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一 アスファルトの温もり

「オガちゃんは、いや、オガちゃんっていうか、世代だなこりゃ。おれらと価値観が全然ちがうっていうかさ」

ドヤ顔がお面の様に張り付いた奥住の目が据わり始めているのは、少し前から気づいていた。呂律がまわらなくなり、長い話を始めた奥住をぼんやりと見る

「こうなったら要注意だから」

 横に座る井熊が直樹の耳元で囁く。

「なにがっすか?」

 井熊が止めるより先に直樹は奥住に問い返す。

「今さ、たしかオガちゃんは親に恩返しするっていったけどさ、俺らの世代は親に恩返しするなんてことを言う前にさ、とにかく親に迷惑をかけないってことを先に考えたわけだけど……え~と。そのためにあれこれと選ばず贅沢言わず定職に就いたわけ。今の人は違うよね。『自分が生かせる仕事』とかさ『仕事で自己実現』とかさ。まず、大きくてキラキラ輝く自分が中心にあってさ……うんと、それから親とか、仕事が小さく周りにあるって構図じゃなーい。一人前になる前に恩返しなんて大きなこと絶対言えなかったけどな、おれらの世代は」

奥住は唇についた白い泡を舐めながら口角を上げて笑った。細くなった目から、射るような視線を直樹に向けている。

「ジブン、何も言えないっす……」

 直樹は視線を宙に浮かす。

「ほーら、ほらほら~主任、ジョッキ空になってるけど、生でいいの?」

 井熊の大きな声が響く。

「いや……だからさ、オガちゃんを責めてるとか、そんなんじゃ全然ないのよ。何だろうね……これは時代が違うんだなあって、今の若い人と話してるとそう感じる。ご両親は心配してるんじゃないの? お父さんは教員?」

「いえ、コンビニ経営してます」

「へえ、経営者、すごいじゃん」

奥住の感嘆が、わざとらしく思えて直樹は辟易する。

「ちょっと、主任。聞いてるの? 今日はお疲れ様会でしょ! 主任の演説会じゃないの!」

「今のはおじさんの話だよ。気にするな」

 井熊に窘められた奥住はそう言って舌を出した。直樹にレモンサワーの追加を聞いたが、直樹が断ると継ぐ言葉も見つけられず、自分のジョッキを持ち上げて「ナマチュー」と店の奥に大きな声で伝えた。奥住のいやに太い腕が、直樹の瞼に残る。

 直樹は酔いに任せて、膝を抱えた。背中が壁につく。火照った背中には心地よいひんやりした壁だ。その感覚にふと、思い出される光景に自分を委ねてみる。    

一人の男が目の前に立っている。酔って赤ら顔の男は、日に焼けていて目尻や口元には皺が深く刻まれている。

笑うと下がる目尻と、細くなる目。

無精ひげに、伸びた丸刈りの頭髪。

白髪が目立つ。

路地でキャッチボールをした男。

「気にすんなって」

右側から瓶ビールを勧める手が伸びてきた。直樹の視線は、その白くて細い手に引きつけられる。柏木だ。

「わたし、オガちゃんのこと買ってるんだぞ。何度も助けてもらったし、ありがとね」

直樹も柏木のコップにビールを注ぐ。自分の何を買っているのか、続く言葉を聞きたくなかった。柏木の言葉を聞き流す。今はただ、ひりひりと痛み出しそうな感傷を体の奥の方で抱えておきたい。誰にも悟られずに。

「オガちゃん、ラストオーダーだって。デザートどう?」

「いえ、ジブンは大丈夫です」

直樹は柏木が小ぶりなパフェを目を細めて食べるのを横目で見ながら、コップに注がれたビールを飲み干した。ぬるくなったビールは胃に滑り落ちていき、柏木の話も店の喧騒のどこかに呑みこまれていった。

お好み焼き屋での一次会が終わり、皆は二軒目に行くようだったが、直樹は誘いを断った。執拗に誘う奥住を周りが収めた。

一人、線路に沿って東西に伸びる駅前の通りをぶらぶらと歩く。点々と続く街灯に照らされた丸く白い地面がぽつぽつと遠くまで伸びている。南からのぬるくて湿った風が、潮のにおいを孕んでいる。その風が砂浜を思わせ、直樹は靴を脱いだ。アスファルトの熱が歩くたびに、靴下越しに足裏からじわりじわりと腹の下まで伝わってくる。「一人前になる前に恩返しなんて大きなこと絶対言えなかったけどな」、「オガちゃんのこと買ってるんだぞ」。奥住と柏木の顔が交互に浮かんでくる。白い灯りが柏木の白い手を思い出させた。悪酔いしたなと呟いて、直樹は電柱にもたれてしゃがみ込んだ。悪戯めいたことをしてみたい誘惑に駆られ、直樹はその場に仰向けになった。

