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#1

 東欧某所に世界から隔離された都市がある。

 十メートルを越える壁に囲われ、内外を繋ぐ門は《境界警備隊》によって出入りを厳しく確認されている。なぜ、そこまでする必要があるのかと問われれば、答えは簡単だ。『危険』なのだ。

 内部に警察組織は存在しない。元々は原住民とギャングが寄り集まった場所だからだ。時代が変わるたびに国が変わり、どの国からも嫌煙された。

 結果、その都市の秩序を守るのはギャングで、罪人を裁くのもギャングで、住民を守るのもギャングという構図になった。最悪な環境から生まれた体制に誰も反対はしなかった。

 ゆえに、この都市は世界から無かったことにされた。それはそうだろう。悪人が治める都市が都市と認めるわけにはいかないからだ。

 かつて、ソビエト連邦がその都市を武力で鎮圧しようとした時期があった。結果は失敗に終わり、『ソ連ですら崩せない街』と恐れられるようになる。

 そして都市は隔離され、冷戦時代が明ける頃には地図上から消されていた。


 都市の名は《ウルヴヘイム》。


 狼の意味である『ウルヴ』。

 妖精の国という意味の『アルヴヘイム』。

 これらを組み合わせた造語である。

 なぜ『狼の国』と冠するのか。その真実を世界は知らない。

 真実を知っているのは、壁内の人間だけなのだ――




「クソ予報士が……あーあ、濡れちまったじゃねぇか!」


 事務所の前まで来て、突然降り出した雨にジンは悪態をつく。

 事務所は三階建ての建物の二階にある。一階は近隣住民向けのフィットネスクラブがあり、三階は紳士向けのビデオ屋であった。その間にあるジンの事務所に名前はない。そのため、客は滅多に来ない。来るわけがないのだ。

 肩にかかった雨粒を払ったジンは、建物の脇にある階段を上り二階の扉を開ける。

 事務所内は質素なもので、入ってすぐに応接間があり、その右手側にはジンの執務机がある。逆に左手側には台所があり、冷蔵庫や電子レンジなどが置かれていた。

 応接間の先には廊下が続いており、そこから四つの部屋に繋がる。

 右側手前の部屋はトイレとバスルームで、洗面台も一緒にある。

 右側奥の部屋は物置だ。そこには主に仕事道具が納められているので、用事がある以外は入らないようにしている。下手すると部屋が吹き飛ぶからだ。爆発的な意味で。

 左側手前の部屋はジンの相棒である狼娘の個室となっている。入ると正拳突きからの踵落としという殺人殺法が炸裂するので、ジンはドアノブにすら触れないように心掛けている。

 左側奥の部屋がジンの個室だ。中は寝台と衣装棚、作業台などしかない。部屋自体があまり広いものではないので、あまり物を置く空間が無いのである。


「あれ? もう帰ってきたの?」


 そう言ってバスルームがある部屋から出てきたのは、ジンの相棒セスカであった。

 今年十九歳になるアジア系の少女で、背中まで伸ばした銀色の髪と青い瞳が特徴である。雪のような白い肌で、化粧なしでも可憐な容姿だ。が、少女の耳は大きく張り出しており、三角形を折り曲げたような形をしており、髪と同じ色の毛で覆われていた。また、臀部からは毛に覆われた尻尾が生えており、飾りなどではなく、尾骨と筋肉があって自在に動かしている。

 ジンの祖国では、少女のような容姿を『獣娘』と呼んだだろう。呼ぶのはある趣向を持った人間のみだが。

 しかし、この街ウルヴヘイムでは、セスカのような人間をこう呼んでいた。


 ――人狼。


 人間よりも身体能力が高く、現存する人狼はこのウルヴヘイムのみである。十四世紀から十七世紀の間、西欧諸国で広がっていた魔女狩りによって人狼は処刑され、迫害を受け、住処を追い出され続けたのだ。

 それでも生き延びるために逃げ続けた人狼は東欧某所で密かに暮らし始めた。やがてその場所には国から追われた者達が集まるようになり、紆余曲折あって今のウルヴヘイムとなったのだ。

