ヘリオスフィアの享楽
ハードボイルド警察系のファンタジーです。
ヘリオスフィアとは、太陽圏という意味です。
お付き合いいただけますと嬉しいです!
[ヘリオスフィアの享楽]
雨で光る道路を歩き、しっとり濡れる森に踏み入り、白く冷たい霧を抜けると、ひとつの小さな酒場がある。
視界は暗さと雨のせいで鮮明ではない、錆びてざらついたドアを手探りで探し出し、開く。
隙間から漏れ出す空気に思わず眉を寄せた。今さら噎せたりはしない、だが。
煙草のカオリは、な。
酒に合わないから嫌いだ。
これから俺は呑むんだよ、馬鹿かあいつは。
ドアから顔を背けて息を吸う。空なんぞみえない、あるのは闇、暗闇ばかり。
さあ、月、星、すべてを霧の中へ閉じ込めろ。そして長く短い夜を満喫する用意が出来たなら、
朝が来るまで、呑もう。
「おう、メルク」
一気に濃度を増した煙の向こう、にやりと相手の口角が上がる。
「早かったじゃねぇか」
「…厭味か?」
「厭味だ」
鼻を鳴らしてグラスを煽った男を、メルクと呼ばれたもうひとりの男は盛大に睨み付けた。こいつ、酒まで呑んでやがる。
仮に、好きなものは酒と煙草と女、なんて言葉に憧れたとしても、それらを同時に嗜んだりしてはいけない、とメルクは思う。
アル中にヘビースモーカーを兼ね備えた男の行く末は見ての通りだ、憧れの念などこれっぽっちだって抱けやしない。
ひとつ離れた椅子に腰を掛ければ、ほら、すぐに絡んでくる。
「ツレねぇ奴だなあ、隣来いよ」
「煙草臭いんだよ」
息を吐いてカウンターに肘を乗せると、来る気がないと解ったのか奴は独り言のように低い声を洩らす。
「こっちゃ一時間も待ってるってのに誰も来やしねえんだからよ、味気無いったら」
「の、割に酒瓶ふたつがカラッポか。流石だな、アルバート」
「厭味か」
「厭味だ」
にこりと笑って言ってやる。
相手の男──アルバートは、悔しげに煙を吐き出した。
その後ろ、カウンターの隅に声を掛ける。
「サラ、出てこいよ」
呼応するように現れたのは華奢な少女だ。このような場所にはおよそ似つかわしくない清楚な白いワンピースに身を包み、長い黒髪は控えめに留めてある。
「気づいていたの」
蚊の鳴くような声で囁いた彼女に、ああ、とだけ返す。
「居たのかよ、サラ。なんで声かけてくれなかったんだ?もしかしてドッキリってヤツかぁ?」
面倒くさい笑顔を浮かべるアルバートに気持ちが悪いぞと言い掛けたところを、明るい声に遮られた。
「うるせえよ、んなわけねえだろクソオヤジ」
「…、サラ…」
「サ・ラ・?」
にこにこと笑いながら聞き返す彼女に、アルバートは表情筋を痙攣させる。
「えっと、あの、マルサラ様…」
「なあに、アルバート」
天使のような微笑みを浮かべながら大いなる威圧感を放つ16歳の彼女は、本名をマルサラという。
普段はサラと呼ばれていてメンバーの中では妹のような存在、なのだが。
「サラ、その辺にしておけ」
「馬鹿かお前、マルサラ様だっていわれたろ」
アルバートが小声で小突いてくる。
「メルク…だってあいつ、きもいんだもん」
「我慢は重要だぞ、サラ」
「おめえら…!」
そう、サラは外見と内面に180°ほどのずれがあるのだ。
そしてアルバートに対する嫌悪の反動か否か、メルクには不気味なほどに懐いている。
「マスター、注文!」
黄色い声が響く、マスターがやって来るとこれまた底なしに明るい「メルクさんにアメリカン・ビューティーをっ」との声が上がった。
ブッ、と飲んでいた酒を吹き出したのはアルバートである。
「汚い」
呆れたように笑えば彼は、
「汚いってお前…だってよぉメルク、」と涙目になった。
まあ言いたいことは解らんでもない、なにせアメリカン・ビューティーは『恋に溺れて』という意味を持つ真紅のカクテル。
なんというか、色々と早い。
サラの注文のせいで酔いが醒めたのか、珍しくアルバートがたしなめる。
「サ…マルサラ、おま…勝手に溺れてろ!馬鹿なのか!」
「うざい、うるさい、うっとおしい。メルクはわたしのものなの、だからあなたなんかに渡せない」
「誰が渡せと言った!」
ぎゃあぎゃあと喚き立てるアルバートに一瞥をやり、白髪のマスターへ「彼にブルー・ムーンを」と注文する。
ブルー・ムーン。
蒼い月、出来ない相談。
「なんもいってないのに勝手にフるな!…っおいマスター、真に受けるな、作らなくていい…!」
隣で冷たい笑みを浮かべているサラは、「浮き輪は用意してやるから」とのメルクの言葉に「酷い!」と頬を膨らませた。
「楽しそうね」
割り入る女の声ひとつ。
振り向けば、腕を組んで寄り添う一組の男女のシルエットが冷気と共に入ってくる。