目をつぶる。

視界がストンと暗くなる。

今まで嗅がなかったにおいを感じる。

土のにおい。

草のにおい。

微かにすえたにおい。

それぞれが漂ってきて、直樹の胸を満たした。両手を胸の上に載せ、列車が通っていく音を聞く。轟音とともに頭を揺らす振動が心地よかった。列車が行き過ぎると、歩道の上を自転車が通り過ぎて行った。男が直樹に何か言い捨てたが、聞き取れなかった。

また列車が通り過ぎて行った。列車の音が聞こえなくなると、直樹は目を閉じたまま「よいしょ」と呟き、ゆっくり四つん這いになった。鼓動は変わらず激しく体を打っている。目を開くと街灯に照らされた地面に、店で品出しをしている父親の背中が浮かんだ。

 

二 男達の記憶

「いらっしゃいませ」

最近入った若い外国人のアルバイトが発した声に片手を挙げて応えた。イントネーションがだいぶ自然になった気がする。店内を見回しながら一周し、レジの横を抜けてバックヤードへの扉を押した。一歩バックヤードに入ると、帰宅せずに寝入っている父幸男が視界に入ってきた。バックヤードには事務仕事をする三畳ほどのスペースがあり、幸男はそこで仮眠をとる。直樹は近くにあるブランケットを幸男へかける。倒れているように、うつぶせで眠っている父親から視線を外せない。父の「いいさ、いいさ」という優しい言葉に甘えてここまで来てしまった。ここ最近父の後を継ぐべきか思案している自分がいる。同時に、そんな知れた日常に自分の未来をはめ込んでしまうのは、自分に申し訳ないような、何だかおかしな心地がして落ち着かない。そんなこと全部含めて社会へ踏み出せないことへの口実だ、そう奥住に言われた気がしている。いや、むしろ自分自身の言葉が奥住の口を借りて出てきたのではないか、そう錯覚するほど、自分の内側が共鳴している。

 直樹は大学卒業後、家の近くにアパートを借りてしばらく一人暮らしもしてみたが、家賃もかかり特に干渉もしない両親から離れて暮らすメリットも感じられず、実家暮らしに戻った。それからちょうど半年ほど経つ。大学を卒業し非正規で働きながら、実家のコンビニ経営を言い訳程度に手伝う。特に不自由はしていないが、自慢できることなど今の自分には何もない。そんな“良いのは居心地だけ”という境遇が、ここへ来て自分を追い込むようになっている。子どもの頃から馴染んできたバックヤードの入口が、自分に何かを訴えてくるようになるとは思ってもみなかった。潮が満ちてくるように、いつの間にか目に見えない何かが自分に押し寄せて来ている。 

「おじちゃん、ボール投げしようよ」

幼い日の自分が馴染みの客にせがむ光景が、蛍光灯の白い光に透ける。不意に浮かんだ光景に、直樹は何かを呟こうとしたが、言葉にならず息だけが漏れた。

「いいぞ。ぼっちゃん、おもて行こう」

 小学生の自分はランドセルを投げ出して、外に駆けて行った。二人の出て行った店の隅の円卓ではカップ酒を手にした男達の談笑が続いている。レジの横には祖父の真吾が立ち、時折男達の話に加わる。

今はコンビニになっているこの店は、もとは祖父が始めた酒屋だった。後にそこを改修し父がコンビニを始めた。そうしたのは、すべて幸男の意向だったと聞いている。二十年勤めた会社を辞し、実家の稼業を継ぐことを決めていた幸男は七十歳を過ぎて力仕事がきつくなった真吾に強引にそれを迫ったらしい。重い品物を運ぶ仕事も減り、商品管理とレジ打ちで安心して飯が食えると。しかし、いざコンビニを始めると、高齢者はイメージに合わない、と、本社は祖父が店に出ることを許さなかった。幸男は抗ったが、本社と店舗との力関係のもとでは、空しい抵抗に終わった。酒屋に集まってきていた男達は、しばらくは家の客間に顔を見せていたが、訪れる男は一人ずつ減っていき、やがて誰も来なくなった。

