わなきゃ駄目ですか、それ」
「は、い?」
思わず語尾が上がる。
「言わなきゃ駄目ですか」
もう一度同じ調子で訊かれ、気が付いたときには話す必要もないことを口走っていた。
「報告書に書かなければならないので…」
「それなら良いでしょう。適当に書いておいてください」
「そんなわけには」
「真面目だなあ」
男の表情に、揶揄の色が混じった。
「じゃあ、逆算してください。二十六才と一ヶ月十四日ね」
不思議と腹は立たない。こういう人なんだ、という納得や理解ではなく、なにかに飲まれているような心持ちだけがガイアを揺さぶっている。
生年月日を書き終えて名前を訊こうと顔を上げると、「マーク」と微笑まれた。
どうやら名前を教えてくれたらしい。
妙な人間だ、生年月日は駄目で名前は良いのか。
「マークさん、ですね」
「ヘルメスです」
「…え」
では、マーク、というのは聞き違いか。
「ヘルメス、さん」
「アポロンでもいいな」
「…あの」
苛立った視線を投げ掛けても、「なんです?」と良心的な顔で返される。
相手より常に冷静でいろ、とはサンノの教えだ。早くも漂い始める敗北の気配に、ガイアは声を抑えた。
「きちんと答えて頂けますか」
「やだなあ刑事さん、おれは真面目ですよ。さっきから同じことしか言ってないでしょう」
同じこと?
眉を寄せるが答える気はないようで、彼はキイと椅子を揺らす。
マーク、ヘルメス、アポロン。
ああそうか、並べてみて、思う。
水星だ。
マーキュリー、ヘルメス、アポローン、その三つを表した名前。
「メルク、ってのもあるんですけどね」
これも、水星を表すメルクトゥスから来ているのだろう。
自分でも不思議なほど迷わずに、最後に言われた名前を記入する。
マークでは凡庸、ヘルメスやアポロンではどこかが過剰。
メルク。
危険な香りを纏いながらも派手さは何処にも見当たらない、その絶妙なバランスを宿した名前。何故かこの男には合っている気がした。
「で、刑事さん。おれに何を聞きたいんです?」
首を傾けた相手の肩に、闇色の髪がはらりと落ちる。
知らず吸い寄せられる自分を律するように、咳払いをした。
「収入と支出がわかるものを提示していただけますか?」
男が──メルクが椅子から立ち上がった。
同時に背筋が硬くなる、それに気が付いたのか彼は頬の筋肉をぴくりと動かした。笑った、のだろう。
「ちょっと待っててください」
それだけ言い残して、彼が出ていった。
半端に浮いた腰を椅子に落ち着けて、待つことにする。
改めて部屋を見回してみれば、壁が殆ど見えないことがわかった。本、しかもアラビア語のような文字が書かれた難解そうなもので埋め尽くされているのだ。
本棚におさまらず積み上げられたもの、開いた状態のもの、そのすべてが厚い埃をかぶっている。
色褪せた絨毯は硬く、テーブルの模様は薄れ、ところどころ割れたステンドグラスに落ちる夕陽色は、暗い。
時が止まったようだ、と思った。
壊れたまま、崩れたまま。
あそこだってそうだと、薬草屋が座っていたあたりに目をやる。
椅子の肘掛けの隣、ちょうど主が手を伸ばせば届く位置に並べられた幾つもの瓶。
細長いそれらに種類ごとに差し込まれた草花は水気を失い、薬草として擦り潰される時を静かに待っている。
まさかこんな目立つ場所にあるはずもないが、一応怪しい植物がないかと目を滑らせてゆく。
ふと、柔らかな黄色が視界に入り込んできた。
小さな泡が無数に付いたような目立たない花だが、他の草花とは決定的に違うところがひとつだけあった。
静かに、だが確かに息づく、その気配。
枯れた物ばかりの部屋の中で、その花だけが水彩で描いたように瑞々しい。
水をいっぱいに、滴るほどにその身に抱えて淡く呼吸をする姿は、美しい、と思う。
「気に入りました?その花」
後ろから話しかけられて、思わず声を上げそうになった。
ドア付近に部屋の主が立っている。
その視線が自分の手もとに注がれているのを見てようやく、その花に触れていたことに気付いた。
「あ…、」
すみません、と続けようとしたガイアをメルクは微笑で制する。
「女郎花ですよ。花言葉は約束と……幸せな思い出、だったかな」
おみなえし、名前は知っているがこんな花だったのか。
女郎と付くほどだからもっときらびやかな花だと思っていた。
「これ。資料です」
するりと手首を返して本を渡される。
想像していたよりも分厚いそれを、ガイアは両手で受け取った。
「重いでしょう?これでも、結構繁盛しているんですよ」
カラメル色の表紙を捲れば、青インクで書かれた小鳥が姿を表した。
二、三枚捲った限り、この小鳥は少しずつ姿を変えて飛び立とうとしているらしい。
二枚目からは普通の帳簿と同じように日付、商品の売上などが細かに記されているが、小鳥が書いてある部分はまるで絵の方が優先事項であるかのように避けられている。
ネイビーの文字がびっしりと書き込まれているそれは、一種の芸術作品のようでもあった。
破れないように捲りながら薬草屋の目を盗み見るが、蒼みがかったそれに変化はない。
ガイアはページを捲る手を緩めた。
あまり知られていないことではあるが、警察の事情聴取というのは単なる情報収集が目的ではないことが多い。
相手の反応を見られそうな行動をする、つまりは鎌をかけることで真相に迫ろうとする方法もあるのだ。
この帳簿も、証拠としての力があるわけではない。
帳簿を出せ、そう言われた瞬間の反応を見るにも、相手が常に同じ表情をしているだけ意味がなかった。
小さく眉を寄せたところで、男が言う。
「他に用事は?おれは忙しいんですよ」
嘘をつけ、そんな風には見えない──言うのは簡単なはずだった。
たが口をついて出たのは、「はい」という掠れた返事。
情けない。心底、思う。
ガイアが荷物をまとめ、廊下へと向かうのを、薬草屋は黙って見ていた。
礼を言おうと振り向きかけたその時、
「気に入った、かなあ」
唐突に、彼が言った。
「もう一度来てくださいね。あなたなら大歓迎だ」
にっこりと、毒のある笑みを向けてくる彼をなんとか見つめ返す。
「…仕事がない限りは来られませんよ」
「でも約束したでしょう」
「約束?」
「その指ですよ」
ぎくり、動きが止まる。
ガイアの左手の小指──生まれつき、途中で折れたように極端に短い、それ。
「知ってます?昔、女郎が誓いの証に何をしたか」
指とも言えぬその場所に軽く触れて、彼が言った。
「──『指切り』を、したんですよ」
いかがでしたでしょうか。
語り手は何人かで、ランダムに回してゆくつもりです。
お楽しみいただけましたら幸いです。