少しでも遠くへ、紙飛行機を
すっ、と紙飛行機が空を割る。
少しずつ高度を下げながら、それでもその紙飛行機は悠然と飛ぶ。
重力から解放されたかのようにその紙飛行機はどこまでも飛び続け、やがて建物の影に隠れて行方がわからなくなった。
その紙飛行機を飛ばした少年が、病院の屋上で物憂げな顔をしながら佇んでいた。
「空……」
少年は空に向かって呟いた。その言葉は優しい微風に包まれ、空に溶ける。
暫くそこで佇んでいた少年は、やがてゆっくりと踵を返し、歩を進めた。
今年で中学二年生になった少年――海上翔は、白で統一された病室の窓から外を眺める。見事に晴れ渡った空は、蒼く澄んでいた。
彼は、三日ほど前に交通事故に遭った。
大事には至らなかったものの、右足を骨折してしまい、他にも身体中に打撲や擦り傷を負ってしまった為、精密検査をする事になった。その精密検査も今日で終わり、どうやら右足の骨折が一番の重傷個所であったようで、治療の為に明日までの滞在と、週に一度の通院で済むとのことだ。
翔は暇を持て余していた。普通に学校に行っている時は面倒だとか思うことが多いのに、こういう時はその学校に行きたくなる。状況に対する慣れというものだ。
彼はゲームや漫画などの時間を潰せる趣味が殆ど無い。唯一の趣味である飛行機関連の本を母親が買ってきてくれたのだが、それも一日で読み終わってしまった。
一度読んだ雑誌を再度読み返したのだが、それにも飽きてしまい、漠然と空を見上げているというのが現状だ。空を眺めているのが好きだったので、そうして過している事にも殆どストレスを感じていなかった。
しかし、窓から見える空を割るように白い物体が眼前を上から下へ通り抜けていった。
身を乗り出し、その物体の正体を確かめると、病院の敷地内の庭園に小さな白いものがぽつんと落ちていた。
目を凝らすと、それが紙飛行機であることがわかった。
翔は溜息を吐き、ベッドの横に置いてあった松葉杖を取り、ぎこちない動きで病室から出た。
紙飛行機の離陸元であると思しき屋上に着くと、ベンチにひとり人が座っているのが見えた。どうやら、翔よりも更に幼い子供のようだ。身長から推測すると――小学校低学年くらいの年齢だろう。
翔は極力音を立てないように近付いたが、人生初の松葉杖での移動の為、どうしても音が出てしまった。
しかし、ベンチに座る少年はその音に気付く様子もなく、黙々と何かの作業をしていた。
「何してんだ」
翔はその少年の背後で唐突に声を発した。
幼い子供特有の柔らかい髪をふわりと浮かせ、その少年は焦って振り返った。
驚きの色を灯した瞳は、この世にあるどんな宝石よりもキラキラと輝いていて、輪郭を包むように切り揃えられた髪は作り物のように艶やかだった。一見すると女の子のようにも見えるその少年の肌は、白い患者着との境目がわからないほどに蒼白だった。
未だに警戒するような視線を向ける少年を余所に、翔はその少年の隣に腰を下ろして、横に松葉杖を置いた。
「紙飛行機……か」
翔は少年の手の上にあった作りかけの紙飛行機に眼を移す。
そして、無言のまま翔を見詰める少年に対し、さらに言葉を連ねる。
「ヘタクソ。さっきの紙飛行機なんて、真下に落ちただけじゃねーか。紙っつても、飛行機なんだから、ちゃんと飛ばせてやらないと意味ねーだろ」
少年は唇を尖らせ、そっぽを向く。
翔は少年が膝に乗せていた紙を一枚取ると、慣れた手つきでそれを折り始める。
初めは嫌な顔をしていた少年も次第にその手際の良さに見惚れる。
そして、出来上がった紙飛行機を手に、翔は立ち上がる。
「よし、できた! ちょっと見てろ」
松葉杖をつきながら、屋上の縁まで行く。少年も後を追う様にして歩く。
翔は風向きを確認すると、ちょうど追い風になるように身体の向きを変え、しなやかな動作で紙飛行機を飛ばす。
すうっと音も立てず翔の手を離れた紙飛行機は風に乗り、どんどんと飛距離を伸ばす。まるで、紙飛行機に意思があるかのように、風を切って飛ぶ。
「……すごい」