コンビニになって間もない頃、直樹は真吾を誘って店の前でボール投げをしていた。すると客の邪魔になると幸男にたしなめられ、それ以降そこでは遊ばなくなった。家で昼間からテレビを見ながら茶を啜っている真吾の背中に声をかけても、なかなか返事が返ってこないようになったのはその頃だったろうか。しばらくして真吾は認知症を患い、コンビニの開店から五年経たずに他界した。

幸男がコンビニを始めて十五年が経つが、その間フランチャイズの本社が他の会社に買収され、コンビニの看板も変わった。高齢者も働く場を与えられる時代に移り、六十歳を過ぎた幸男もレジに立ち続けている。最近は直樹が店に顔を出すと、狭い畳の上に横たわっている幸男をよく見る。これまでは傍観してきた厳しい現実に最近は体半分ほど浸り始めていることを知りつつあった。

寝息をたてる幸男の横に腰を下ろすと、尻に伝わる畳の感覚が、体に染み込んだ記憶を呼び覚ました。

「こないだの大相撲の巡業、見に行ったべか?」

「あん? 行ったよ、行った」

「うちのおかあはよ、朝起きて、散歩に行って帰って来たら、すぐ昼寝すっから」

「朝から昼寝はねーべよ」

脈絡のない男達の会話ばかりが思い出された。

夕方近所から男達が集まって来て店の酒とつまみで一杯やっている。酸っぱいイカの匂いが懐かしい。うっすらとしていた景色が徐々に輪郭を持ち始める。白髪で七三分けの色の白い男は痩せ型で骨ばった体つきが印象的だった。黒ぶち眼鏡が似合う小太りな男、彼はいつも白いタンクトップを着ていた。ごま塩頭の男のことはよく覚えている。彼はいつも髪の毛を短く整えていて、酒を飲むとすぐに赤くなった。よく日に焼けた肌に笑い皺が刻まれ、客のどんな話にも上機嫌に笑うのだった。

「坊ちゃん? 学校の先生の言うことちゃんと聞いてるか?」

店の奥から様子を窺っていた直樹に、ごま塩頭の男が声をかけてきた。直樹は黙って頷く。

「先生の言うこと聞かねえと、おれ達みてえになっちまう」

小太りの男がそう言うと、男達がどっと笑った。そうして店先で交わされる歓談は気だるく自堕落な空気を周囲に漂わせていた。そこに流れる甘い時間を直樹の体は忘れることができない。

夏の夕方、蝉の鳴き声を聞きながらそこにいると、えも言われぬ心地よさに抱かれた。店先のアスファルトから立ち昇る生暖かい蒸気に温められるのは体だけではなかった。

ある日の夕方、突然降り出した夕立に、直樹は頭を濡らして帰ってきた。それに付き合うように外に出て一緒に濡れて騒いだごま塩頭の男のことが胸からせりあがるように蘇る。

あの男はどこへ行ってしまったのだろう。

あの頃は名前を呼んでいたはずだ。

店内の時計の針が十一時を回っている。あくびが出た。体の奥から押し寄せてくる眠気に抗えず、直樹は幸男の傍らに自分の体を横たえた。

 

 3 アルバイト

直樹は中学を出ると、隣の市にある高校に進学したが、部活動に打ち込むことも勉強に励むこともない味気ないその時期に、セイシュンという響きは似合わない。

「何かに打ち込まないなんてもったいない。損しているぞ」、「高校生活は三年間しかないんだ」そんな今の自分と同じくらいの歳の教師の言葉が、今になって身に沁みる。

偏差値五〇前後の高校で、中の下レベルの成績だった直樹は推薦入学を諦め受験での大学入試を試みたが現役ではどこにも合格できず、順当に浪人した。クラスの友人にも浪人がいたことも気を楽にした。集団の中で目立たぬように意識して生きてきたつもりは無かったが、何かに挑戦したり、人一倍努力したりすることもなかった。 

近い将来自分の自立に向けた挑戦を支えてくれるような経験を、過去の自分に見つけるのは難しい。学生時代はいくつかのバイトに就いたが、どれも無難に小遣いを稼いだだけだった気がする。

初めは駅前でのティッシュ配りだった。丁寧に頭を下げてもティッシュすら断られる自分に落ち込んだ。居酒屋のホールも柄の悪い酔っ払いが嫌で三ヶ月で辞めた。 

改めて振り返ると、学生時代はいくつかの試みをしていたのだ。その時の自分を鼓舞していたのはいったい何だったのだろうか。アルバイトの中で長続きしたのは酒屋と魚屋だった。個人経営の酒屋の「宮川」は、大学の最寄り駅近くの商店街にあった。