 そんな人狼が、今目の前で裸のまま立っていた。

 引き締まった四肢に弛んだ肉はない。すらりとした体型で、安産型の尻、脇腹にはくびれがあり、大きすぎない乳房を堂々とさらけ出している。

 シャワーを浴びてすぐに出てきたのか、赤い髪から垂れてきた水滴が胸元へ吸い込まれていき、扇情的な感情を駆り立ててくる。


「ジン……」


 応接間を挟んだ距離だけ離れていたはずだが、ジンが気付いたときには、セスカはジンの身体に抱きついていた。仕事用の一張羅がセスカの身体に流れる水滴で濡れていく。

 あまりの速さに、持っていた紙袋を落としてしまった。


「セスカ?」


 覚えず後退りをするジンだったが、出入口である扉が壁となってジンを阻む。

 セスカからの体温を感じ、柔らかな双丘が潰れて密着している。セスカの左腕が腰に回され、右腕は首に回されている。セスカの呼吸は熱を持っており、物欲しそうな眼でジンを見ていた。

 完全に捕まってしまった――とジンは思ったが、諦めた。いずれにせよ、避けることはできないからだ。


「いいでしょ、ジン?」


 セスカの言葉を発した息が唇に当たるほどの距離に迫る。

 ジンの方も両腕で彼女を抱き寄せようとする。が、そうする前に彼女の方から離れた。その表情は、先程まで熱を帯びたような艶かしいものではなく、警戒と敵意を剥き出しにした殺意だ。

 その視線はジンもさらに先に向いており、セスカの両耳がピクリと動いていた。個人差によって異なるが、人狼の聴力は人間の数倍はある。その耳の良さから、この事務所に近づく人間を判別することができるのだ。

 その様子を見て、ジンは振り向き、事務所のドアに鍵を掛けた。セスカが着替えるだけの時間を稼ぐためである。


「早く着替えて来い」


 頷いたセスカは自分の個室へと駆け込み、ジンは乱れた衣服を整える。濡れてしまった部位については、雨で濡れた、ということにすれば不思議はないだろう。夕食が入った紙袋を回収して、ジンは扉の向こうに人が立つ気配を感じ取った。

 少なくとも、ジンを訪ねるのは客だけだ。そのほとんどはジンの知人である。しかし、セスカの警戒する様子を見れば、ジンの知り合い以外である可能性が高い。

 ジンは執務机に入れていた拳銃M9を取り出し、9×19mmパラベラム弾を詰めた弾倉を装填する。なかなか馴染まない九五二グラムの拳銃を手にしたところで、それを使いこなせる自信がジンにはなかった。

 ジンは射撃が得意ではない。軍隊の経験があるわけでもなく、人並みに扱い方を学んだだけで、訓練や練習を積極的に行わなかったからだ。それでも護身用に銃は必要だった。仕方なく買った銃がM9だったに過ぎない。一九九〇年から現在まで使われており、小説や映画にも出てくる拳銃であった。

 ジンはM9を右手に持ったまま扉に近づく。その過程で安全装置を解除して、いつでも撃てるように準備していた。

 扉の向こう側でドアノブに手を掛ける音が聞こえた。鍵が閉まっているので、ドアノブが回ることはない。が、それに気付いたのか、ドアノブを激しく回し始めた。

 ちょっとしたホラー映画のワンシーンだな、とジンは思った。映画ならば鍵が破壊され、扉を開けて入ってきた化け物に逃げていた人間が殺される、といった流れになる。その筋書きならジンは死ぬことになるのだが。


「すみません! 《ウールヴヘジン》のジンさんはいらっしゃいますか?」


 扉を叩きながら訊ねる声。

 声の主は若い男性のようだった。やや控えめに扉を叩く様子から、会う前から緊張しているということだろうか。

 ジンは深呼吸をして、体内に潜ませていた殺気を吐き出した。警戒心は解かないが、誰かに紹介された客を装った暗殺者の可能性を捨てない。少なくとも、扉を爆発物で吹き飛ばすようなことはしないようだが。

 視線を廊下に向けると、デニムの短パンに赤いシャツに着替えてきたセスカが、サーベルを手に待機していた。髪を乾かす時間がなかったのか、肌に張り付いている髪が艶かしい。