少年はふと感嘆の言葉を漏らし、その紙飛行機を見遣った。
「だろ」
翔は屈託の無い笑顔を少年に向けた。
「折り方と、風向き、それと飛ばし方を考えれば、紙飛行機でもかなり飛ぶんだよ」
「へぇ、そうなんだ」
少年はすっかり翔への警戒心を解いていた。
かなり遠くまで飛んでいった紙飛行機は、木に引っ掛かり、見えなくなった。
「教えてやるよ。紙飛行機もちゃんと飛ばしてやらないと報われないしな」
翔のその言葉に、少年は笑顔で大きく首を縦に振った。
「名前は?」
「……遠野空」
「空、か。いい名前だな。俺は海上翔。敬意を籠めて、翔くん、若しくは『師匠』って呼んでくれ」
翔は冗談交じりにそう言ったのだが、空と名乗った少年は、うん、と力強く頷いた。
それから、紙飛行機の折り方をレクチャーしながら話した結果、空が今年で十歳になる小学三年生だという事がわかった。どうやら、生まれつき身体が弱いようで、病院で過ごす事が多いようだ。
少し同情もしたが、年上とはいえ、まだ中学二年生の翔にはその意味の重さはわからなかった。
そうして話しながら紙飛行機を折り、翔は空に紙飛行機の飛ばし方を教えた。
空の呑み込みの良さもあり、翔と同じように、とまではいかずとも、先刻と比べれば空の紙飛行機もかなり遠くまで飛ぶようになった。
「すげー!」
瞳をキラキラと輝かせながらそう言う空を見ていると、翔もどこか嬉しかった。
兄弟もいないし、部活等に入ってもいない翔は、年下と接する機会が極端に少なかったのだが、空とは仲良くなれそうな気がした。
――弟ってこういう感じなのかな。
自分が飛ばした紙飛行機の行方を眼で追う空の横顔を見ながら、翔はそんなことを思った。
その後、また会おうという約束をして、翔と空はそれぞれの病室に戻った。
翌日、翔は退院できる事になった。
荷物もまとめ終わったので、両親には先に車で待っていてほしいとの旨を伝え、翔は昨日聞いていた空の病室に向かった。
翔の姿を見た空は、嬉しそうに笑いながら翔の許にパタパタと小走りで駆けてきた。
「ししょー!」
「おう、俺は今日で退院することになったから、挨拶に、と思ってな」
「…………」
空は表情を曇らせ、俯いた。もう翔と会えなくなると思ったのだろう。
その表情を見た翔は、明るく言い放つ。
「心配するな! 検査とかでちょいちょい来る事になるし、家からも遠くないから、暇があったら来るよ。それに、まだまだ教えなくちゃいけないことが沢山あるしな!」
空は不安そうに翔を見上げた。
「……ほんと?」
翔は空の頭を、わしわしと撫でる。
「ああ、約束だ!」
そう言って、骨折している右足を気にしながらしゃがむと、すっと小指を差し出した。空も翔に倣い小指を差し出す。そして、二人の小指はしっかりと結ばれた。
そこでようやく空の顔に屈託のない笑顔が戻った。
「ああ、そうそう、これやるよ。まだ読めないと思うけど」
翔はそう言うと肩に掛けていた鞄から三冊の雑誌を取り出した。それは彼が病室にいる間に暇潰し用に読んでいた航空機関連の書籍だった。
それを受け取り、パラパラとページを捲りながら内容を確認すると、空はまた満面の笑みを翔に向ける。
「ありがと!」
「おう! じゃあまたな」
「うん!」
短い言葉を交わし、翔が空に背を向け歩き出すと、空が彼の後を追って来た。
翔が顔に疑問符を浮かべて空を見ると、
「みおくり!」
と空が元気良く言った。
「そっか、ありがとな」
そして、病院で出会った師弟は、歩調を合わせて歩き始めた。
次はいつ会うかとか、紙飛行機の飛ばし方とかを、楽しく話しながら。
三日後、翔は再び病院を訪れていた。彼自身の診断は数日後なのだが、今回は空に会うという目的で来ていた。
空はまた屋上にいるかもと思ったが、とりあえず病室を訪れることにした。
翔の予想は当たり、病室に入るとすぐに空が駆け寄ってきた。
「ししょー!」
「おう! 元気だったか?」
「うん!」
翔は柔和な笑顔で空の頭を撫でる。それに呼応するように空も満面の笑みを浮かべる。