「すいませーん」

しんとした店内から答える声はない。

「こんにちは・・・・・・」

 直樹は店の奥に進もうと一歩踏み出した。

「いらっしゃい」

 背中から声をぶつけられて振り返る。外からの光を背に男が直樹を見ていた。外光が眩しくて顔がよく見えない。体は自分よりひと回り小さく、声の感じからすると六〇歳は超えているのではないかと思われた。

「あ、その、そこに貼ってあるバイト募集の紙を見て……」

直樹は咄嗟にガラスに貼ってある手書きのバイト募集の白い紙を指差した。

「ほうけ、お客さんかと思ったが。まあ、そんならそこに座ってくんさい」

変わった言い回しを使う男は、直樹を店の奥の机に案内した。直樹が円卓に座ると男は直樹に向き合うように椅子に腰を下ろした。男は歳こそ高齢に違いないが、身のこなしから足腰は丈夫そうで声もはっきりと直樹に届いた。そんな男を前に、直樹は「ここで働こう」と思った。

「助かったですわ。もう誰も来ないから、あの貼り紙剥がしてしまおかと思ってたとこでね。宮川茂吉と言います。・・・・・・で、いつから働けますか?」

「えっと水曜はサークルがあるんですけど……それ以外の曜日は一応来週から」

本当は明日からでも働けるのだが、直樹はそう答えた。時給は八五〇円、週に三、四日。授業のない時間に入ることになった。

「んじゃ、来週月曜からお願いしますわ」

男は丁寧に頭を下げた。あまりにあっけなく決まった採用に直樹は逆に心配になった。

「おめえは、どうしてうちで働くことにした? 若いのは皆、こういう店には寄り付かん」

働き始めて三ヶ月ほどした頃、棚卸しをしながら茂吉は訊いた。

「最初は、迷ってたんです。じいちゃんも、親父も同じ仕事してるんで」

茂吉は頷く。

「そっか」

そう言って茂吉は店の隅の円卓に腰を下ろした。夕方六時に閉店するとコップ酒を座ってちびりとやる。最近は客が来ないと見込むと閉店前から直樹の働くのを見守りながら一杯やるのが茂吉の習慣になっていた。直樹は茂吉がゆったりと旨そうに酒を呑むのを見るのが心地よかった。

「でも、どうしてもやりたくなったっていうか……好きだったんですよ。じいちゃんの酒屋。今はコンビニになっちゃってます。親父がコンビニにしてしまったんですけど」

日に焼けた肌に皺を刻んで、茂吉は笑う。

「そりゃいい。酒屋は、儲からんど」

「知ってます」

直樹も笑みを浮かべ、頷く。

「参っだな……」

「本当ですね。参りますね」

「どうすっかな~。もうここ五年はずっと赤字よ」

「コンビニにしちゃえばいい」

二人の乾いた笑い声が店に響いている。

「直樹くんがいてくれたら、心強いの~」

「そう上手くはいきませんよ。コンビニは飽和状態で、これまで同じように働いても売り上げは右肩下がりです。バイトも最近は外国人留学生が多いです。勤勉でよく働く子が多いんですが、日本語も覚えたてだから仕事を教えるのも一苦労だと父がこぼしてます」

「おう、ようわかったよ」

茂吉は直樹の話を聞いてそう言った。直樹とて、茂吉がコンビニを営もうとなど考えていないことは百も承知だ。だが、コンビニのことを話し始めたら、止められなかった。

「茂吉さんを見てると、じいちゃんを思い出すんですよ」

不意にそんな言葉が直樹の口から出た。

「ほう、そうけ? おれには孫はおろか子どももいねえからよ。もし孫がいたら、こんなもんなんか?」

 茂吉がタバコの煙を吐き出す。

「孫だと思ってくれたらうれしいっす」

茂吉は照れているのか、ただ戸惑っているのか、もう一度タバコを吸い込んで吐き出した。真ん丸い白い輪が天井に向かっていくつも昇っていく。

「一所懸命働くんで、これからもよろしくお願いします」

 茂吉と打ち解けていくにつれ、仕事の幅も広がっていった。得意先への配達も任されるようになり、冬場になると車での灯油の販売も直樹がやった。数年ぶりの灯油の販売とあって、「宮川」には跡継ぎができたと噂する客まで現れたらしい。人見知りを自認する直樹も、「宮川」では人との関わりで心が和む。

