盲目のピアノ弾き
小さな部屋で女がピアノを弾いていた。
女は目を閉じていた。しかし、旋律はぶれることは無い。女は別に目を閉じてピアノを弾く練習をしている訳ではない。女は目が見えないのだ。
女には恋人が一人いた。少し名の知れたピアニストで、ピアノは恋人に教えてもらった。しかし、ピアノを習い始めた時は恋人ではなかった。
二人が出会ったのは、女が失明してからしばらくのことだった。病気で目が見えなくなった娘を不憫に思い、両親はあるピアニストの演奏会に連れて行った。
女はあまり乗り気ではなかったが、演奏が始まるとすぐにその演奏の虜になってしまった。女は目が見えないにも関わらず、女の目の前に美しい光景が広がっていったのだ。
その演奏会からしばらく後。女はその男にピアノを教えてもらいたいと思うようになっていた。女は困らせることを承知で、そのことを両親に打ち明けた。
両親は悩んだ。はたして目が見えない人間にピアノを教えてくれるのだろうか? しかし、娘の頼みとあれば断るわけにはいかない。両親は男の元に頼みに行くことにした。
「もちろんいいですよ。一般の方に興味を持っていただけるのは嬉しいですから」
男は以外にもあっさりと引き受けてくれた。
頼んではみたものの、あまり期待はしていなかったためか、女は男が引き受けてくれるという知らせを聞くと、喜ぶ前にひどく驚いた。
そして初めて顔を合わせた時……。
「はじめまして……よろしくお願いします。あの……私に才能が無いと思われたなら、すぐにやめてくださって大丈夫です。ただでさえ忙しいでしょうに、私のように手間のかかる生徒は御迷惑でしょう?」
男は女のその言葉に笑った。
「とてもお優しい方ですね。いいんですよ時間がかかっても。私は友達から『お前は働き過ぎだから少し休め』とよく叱られますので。のんびりとやりましょう」
男は音楽活動のほかに、戦争反対活動も行っていた。むしろそちらの方がメインで、音楽活動は布教に過ぎないとすら思っていたのだ。
「他人にピアノを教えるのは初めてですが、いい経験になると思います。人に平和を訴える活動をしていても、それを伝える方法が分からなければ意味がない。だから、お互いに勉強しましょう。僕はピアノを教えますから、あなたは私の教え方を注意して、私に他人に物事を伝えるということを教えてください」
女はその言葉に惹かれた。恋愛感情とまでは行かなくても、男が憧れ以上の存在になったのは間違いない。
それから男の授業は始まった。男は、女は目が見えないのだということを常に意識しながら行動した。練習方法も女のために工夫したし、女が練習で行き詰った時に落ち込まないように、面白い話しをいくつも用意していた。
そうしているうちに二人はお互いのことを恋愛の対象として感じるようになった。女は男の優しいところに、男は女の素直なところにそれぞれ惹かれて行った。
女が一人でピアノを弾けるようになる頃に、男の方から告白した。もちろん女はそれを受け入れた。女の両親もそれを大変喜んでくれた。男の側の両親は少し渋ったが、自分達に迷惑がかからないならという条件付きで付き合うことを許可してくれた。
それから幸せな日々が続いていたが、ある時急に男の様子が変わった。昨日まで戦争は反対だと言っていたのに、突然戦争を肯定する立場に変わったのだ。
それまで男を支持していた人達は男から離れて行き、演奏会の観客も減ってしまった。男の演奏を聞きに来ていた人達はただ演奏が好きなだけでなく、男の人柄も気に入っていた人達だったからだ。
一番驚いたのは恋人である女だった。しかし、女は男と別れようとは思わなかった。男の行動に気になる点があったからだ。
それまでは実に論理的に、説得力のある戦争反対論を展開していたのに、戦争支持の演説には説得力がまるで無かった。それに戦争反対と取れる理論を展開して、慌てて訂正するということも多かった。
そして、女が男から離れなかった最大の理由は、男のピアノの音は依然として美しかったからだ。その演奏こそが、男の本当の部分を映しているのだと女は信じたのだ。