「あんたこそ愉しそうだな、ヴィーヌ」
「そう見える?」
「ああ」
彼女が喉の奥で小さく笑う。
例えようがないほどに真っ赤なドレス、これが下品にならずに着こなせる者はそういないだろう。
麗しいというには主張が強く、妖艶なというにはさっぱりとしている。
美々とした、そんな表現が近いかもしれない。
そして隣には、明るめの青いスーツ姿。
赤いドレスと対をなすような派手な青を眼鏡のフレームにまであしらう男もまた、息でもするようにその色を己のものとしている。
「二人ともお似合いなことで」
アルバートの言葉にヴィーヌが笑い声を立て、男も応えるように微笑んだ。
「ですって、サーテス」
「ああ、嬉しいな」
より一層身を寄せた二人は、確かに甘い時間を満喫している恋人たちに見える。
だが、次の瞬間鳴り響くリボルバーの音。
サーテスの手の中にある銃がヴィーヌの心臓に押し当てられている。
「……あら」
紅い唇をつり上げ、ヴィーヌは、右手を掲げた。
その手に握られているのはサーテスが持ってきたであろう『ブツ』の束だ。
「ばれちゃった?」
「当たり前だ」
さらり、銃を握りなおす。
ダブルアクションのリボルバー、あとは引き金を引くだけ、ということだ。
「冗談よ、冗談。恐いわ、サーテス」
右手の物を男に返し、左手をひらひらさせながら女が笑う。
「冗談にしては趣味が悪いがな」
サーテスが銃を仕舞えば、
「相変わらず物騒だな、二人とも」
アルバートが酒を煽る。
「あら、お似合いで、って言ったのは何処のどなた?」
「物騒なのが似合いなんだよ…でもな、もう少し大人しくなってくれてもいいだろう」
「大人しければ私たちの仕事は務まらないわ。そうでしょ?」
ヴィーヌが視線を流し、カウンターの隣にある低いテーブルに腰かける。
サーテスもカウンターの端に滑り込んだ。
「確かになあ」
アルバートの声に、皆の呼吸が揃う。
笑って、ふうん、と納得するような空気。
こういう、同時に目配せが行われるような瞬間は嫌いではない、と思う。
沈黙ではない。
これから始まる争奪の、太刀を合わせる直前の睨み合い。
しなれど揺れぬきつい視線の絡み合い。
安易に触れることなど、許されない。
「では」
酒と煙草と、香水の匂い、その狭間に声を掛けて、誰かが拾うのを待つ。
「ああ」
アルバートが、見据えるように目を細めた。
「始めるか」
派手な音を立て、或いは銃でも取り出すように無音で、ヴィーヌのいるテーブルに麻袋を置いてゆく。
「けっこう集まったね。…ヴィーヌは?」
サラが問えば、彼女は無言で首を傾げた。
笑みを、ひとつ。
「豊作だったようだな」
サーテスが無表情に言う。
「ええ…。あの大統領、ちょろいわね。官僚たちに偽の武勇伝を吹き込んだだけでこれだから」
彼女は、ほら、というように麻袋を掲げた。
「ダイヤモンド」
「全部か?」
「勿論。…でも」
ヴィーヌが面白がるように声を潜める。
「あの国、もう少しで反乱が起こるから官僚を丸め込んでも仕方ないのよね」
そう言って嗤う様は、悪女そのもの。
だが、誰もそれを責めたりはしない。
彼女を責めるような真っ当な人間など、そもそも此処にはいない。
それどころか、全員が爬虫類のような笑みを浮かべてヴィーヌを賞賛する。
この連中には明日も何もないのだと、メルク自身もまた嗤いながら、思う。
酒に呑まれて遊ぶ、イカれた人間たち。
「私が親をやろう」
サーテスが言った。
親、とははじめにカードを配る役回りのことだ。
これから始まるのはポーカー──この三ヶ月で手に入れた全額を賭けるゲーム。
どんなに儲けても負ければ意味はない。
しかし、勝てば途方もない金を手にすることができる。
束の間の快感に、酔う権利が与えられる。
それぞれの笑みを夜の帳が包み込んだ。
宴が、始まる。
酒に濁った目を鈍く輝かせる人間たち──アルバート、メルク、サラ、ヴィーヌ、サーテスの五人を繋ぐ糸は、その生業にあった。
しかし、多くは語るまい。
そろそろ人が訪ねてくる、そうすれば解ることだ。
麻袋をまるごと動かす。
金の音に混じって、ノックの音が聞こえた。
お客様の登場、か。
周りを見れば、怪訝そうな表情が四つ。
ヴィーヌが、おかしいわね、と呟いた。
「律儀にノックをする人なんて、来ないはずだけど」
「俺の客だよ。久しぶりにまともな人間様だ」
それだけ言い置くと、ドアの方へ歩いてゆく。
ドアを開けば、舌なめずりをするような煙がぐるりと触手を伸ばした。
お読みいただきありがとうございました!
続きは近日書きます。
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