遠くまで伸びる坂道を、茂吉と二人で荷車を押して登る。

そんな画を働きながら思い描くことがあった。坂道がどこまで続くか分からないが、茂吉が荷車を曳く限り、それに力を貸したい。直樹は茂吉と一緒に働ける時間がこのまま続くことを願った。

茂吉が店を閉めることを告げたのは、直樹が「宮川」で働き始めて二年が経った春のことだった。

脚立から改めて店内を見下ろす。品物の無い店は、それ自体が骨董品のようにも思われた。直樹は壁がこんなに艶めいていることに驚いた。店の隅にある木の節が目に入る。あの節は最初に店に入った時から気になっていた。自分がこれまでこの店と共に生きてきた、そんな思いさえ湧いてきた。

「店閉めたら何するんですか?」

上の棚から最後の商品を下ろしながら茂吉に訊く。

 薄くなった茂吉の白髪頭が見える。

「何するって、できることなんか何もねえ」

 直樹から一升瓶を受け取りながら茂吉は笑う。

「いやいや、まだまだ体も動くじゃないですか」

「もう十分働いたが……」

「お客さんも悲しむだろうし、もったいない気がするなあ。趣味でも何でもいいから始めてくださいよ」


「そいじゃ、直樹くん、またいつでも遊びにおいで」

「ありがとうございます」

「あぁ、ずっと言おうと思ってたんだが……」

茂吉が少し声を落とす。

「何すか?」

「お父さんのこと許してあげんと、な」

 宮川での最後の仕事を終え、電車のつり革に体を預けながら、最後に交わした茂吉との会話を思い出した。茂吉に幸男に対する思いを打ち明けたことなど、果たしてあったろうか。帰り際、店先で軽く一杯飲み交わす時も、その手の話をした覚えはない。直樹としても、父への反発心は見て見ぬふりを決め込んでいる。自分でも向き合いきれない不気味さを孕みながら、湖の底で横たわる竜のように息を潜めている。

どうして茂吉は、それに気づいたのだろうか。

次の魚屋に移っても、茂吉のその一言が響いたのか直樹の気持ちはどこか晴れなかった。その魚屋も昔ながらの個人経営店で、それを知った母登美子は「やっぱり家系かねえ」と笑ったが、「いや、別に、関係ないっしょ」と直樹はその言葉を遮った。「要は、人が好きなのかな」と一応理由付けをしてはおいた。その言葉を聞いた登美子は一瞬意外そうな顔をし「人見知りだと思ってたけど、不思議なもんだねぇ」と言って部屋を後にした。

人付き合いを器用にこなすことはないし、品物を勧めて売ることも得意ではない。ただ、自分が用意した物が、誰かの喜びや満足につながったり、何かを補えたりしていると嬉しいのだ。そんな言葉は宙に浮いている。自分を育ててくれた母に告げたら少しは納得してくれるだろうか。そんな風に、いつも言葉は少し遅れて直樹の胸に表れた。

 

4 ボランティア

「新入生の方ですか?」

澄んだ声に振り返ると、ショートカットの小柄な女性が直樹を見上げている。小鹿みたいだなと直樹は思った。

「あ、はい……」

彼女は直樹の腕を取り、歩き出している。そのまま腕を組むようにして、たくさんのサークルのブースが並ぶキャンパスの中を、直樹は離れたブースまで連れて行かれた。もうサークルは決めたか、学部はどこか、などと訊かれる。歩いているうちに現実と地続きになった夢の世界の入口に立たされた心持ちになった。これから訪れる未知の幸福を予感し心が躍った。得体の知れない万能感が全身を覆っていくのに身を任せた。大きく膨らんだ風船が縮み、やがて萎れていくように、その夢想は幻に終わったが、あの時映し出された幻想が、なお自分に力を宿しているのかも知れないと直樹は思っている。