空は何かを思い出したように翔に背を向け、自分のベッドのところまで駆けると、何かを取り出して小走りで帰って来た。
「これ!」
空の手には紙飛行機が乗せられていた。
「おお! 上手くなったな!」
その紙飛行機は三日前に教えたときより数段進歩していた。
そして、翔は悪戯っぽく笑いながら、空に囁く。
「飛ばしに行くか?」
「うん!」
屋上には二人以外誰もいなかった。
心地良い微風と、白い雲が点在する空が二人を包む。
「紙飛行機日和だな」
翔がニコッと笑いながら呟く。空は元気良く頷き、屋上の縁まで駆けていった。
松葉杖をつきながら進む翔は、必然的に遅れてその後を追う。
翔が追い付いたのを確認すると、空は、
「飛ばすよ!」
と胸の高鳴りを抑えきれないように声をあげた。
「よし! 教えた通りに飛ばせよ」
「まかせて!」
空は胸を張ってそう答えると、一度深く深呼吸をし、翔が教えた通りに風向きを確認する。そして最後に翔に視線を送る。翔は合図の代わりに大きく頷く。
「いけーッ!」
力の籠った掛け声と相反するように、そっと宙に放たれた紙飛行機は、追い風をその両翼に受け、すーっと飛んで行く。
その更に上を飛ぶ鳥達と同じように進行方向を少しずつ変えながら、紙飛行機は遠くまで飛んでいく。気持ち良さそうに。ただ前へ前へと。
紙飛行機の白と空に浮かぶ雲の境目が判らなくなった時、翔がふと呟いた。
「空は上達が早いな。俺が教える事なんてすぐに無くなるんじゃないか……?」
ずっと紙飛行機の行方を眼で追っていた空が、視線を落とす。
その時流れた重苦しい雰囲気を断ち切るように、翔はニコッと笑いながら空の頭を撫でた。
「大丈夫、心配するな。空が上手になったら、今度はライバルとして二人で競おうぜ!」
空は、ゆっくりと顔を上げ、不安気に呟く。
「……ほんと?」
「ああ、約束する」
そう言って差し出された翔の小指に、空の小さな小指が重なる。
しっかりと繋がれた小指は、堅い約束の証だった。
それを感じた空の顔にも笑顔が戻る。
二人が蒼く澄んだ空に視線を戻した時には、既に紙飛行機の姿は無かった。
そして二人はベンチに腰を下ろし、ゆっくりと会話を紡ぐ。
「なあ、空はなんで入院してんだ?」
正直、訊いていいものかどうか迷ったが、特に外傷の跡も見られない少年がなぜ入院しているのかが、どうしても知りたかった翔は、思い切ってそう尋ねた。
空よりは年上とはいえ、まだ中学生の翔には、その先を考える事が出来ていなかったのかもしれない。
長い間を置いて、空がその年齢に似合わない重苦しい空気を身に纏いながら、言葉を並べ始めた。
「僕……生まれた時からあんまり身体が丈夫じゃないんだ。難しいことはよくわからないんだけど、ママとかお医者さんがそう言ってた」
「そっか……。早く良くなるといいな」
「……うん」
「そしたら、外で遊ぼうな」
「うん!」
そこで会話は途切れ、穏やかな風が二人を撫でた。
眩い陽光に照らし出された二人の影は、病院の白い壁に映し出せれ、まるで絵本の表紙のように美しいシルエットを作り出していた。
それから、翔は何度も病院に足を運んだ。
二人で紙飛行機を作っては飛ばし、二人が飛ばす紙飛行機の飛距離は日を追うごとに縮まる。時には、そうしているところを看護師に見付かり二人で怒られる事もあった。
空も日に日に翔に懐いていき、他人から見れば、二人は仲の良い兄弟のようになっていた。
そんな日々が続いたある日――――――
「あれ……?ここにもいないか」
翔は、今日も日課のようになった空の見舞い――本当の目的は二人で紙飛行機を飛ばし合うことなのだが――に来ていた。
ところが、病室にも、屋上にも空の姿は無かった。
もしかしたら退院したのかもしれない、と考えながら、どこか寂しげな雰囲気を身に纏った翔は屋上から遠ざかり、今日は帰ることにして、階段を下りた。
そして、翔が廊下を歩いていると――――
「あの……」
後ろから声を掛けられ、振り返る。
「……えっと……どちらさまですか……?」