 ジンは施錠を解き、ドアノブに左手を掛ける。背後でサーベルを持ち直した音が聞こえる。準備は整っている、という意思表示なのだろう。

 そしてジンは勢いよくドアノブを回し、扉を勢いよく引いて開けた。それと同時に右手に持っていた拳銃を突きつけるように外へ向ける。が、目の前には誰も立っていなかった。


「なっ――」


 ハッとしたジンは視線を下へ向ける。そこにはしゃがみこんで銃を取り出そうとしているアジア系の青年がいた。

 二十代前半、短く切り揃えた金髪で、瞳は茶色。森林迷彩色のズボンを穿き、紺色のシャツを着ている。痩身にすら見える体付きだが、脂肪を絞りきるほど鍛え抜いていると、衣服の上からでも伺えた。

 ジンの敵意を感じ取って、扉が開いた瞬間にしゃがみこみ、拳銃を抜いて対抗するという反射神経は、一般人にはできない。少なくとも『実戦経験』がある人間でなければここまで警戒できないだろう。

 しゃがみこんだ青年が取り出した拳銃はシグザウエルP250であった。ジンが持つM9と同じ9×19mmパラベラム弾を使い、米国連邦航空保安局や香港警察隊で配備されている拳銃である。シグザウエルの銃は、このウルヴヘイムではかなり珍しい部類に入る拳銃なのだが、それを持つという意味は限られている。


「あ……」


 反応が遅れたジンは、青年に銃口を向けられていた。虚空の銃口から死神が嗤っているように見えた。

 青年の人差し指が引き金にかかっており、引くために力が込められていることに気付いた。

 しかし、青年の銃が引き絞られることはなかった。なぜならば、待機していたセスカがジンの前に立ち、サーベルの刃が青年の首筋に当てられていたからだ。肉に食い込んでいたが、まだその刃が肉を切る段階にまでは至っていない。それを理解しているのか、青年は時が止まったかのように身動きすることができなくなっていた。


「銃を捨てろ」


 セスカの言葉に青年は大人しく従う。それを見て彼女は手に込めていた力を抜き、刃が皮膚に押し返される。刃が当たっていた皮膚がほのかに赤くなっていたが、傷にはなっていない。


「誰?」


 セスカが首を傾げて問う。それに合わせて片方の耳も傾いた。

 仕草こそ可愛らしいが、右手に持ったサーベルは青年に向けられたままである。もし青年が反撃しようと行動するなら、それよりも早く首筋を斬るだろう。そう確信できるほどに、セスカの身のこなしから技倆が伺えた。


「わ、私は《グループ・リー》の次期当主ジェームズ・リーだ」

「リーだと? もしそれが本当なら、なぜ護衛の一人も付いていない?」


 青年ジェームズの答えにジンが疑問を投げかけた。

 もし本当に、香港出身の武装組織グループ・リー総帥の子息ならば、その身の価値は組織そのものだと言っても過言ではない。それほどに大切にされる身柄であり、護衛が数人付いていなければおかしいのだ。

 彼が口に出した《グループ・リー》は、このウルヴヘイムに移住してから二十年経つと言われている。その組織は、現在『第五席』という肩書きを持った有権組織となっている。

 ギャングが街を治めるため、政治に携われるだけの組織力が要求される。《グループ・リー》はその中でも五番目の組織である。つまり、ウルヴヘイムで五番目の力を持っていることになるのだ。


「それは……」


 ジェームズが問いに答えようとして言い淀んだ。その眼にはジンとセスカを警戒している様子も伺える。その奥では焦っているような印象が伺えたが、その正体を掴めるほどジンは察しがよくない。


「その前に確認してもいいですか? あなた方が《ウールヴヘジン》ですよね?」

「間違いない。俺がジンで、彼女がセスカだ」

「良かった……父、いや、《グループ・リー》の現当主チャールズ・リーを助けてください!」


 ジェームズの言葉に、ジンとセスカは互いの顔を見合わせた。

 そしてジンは密かに溜め息を吐いた。


 ――どうやら、面倒事に巻き込まれたようだ。



 ◇◇◇



 ジンとセスカが経営する組織ウールヴヘジン

 主な仕事内容は『目的を達成するために知恵と武力を貸す』ことである。

 探偵と傭兵を兼ね備えており、頭脳ではジン、武力ではセスカという役割で成り立たせてきた。その実力は有権組織から認められるほどである。

 ジェームズの父チャールズ・リーもその一人だ。

 チャールズは元々香港で活動していたギャングである。違法カジノを経営し、三つの店舗を持って年間千万ドルを稼いだ男だ。そんなチャールズだが、あまり融通の利かない性格が災いして中国政府からの弾圧を受け、ウルヴヘイムに追放されることになる。