それから二週間、直樹はいくつかのサークルに顔を出し、どこに籍を置くか考えた。テニスやフットサルサークルには素人である直樹でも入れなくはなかった。しかし運動で凌ぎを削る雰囲気と活動の後のいかにもガツガツした先輩たちが仕切る飲み会に、居場所を見つけることができなかった。一方で社会福祉学部のあるその大学には、ボランティア活動が日常的に展開されていた。体育会系のノリに合わない直樹が、それらの福祉系サークルに親しみを覚えたのは自然だったのかもしれない。それらのサークルの中から直樹が選んだのは、児童養護施設に訪問して子ども達と遊ぶことを活動とするサークルだった。Big Brother and Sister、通称「BBS」という名称も直樹は気に入った。所属する学生の殆どが「シャフク」と呼ばれる社会福祉学部の学生で、部室には“シャフク”の講義ノートが置かれ、シャフクの学生たちが単位をとるための虎の巻が本棚に並べられ、教授別にウケるレポートの書き方なども模造紙で壁に貼られていた。経済学部の直樹は少数派だった。

迷いながらも直樹が「BBS」に入会することにしたのは、よこしまな動機があった。サークルの勧誘初日に声をかけてきた杉本明日香という先輩がいたからだ。現役で入学した社会福祉学部二年生の明日香は、一年間浪人した直樹にとって同い年の先輩だった。

しかし、その下心は、膨らむ間もなくしぼんだ。部室から出てきて明日香が廊下で待っていた長身の男と部室のある棟を出て行ったのを見た。二人の歩く様子は、目にも明らかに恋人達の空気をまとっていた。自分が勧誘の時に見せられた明日香の笑顔がすっと霧散した。直樹とて明日香と付き合えるという“勝算”があるはずもなかったが、自分の生活圏に彼女がいるだけで、希望が欠片でもある気がしたのだ。欠片が音もなく砕かれた瞬間だった。明日香の恋人は髪の毛を明るい色に染め、耳にピアスをつけダボダボのシャツとズボンを履いていた。後に大学で一番人気のあるダンスサークルに所属していると知った。


「なーおきー!」

直樹は自分の腰に抱きついてきた少年の頭を撫でた。

「おう、つばき」

「なんで、先週は来なかったんだよー」

つばきという小学四年生の少年は、笑顔で直樹をなじった。

「ちょっと、用があってさ」

「今度、休んだらぜっこーだからねー」

毎週水曜日は授業を午前中で終えて児童養護施設で暮らす子ども達と遊ぶ。そんな日常の一コマが、ボランティアとして成り立つことに始めは驚いた。しかし、そこで暮らす子ども達は各々の事情で、親と暮らすことができない子達で、彼らにとって直樹ら学生達はまさに“大きなお兄さんお姉さん”として生活に欠かせない存在であることも少しずつ分かっていった。

小学生から中学生までの子ども達がいたが、主に直樹が遊ぶのは小学生で、学校の校庭ほどもある広い園庭で、野球のバックネットがあったり、サッカーのゴールがあったりで子ども達の遊び場としては恵まれているように感じた。直樹たちはその広い庭で野球やサッカー、ドッジボールをしたり、鬼ごっこをしたりして汗を流した。雨の日は屋内でカードゲームをしたり、レクリエーションを楽しんだりした。

叶わなかった恋は、直樹にとって新しい世界の扉を開いた。


5 炊き出しの味

「本当にここでまちがっていないのか?」

直樹はポツリと呟いた。ホームレスと思しき男たちが音もなく歩いている。色の褪せたカラー写真でしか見たことのない匿名の街並みが目の前に広がっている。

その日は、先輩から誘いがあり、サークルとは別のボランティア活動に参加することになっていた。

大きなスタジアムの周辺にある繁華街からほど近い一角に、過去のどこかで時の流れが止められてしまったかのような場所があるのかと、直樹は驚きを抱えながら歩いた。しかし自分がその深部に入っていくと思うとその驚きは慄きに変わっていった。

「おーい!」

後ろからのしゃがれた声に、直樹は背筋を伸ばして反応した。振り向くと大柄な中年の男が立っている。直樹を呼んだわけでもないようで、すぐに横を向きふらふらと歩き出した。直樹の鼓動は速まり、背中に汗が滲む。

直樹はすぐに、今日ここに直樹を呼んだ先輩の甘谷に電話をかけた。スマートフォンごしに聞き慣れた眠そうな声が聞こえる。甘谷の指示は、「そのまま進め」だった。ほっとして目に涙が滲む。人の声で、これほど安堵したことがあっただろうか。直樹は気を取り直し、スマートフォンのマップに示された経路を進んだ。安堵のためか、少し体に重みを覚える。昨晩の深酒が抜けきっていないのだ。この街に入り込んだ時に感じた風邪の引き始めのような気だるさが蘇り、ここに来たことを悔いた。甘谷の誘いを断る理由はいくらでも作れたはずだった。