男が戦争肯定側に回ってから間もなく戦争が始まった。
戦争肯定派の男は、戦争に行かなければならない。女が泣いて引き留めるのを男は抱きしめた。そして、女にしか聞こえないように囁いた。
「僕は今も戦争は反対の立場だ。ずっとそれは変わらない」
「そんな……では今までの行動はいったい?」
「それは言えない。でも、僕は戦争に行ったら明日死んでしまうだろう。シッ! 大きな声を出してはいけないよ。僕は昨日神様からお告げを受けたんだ。『お前はやむなき事情で戦争に行くことになるが、その心の本当のところは分かっている。故に私は、お前が誰かの命を奪う前に、お前の命を奪う。そしてお前を天国に連れて行こう』」
女は涙を流していた。男がハンカチを出してそれをふく。
「よかったら毎日ピアノを弾いてくれないか。僕が無事天国にたどり着けるように……」
「分かりました。あなたが心清らかに暮らせることを祈りながらピアノを弾きます。ですから、私が天国に行くまで待っていてくださいね」
「……できるだけ長く待たせてくれよ?」
それが男の最後の言葉だった。その後、男が戦争に向かった三日後に男の死を伝える手紙が届いた。
それから女は毎日のようにピアノを弾いた。時には泣きながら、時には男のことを思い出しながら、男が心安らかに天国で待つことができるように。女が引いている曲のタイトルは『盲目のピアノ弾き』という。男が彼女のために作った曲だった。
ある日、天使達が女のピアノの音を聞いた。
天使達はその悲しくも美しい旋律に心を奪われた。聞いていると、誰かのために弾いているのが分かった。そしてその者がすでに死んでいるのだということも……。
天使達は天上に行き、神様にこのことを伝えることにした。
男はその時地獄にいた。多くの人々を戦争に先導した罪によって地獄に落とされていたのだ。
毎日が贖罪の日々だった。どれだけの方法で、どれだけの苦しみを与えられてたか思い出せない。
「お前が盲目のピアノ弾きの恋人か?」
地獄に突然神が現れて男に話しかけた。
「あなたの言っている盲目のピアノ弾きが、天国に向かってピアノを弾いている人のことを指すのならばその通りです」
男ははっきりと答えた。
「お前は戦争を先導した罪によって地獄に落とされたのだったな。しかし、それまでは戦争を憎み、戦争に反対する立場だったはず。それがどうして急に変わったのだ?」
「……軍本部で脅されたんです。従わなければ彼女を殺すと……」
彼女とはもちろんピアノを弾いている女のことだ。
「彼らが要求するのが私の命だったなら、そんな脅しに屈することはありませんでした。現に戦争に召集されてからすぐに自殺したのです。でも……彼女はダメです。私の活動によって彼女が巻き込まれるなど耐えられません」
「なるほど。では脅しの対象がお前の恋人でなかったなら、例えばお前の親友であったならお前は脅しに屈したか?」
少しの沈黙の後に男は答えた。
「私は脅しに屈したりはしなかったと思います。もっとも、その後私も命を絶ったでしょうが」
「正直だな。……しかし全面的に同意はできない」
神は考えるように手を頭に添える。
「理由はどうあれ、お前は民衆を戦争に先導した。お前一人が反対し続けたところで戦争は避けられなかったかも知れん。だが確実に時期を早めた。お前の言論はその程度の影響力はある。裁判官もそこを考慮しての地獄なのだろう」
「私があのまま戦争に反対していれば、戦争は起こらなかったと断言できます」
神は笑った。
「自信家だな、嫌いではない。……いいだろう、お前に二つ選択肢をやろう。一つは今すぐ地獄の刑期を終わらせて、転生する権利。もう一つは、女が死ぬまで地獄の刑に服し、女が天国にやってきたらお前達を再開させてやる権利だ」
神のその言葉には迷わず男は答えた。
「彼女とは天国で再開すると約束しました。そのために今もピアノを弾いてくれています。僕が選ぶ選択肢は分かっているでしょう?」
「地獄の拷問が辛くなったら私を呼べ、すぐに転生させてやる」
それには答えず男は地獄の釜の中へ飛び込んで行った。