 その後、『第五席』という地位を得るのだから、チャールズはかなりのやり手である。特に『外』から来た人間は長生きしないとされているので、数少ない例外と言える。その点に関してはジンも同じで、似た境遇からチャールズとは仲が良かった。


「まず状況について話してもらおうか」


 応接間でジェームズとジンが対面するように座っていた。セスカはジンの後ろで立って控えていた。手には鞘に入れたサーベルを持っており、警戒は解いていないようだ。

 その警戒はジェームズに向けられたものではなく、事務所の外に向いていた。本当にジェームズがリー家の血を引くなら、その命を狙っている輩でいてもおかしくないのだから。


「昨晩のことです。父チャールズの側近ケリーを筆頭に、《グループ・リー》の幹部が蜂起したんです。夜が明ける前に父の屋敷が襲撃され、父もケリーも、今はどこにいるのかさっぱりで……」

「おまえが次期当主なら、反乱していない構成員を使って捜索すればいいんじゃないのか?」

「それが……」


 ジェームズの顔が苦々しいものに変わる。

 それを見て、ジンは短い溜め息を吐いた。


「つまり、チャールズさんは行方不明、現地で抵抗した構成員は皆殺し、なんとか生き延びたおまえはここに頼ってきた。そういうことか?」

「はい……」


 ジェームズが項垂れるように肯定した。一方でジンは左手で顎をさすり、思案するように天井を仰ぐ。


「こう言っては何だが。チャールズさんから、おまえのことを聞いていない。息子がいるということは知っていたが、名前まで聞いていないんだ」

「それは……そうかと思います。父はジンさんを高く買っていましたから。私自身が未熟だったばっかりに、名前を教えることを躊躇ったのかもしれません。次期当主であることも最近決まったばかりですし」

「反乱の原因はそれか?」

「時期的に見るなら、恐らくは……」

「……もし、そうだったとしても。補佐するべき人間が蜂起するのか? 俺の印象では、《グループ・リー》の結束は強かったはずだ。幹部は全員香港からの構成員だったと記憶しているが、そこはどうなんだ?」

「その通りです。そう思っていたのですが、ケリーは実際に宣言し、行動しました。マイケルもアルバートも同様です」


 側近ケリー・ウォン。

 リー家の右腕マイケル・チェン。

 リー家の眼アルバート・ロイ。


 三人ともチャールズを慕っていた忠臣である。特にマイケルはジンも会ったことがあった。裏切るような印象は無かったが、短い期間で心が変わるほどの出来事があったということだろうか。

 話をここまで進めて、ジンはジェームズがチャールズの息子であることを確信した。チャールズから聞いていた『気弱だが考える頭があり、臆病だが戦える冷静さがある』と語っていたからだ。その印象とジェームズの印象が一致している。


「それで。その事件が起きた日、あんたは何を?」

「その時は組織のシマで好き勝手していたチンピラを掃除していました」


 珍しくない話である。

 支配域(シマ)を荒らそうと麻薬や武器の売買をする組織は多い。それをできるだけ速やかに排除するのが、治安維持を任された有権組織の宿命なのだ。


「一人でやっていたわけではないんだろう?」

「はい。私の部下十二人と共に。反乱を知ってからは十二人に味方を集めるように指示を出しています」


 十二人では少なすぎると判断したのだろう。

 反乱したケリーらがチャールズ・リーを殺すようなことはしないと踏み切っての行動だろう。

 その考えは正しい。チャールズ・リーが殺されれば、組織の多額な資金を引き出すことができなくなる。ケリーらの目的がはっきりしていないため、チャールズを生かす必要がない場合は殺されているだろう。