―今からでも甘谷に断りの連絡を入れようか。

逡巡しているうちに、体の醒めたどこかが、街の奥にある気配を感じ取った。さっきまで直視できなかった街並みを見据える。飲み屋や定食屋の店構えが一様に、これまで見たことのない様相を呈していた。古材を寄せ集めて建てたような店や古びた鉄筋で支えられた建物も見られる。

せっかくここまで来たのだ、もう少し知らない世界を覗いてみよう。

男達が背中を寄せ合って歩いている。

「すいません」

人波を泳ぐように歩幅を大きくとって男達の間を進む。

人波の中をしばらく行って、喉の渇きを覚えた直樹は自販機にスマホを翳したが、硬貨を入れることでしかそこでは飲み物を買えないらしかった。小銭を取り出し、八〇円でミルクティを買う。プルタブを折り曲げる。乾いた音が小さく響いた。

ここでなければ嬉しいが、どうやらここに違いない。そんな思いで、グーグルが案内する細長いビルの入り口をくぐる。暗く細い廊下に忍び込んでいき、突き当たりにある階段を上っていく。


「甘谷さん!」

少し詰まった声で見慣れた背中に声をかける。小柄でこげ茶色の天然パーマ。甘谷満が首だけでひょいとこちらを向く。赤いスカジャンを来て段ボールを運んでいる。

「おせえよ!」

甘谷に笑顔でたしなめられる。出会った時から親しみを覚えた笑顔にほっと肩の力が抜ける。三日月のように弓なりに細くなるその目に、抑えてきた眠気も加わって何やら視界がぼやけた。

「すいません……」

ぺこりと頭を下げる。次の瞬間、後ろから拳で背中を押された。

「どーん!」

低音の声とともに重い衝撃が背中に走り、前につんのめる。

「いででっ」

「おせーんだよ、直樹!」

後ろを向くと巨漢が笑っている。秋元太である。さらに、“にかっ”と、歯茎を見せて大きく笑顔をつくる。

「待ってたぞ」

そう言って秋元は握手を求めてくる。

「よしよし」

秋元は直樹の手を力いっぱい握る。昨晩は、秋元に無理に深酒をさせられ、何度もトイレに駆け込んだ。帰りの電車ではもどしかけた。散々吐き気と闘った昨晩は、眠れなかった。甘谷も秋元も直樹と同じように経済学部の学生だ。二人とも四年生で、ともに一年間の浪人生活を経て入学している。しかし甘谷は、二年間留年しているので、秋元よりさらに二つほど年上である。しかし、普段の様子から、二人の関係はフラットで、酒が入るとアルコールに強い秋元の方が態度で圧倒していた。

二人に促され、直樹はすぐに炊き出しの準備に加わった。部屋に入ると、人いきれとあちこちから昇る湯気に迎えられた。直樹はボランティアの人達への挨拶もそこそこに、言われるまま、まな板の上で野菜を切っていく。いつも目にする野菜よりも大きくて形も不ぞろいで、泥や汚れがついている。

「直樹、そんなにちまちま丁寧にやってねえで、大雑把でいいからどんどん速く切って笊にいれんか」

直樹の動きを見て、秋元が肩に一撃を入れてきた。今度は頭突きだったようでさっきよりすこしましだが、本当に痛い。

しばらくすると直樹は次々に運ばれてくる野菜を無心に切って笊に入れていっている自分に気づいた。

どこからやって来たのか見当もつかない、人々や物資が入り乱れて、一斉にどこかに向かおうとしている活気に、そこは満ちていた。それが汗や声や物音に姿を変え、それぞれが綯い交ぜになって直樹を包み、絶えず揺らしてくるのだった。

「よし、直樹、次はその野菜を一階のホールへ運べ」

 言われるままボウルや鍋にぶつ切りにされた野菜を階下のホールに運んだ。味噌の効いた汁物の臭いが鼻孔に乱暴に飛び込んでくる。息を鼻から吸う。胃袋に染み込み、腹が鳴った。ホールには、すでにいくつかの大鍋に豚汁が出来上がっていて、それを目当てに男達が椀を手に列をなしている。彼らの背中からも空腹感が伝わってくる。白髪頭、はげ頭、肩まで伸ばしている黒い髪の頭。どれも他の場所で見る男たちよりも少し小柄に見えるのが不思議だった。この人たちのために自分は野菜を切っていたんだ。そう感じるとともに、二日酔いのアルコールが音もなく抜けていった。