目の前に立っていたのは、翔の記憶の中にはいない女性だった。
三〇代前半と思しき綺麗な女性。自分の同級生の母親にしては若い気もした。
病院で声を掛けられる人と言えば、ほぼ一〇〇パーセント看護師に限られるのだが、眼前に立つ女性は、ナース服など来ておらず、それでいてどこか疲れた表情をしていた。
ただ――――その女性を見ていると、初めて会った人ではないような気もした。
翔の心に浮かんだ疑問符の答えは、その女性の言葉によって示された。
「すいません、急に」
その女性は少し潤んだ瞳を翔に向ける。
「遠野優希子――遠野空の母です」
その説明を聞いて、翔の中に浮かんでいた点が繋がり、一つの線になる。
そういえば、空の面影――いや、空には彼女の面影があった。
「あ、どうも」
「いつも遊んでもらってるみたいで……ご挨拶が遅れてしまって……」
「いやいや、僕も楽しかったですから。というか、こちらこそ挨拶してなかったですよね、すいません」
優希子の低姿勢な態度につられ、翔も早口の敬語で返す。
――上品な人だな。
呆けた表情の翔は、頭の中でそんなことを呟いていた。
しかし、翔の考えは至らなかった。どうして、いつもは会うこともない空の母親に、今日こうして出会ったのか、というところまでは。
あんまり他人の親――それどころか年上と話す機会も無い翔は、こういう時何を言えばいいのかが解らなかった。
そうして狼狽する翔とは相反するように、重々しい空気を身に纏った優希子が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「実は……昨日……」
優希子は呼吸を整えるように大きく息を吐くと――――
「……亡くなったんです。空が……」
「……えッ!?」
翔の脳は、その言葉をすぐには理解できなかった。いや、言葉の意味は解っていても、それを拒絶しているような感覚だった。
――亡くなった……? 空が? だって、前に会ったのは、たった五日前……だよな。でも、あの時は……元気で……それなのに……
いくら頭の中で言葉を並べてみても、翔の脳は、身体は、その事実を受け入れられなかった。
「元々、あの子はとても身体が弱かったです……」
小刻みに震える声で、優希子は説明を続ける。
「……でも、昨日……急に……ほ、発作を……」
ポタッ。
地面に小さな水溜りが出来る。一つ、二つ――――その雨を降らせる雲は、優希子の瞳だった。
翔はその姿を見ていることしかできなかった。
ここで、何か言葉を掛けるべきだ。そう思ってはいても、やはり空が亡くなったという事実そのものを受け入れられない彼には、どうすることも出来なかった。
優希子は気丈にも涙をグッと堪え、優しく笑う。潤んだ瞳の下で作られる半月型の口は、とても切なく、悲しいものだった。
「……お葬式、来て……くれますか? きっと空も喜ぶと思うんです」
「……はい」
優希子に連絡先を教えた翔は――――再び屋上に戻って来ていた。
その手には、洗練されたフォルムの紙飛行機。
それは、最期に翔が空に教えたのだった。
今日のように風がそんなに強くない日でも良く飛ぶ、最近になって思いついたオリジナルのものだった。
それを知るのは翔と空だけ。いや、今や翔だけになってしまったのだが――――。
翔は物憂げな表情で屋上の縁までゆっくりと歩く。
そして、蒼く澄んだ空を見上げながら呟く。
「空……」
雲の向こう側に、空の笑顔を思い浮かべながら、そっと紙飛行機を飛ばす。
――いつか、空のところまで飛ばすから。それまで待ってろよ。
翔の手を離れた紙飛行機は、すーっと飛ぶ。まるで重力など無いかのように、上空に向かって飛んでいく。少しでも遠くへ、という翔の願いを受け入れたかのように。
そして、その行方を最後まで見届けないまま、翔は振り返った。その頬には一筋の光が。
その背後では紙飛行機が気持ち良さそうに飛ぶ。
遠くへ、少しでも、遠くへと。
初めての投稿です。これから、宜しくお願いします。