 しかし、チャールズは屋敷にはいなかった。つまり連れ去られた可能性が高いという意味だ。利用価値があるからこそ、連れ行ったと考えるべきだろう。


「そこで俺に協力を求めるのは、何か理由があるのか?」


 少しでも戦力が欲しいジェームズの立場を理解した上で、ジンは敢えて聞いた。ジェームズは少し言葉を詰まらせていたが、セスカを一瞥してから答えた。


「ジンさんのコネクションと、『野良の人狼』であるセスカさんの武力が欲しいんです」


 ジェームズの言葉にセスカは眉を顰ませたが、不快感は抱いていない。

 ウルヴヘイムでは、人狼は全員《人狼組合》に所属しなければならない。人狼の能力は人間にとって強力であるため、その行動を制限し、管理しなければならないのだ。その代わり、《人狼組合》に所属する人狼は最低限の生活保護があり、衣食住に困ることはない。この街では破格の待遇だ。

 ところが、安息が約束された組合に所属しない人狼は少なからず存在する。そういった人狼を『野良』という。

 野良は生活保護が無くなる代わりに、行動の制限が課せられない。ほとんどの人狼は私欲のために行動するが、中には人間と個人契約することで働く人狼がいる。それがセスカである。

 人間と組んだ人狼はセスカを含めると五人しかいない。その五人はどれも、『戦闘能力が非常に高い』と言われていた。そして、個人契約を結んだ人間を、人は『悪魔憑き』と畏れられていた。その理由は簡単だ。人狼が従う人間が、まともな人間ではないと思われているからだ。


「わかった。ただ、受けるには二つ条件を呑んでもらう」


 ジンの言葉にジェームズは頷く。


「一つ、チャールズさんを救出したら、我々は手を引く。再依頼は受け付けない」


 ジェームズは驚いた顔をしたが、すぐにその意図に気付いたようだった。

 この反乱は《グループ・リー》内部の問題である。部外者であるジンとセスカが深く関わっていい問題ではないのだ。だからこそ、目的であるチャールズの救助をした以降は手を貸さないとするのだ。チャールズとは私的な友人関係でもあるので、救出自体に大義名分がある。

 ジェームズに少し考えさせる時間を与えてから、ジンは二つ目の条件を言う。


「俺のコネクションは使わない。この問題は組織内で片付けるべきだからだ」

「わかりました……」


 残念そうに目を伏せるジェームズだが、仕方ないことだと割り切っていた。

 ジンの人脈を使えば他の有権組織の助力を得ることは可能だ。しかし、それは《グループ・リー》の立場を弱くしてしまう原因になるので、使うべきではないのである。

 納得したらしいジェームズは顔を上げて、真摯な表情でジンに向き直った。


「では報酬ですが、前金を一万ドル。成功した後に四万ドルということで如何でしょう?」

「さすが《グループ・リー》だな。報酬をケチらない」


 それだけ急を要するという意味なのだろう。ジンとしては願ってもない大金だが、肝心な仕事内容は最悪だ。

 知り合いであるマイケルとは一戦交えなければならなくなるだろう。ジンを知っているということは、それなりの対抗策を講じている可能性がある。セスカがどれほど有能な人狼であっても、苦戦は免れないかもしれなかった。

 ジンが契約書類に仕事内容を記入していると、ジェームズから携帯の呼び出し音が鳴った。ジェームズは胸ポケットから携帯を取り出し、連絡相手の名前を見て席を立った。


「すみません。部下からの電話みたいです」


 そう言って外へ出ていったジェームズを見送って、ジンはセスカを見た。


「今回ばかりは、セスカに頼りっきりになるかもしれない」

「そう? 私はジンの出番が多くなりそうだと思ったけれど」


 予想が違うジンとセスカだったが、一つだけ意見が合っていた。それは――


「後ろで操っている奴がいるな」



 ◇◇◇



 時刻は午後六時を回っていた。

 茜色に焼けた空が、執務机の後ろにある窓から見えた。

 ジンとセスカは電子レンジで温めたマカロニグラタンを食べていた。少し早い夕食だが、腹が減ってはなんとやら、だ。因みに、ジェームズに分け与える分はないので、水で我慢してもらっている。

 先ほどの連絡でジェームズの部下の一人が車で迎えに来るとのことだったので、近くに来るまで待機することになった。

 反乱側からの刺客が事務所に来る可能性があったが、もし刺客が近寄ってくるなら、セスカが飛び出すだけである。


「ジンさん。最初は屋敷に向かうということでいいですか?」


 落ち着かなそうにしているジェームズの問いにジンは頷いた。因みに、ジンの隣で二つ目のグラタンを食べているセスカは興味がないと言わんばかりに反応すら示していない。

 ジンはマカロニを飲み込んでから言った。


「それで構わない。何か痕跡があれば、それを辿っていけばいい」


 そう言いつつ、ジンは無駄だろうなと考えていた。

 重鎮中の重鎮である三人の他にも、反乱した幹部は五人もいる。その中には参謀と呼ばれた知恵者までいるのだ。そんな人間が、襲撃した屋敷に手がかりを残すはずがない。

 もしあったとすれば、それはジェームズを誘い出すための罠だろう。


 行動する前から頭が痛くなる状況だった。

 昨晩に襲撃を受けて、《グループ・リー》の幹部が蜂起したという噂は、既に街中に広まっていることだろう。ジンは午前中に相談を受けていたので情報を集める暇は無かった。一方、事務所で待機していたセスカはラジオで襲撃されていたことを知っていた。その時のラジオではチャールズ・リーが誘拐されたという情報は無かったらしい。

 有権組織『第五席』の力が弱まってしまった現在、恐らくその支配域の治安は悪化しているだろう。

 ジェームズは残った構成員でチャールズの救出を考えているだろう。が、治安維持は有権組織の義務だ。ジェームズの意思とは別に、人員を割かなければならなくなるのだ。


「ごちそうさま」


 そう言ったのはセスカである。

 いつの間にか三個分のマカロニグラタンを完食してしまっている。ジンのマカロニグラタンはまだ三割ほど残っており、物欲しそうな眼でジンのグラタンを見つめていた。

 ジンはやれやれと諦めるように呟き、残りを全てセスカに渡した。


「部下がもうすぐ到着するようです」

「そうか。では、行動しようか」


 そう言ってジンが席を立つ。

 執務机の引き出しに入っているホルスターを手に取り、身に付けた。右脇腹の位置に銃が納まり、腰に巻きつけたベルトバッグには弾倉をいくつか入れておく。

セスカのためにベージュの上着を取り、念の為に防弾チョッキをジェームズに渡す。

 ジンのグラタンを食べ終わったセスカもようやく席を立つ。ジンから上着を受け取り、サーベルの他にダガーナイフとナックルダスターを忍ばせていた。

 セスカは基本的に重火器を使わない。射撃よりも接近して殴る方が速く殺せるからだ。また、不得手というのも理由の一つである。

 逆に捉えるなら、接近戦であれば最強の強さを誇るのがセスカだ。ブーツの踵とつま先の部分に鉄板を仕込み、蹴り技で粉砕骨折させる狼娘である。


「ジン、不穏な気配がする」

「オーライ。警戒していこう」


 セスカの忠告を聞いて、気を引き締めるように頷いたジンは、事務所の扉を少しだけ開けた。

 隙間から外の様子を伺い、誰もないのを確認してから一気に開け放つ。それから三階に続く階段の上に誰もいないか確認して、安全を確保する。この行動は基本中の基本だ。

 確認が取れた後で、事務所からジェームズ、セスカの順番に階段を下り始める。ジンは事務所に鍵を掛けてから後を追う。

 ジェームズは階段を降りて、道路の左右を確認する。敵対勢力と思われる人影は見当たらなかった。

 ジェームズは《ウールヴヘジン》に迷惑がかからないように、幾重にも張り巡らせた『囮』を使って尾行を撒いたのだ。その過程で護衛と離れなければならなくなったのは、それだけ追い詰められていたからだ。

 敵対勢力の狙いは未だ不明で、ジェームズを生かすのか殺すのかさえわからない。もし、次期当主を排除する目的ならば、ジェームズを生かしておく理由はないだろう。


「来た!」


 迎えの車を発見したジェームズは、セスカにそれを伝える。

 事務所に向かって走行している車は黒のセダンで、運転席には黒いスーツを着た男が座っている。迎えの車が事務所の前に泊まろうと路肩に寄っていく。

 安堵を覚えたジェームズが車道の近くへ歩み寄ろうとした瞬間、セスカの耳に異音を捉えた。


 車が通り過ぎた路地の陰から男が動き出した。

 西アジア系の褐色の肌で、頭にはターバンが巻かれている。男の目の下には痣のように黒くなった隈があり、窪んだ眼は虚ろだ。肉らしい肉はなく、皮だけ張り付いたミイラのような男だった。

 誰の目から見ても分かるヘロイン中毒者である。薬漬けになった人間は山ほどいるが、この男はその中でもずば抜けて重度な中毒者であった。

 その男は両腕で抱えるように持っていた携帯対戦車擲弾発射器RPG-7を担ぎ、路地から出て通りに出た。狙いは黒いセダン。何も考えず、ただ命令された任務を遂行する。

 引き金が引かれたRPG-7は、噴射口から火が噴出し、弾頭が飛んでいく。路肩へ寄って徐行し始めた黒いセダンへ吸い込まれるように飛んでいく。当たると確信した男は笑みを浮かべた。


 ――しかし、その弾頭を捉えていたセスカは弾頭の噴射口をサーベルで切り落とした。推力を失った弾頭はそのまま落下し、車に届かない位置で爆発する。その間にセスカは男に近づき、右手のサーベルを横薙ぎに振るった。首を捉えた斬撃は男に致命傷を与えるには十分である。

 頚動脈と喉を切り裂かれ、男は驚愕した顔のまま倒れ伏す。無感情のまま、セスカはサーベルを振って血を払う。


 一次の脅威は去った――とセスカは安堵した直後だった。

 先ほど救った黒いセダンが大破したのだ。

 車は事務所の前に止まっており、一階のフィットネスクラブのガラス窓が全壊していた。


「ジン!」


 急いで駆け戻ったセスカはジンの名前を叫ぶ。そう簡単には死なない主人であると信じているセスカだが、姿が見えなくなるだけで心配になる。

 車は炎に包まれており、運転席に座っている男が炭化していた。助手席と後部座席には人が乗っている様子がないので、ジンとジェームズは乗っていないと思われた。


「ここだ、セスカ……」


 ジンの声はフィットネスクラブの中から聞こえた。

 爆風で吹き飛ばされたジンとジェームズは窓を突き破り、ガラス片と共に中で転がっていた。

 ジンの両腕はガラス片で切ったと思われる無数の傷が出来ていた。ジェームズの方は左頬をやや深く切っていたが、命に別状はない。


「後ろだ!」


 道路を挟んだ先で人影が動いたのを見たジェームズが叫ぶ。

 セスカが振り向くと、目の前に銃弾が迫っていた。螺旋状に回転しながら飛来する銃弾は五〇口径のマグナム弾で、セスカの頭を食い破ろうとしている。

 それよりも速く、セスカは右へと避ける。鼻先を紙一重で通り過ぎる銃弾に、セスカは密かに冷や汗を噴き出していた。それから遅れて銃声が聴こえた。

 セスカがその方向へ視線を向ける。


 そこには、デザートイーグルを右手に持って構えていた少女がいた。

 セスカとそれほど変わらない年齢の少女だ。インド系なのかアフリカ系なのか判断しにくい褐色の肌で、茶色い髪はボブカット、瞳は黄金色である。

 何よりも特徴的なのは、大きく張り出した三角耳と毛に覆われた尻尾であった。つまり、彼女もまた人狼である。


「やあやあ、初めまして。ボクはリッシェル。炎越しで撃ったのに避けられるとは思わなかった。あんたの名前は?」


 リッシェルと名乗った少女はそう言って一歩踏み出す。三日月のような笑みを浮かべなら、眼は真剣だ。

 一方でセスカはじっくりとリッシェルを観察する。

 リッシェルの格好は黒い布を胸だけ隠し、上には砂漠迷彩の服を着ていた。やや大きめの白い長ズボンを穿き、革の長靴はセスカと同じ考え方で作ったものだろう。


「私はセスカ。《ウールヴヘジン》に銃口を向けたこと、後悔させてあげる」


 そう言ってセスカはサーベルを握り直す。

 大破した車を挟むように立つ二人の戦いは始まった。

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