「うまいっすね~」

「やめらんねえだ、これが。仕事の後の豚汁」

秋元がにかっと笑う。

「これが旨いんだ、こういうのがいーんだ」

甘谷がくしゃくしゃに相好を崩して豚汁の汁を飲み込んだ。直樹は息もつかずに一杯目を飲み干した。三人がしばらく黙って豚汁を賞味していると、おもむろに秋元が直樹に訊いた。

「お前、明日香に惚れてんだろ?」

「は?」

呆気にとられた直樹は、とっさに否定したが、二人には見透かされていることも分かった。

先輩二人曰く、去年も多くの男子学生が明日香を目当てに入会した。中には学期の途中から入会した学生もいた。しかし、明日香に恋人ができると、彼らは気配を消すように幽霊部員となり、やがて退会していった。そんな話を聞きながら、そうはさせないために、二人は自分をこの炊き出しに呼んだと直樹は察した。確かに自分は明日香に思いを寄せていた。万に一つの可能性でもいい、明日香も自分に関心の欠片でももっていて欲しいと心の隅で期待していたのも事実だ。二人の話を聞いて特段落ち込むこともなかったが、胸につかえていた小さな思いを吐き出したくなった。

「もう知ってますって、明日香さん、カレシ持ちですよね。ああいう男が自分は苦手なんっすよ。もちろん明日香さんのカレシさんを見た目だけで判断しちゃいけないのは分かってますけど」

「わかるよ」

 甘谷が頷く。

「実家がコンビニやってるんですけど、ああいう感じの男が駐車場に夜になるとたむろするんで……早く帰れと念じてました」

「念じるだけかよ!」

 秋元が直樹の肩にパンチを入れる。

「……はい」

 甘谷は声を立てて笑っている。

「それと、もう一ついいっすか? 自分、BBS辞める気ないんで」

「そうか。その言葉忘れるなよ」

 そう言うと秋元は笑顔でもう一つゲンコツを直樹の肩に打ち込んだ。

欲張らず、身の丈に合った願いを持とう。満たされることが計算できる欲や、叶えられることが予測できる願いを。下心を見抜き、なおも自分を可愛がってくれる二人の眼差しと、直樹の胃袋に溜まった豚汁が、そう諭している気がした。

「カトーサン! 片付けときますから」

 ほんの束の間物思いに耽っていた直樹の横で、甘谷が大きな声で誰かを呼び止めた。空になった椀を持った初老の男が立ち止まった。甘谷が座ったまま手を差し出す。

「ん、わるいな、あまちゃん」

 男が持っていた椀と箸を甘谷に手渡す。甘谷はそれを受け取った。

「カトーサン、また来てよ」

 男は黙って甘谷の横にいる直樹に視線を移した。男と目が合ったが、直樹は目を逸らし、何も残っていない椀の底を箸で撫でた。


「今日どんなこと感じた?」

帰り道で秋元が直樹に訊いた。

「いや、なんかすごかったです。最初、野菜がきたなく見えたんです。こんなにいびつな形の野菜とか土がつきっぱなしの野菜、食べられるのかなって……でも、豚汁食ったら、めっちゃ旨かったです」

 秋元は歯茎を見せながら笑って聞いている。

「あとは?」

「……あとは、なんか上手く言えないっす。まだ言葉にならないって言うか」

 秋元は立ち止まり、おもむろに直樹に向き合った。直樹も合わせて秋元に向き直る。

「まあな、二日酔いの中、よくがんばったじゃねーか。俺とあまちゃんが大切にしてることを一つ教えよう。そこで会う人たちの名前を覚えて、目を見て話すってこと」

 直樹は甘谷が「カトーサン」と呼んだ男を思い出した。瞼の向こうで、まだ男の目が直樹を見ている。

「ま、オガちゃんも、これからいろいろなとこでボランティアするんなら、それだけでも覚えていてくれたら、あまちゃんと俺は嬉しいかな」

よこしまな気持ちで足を踏み入れたボランティアの世界だったが、直樹の日常にその世界が息づくのを快く感じるようになっていった。水曜以外の平日はバイト、水曜日は養護施設、土日は電車を乗り継いでボランティア。バイトとボランティア、その二つが両輪となって直樹の学生生活は軌道に乗って走り出した。


 6 広がる視界

「いつも、いろんなボランティアしてるのね」

 掲示板の前で張り紙を見ていた直樹に、学内にあるボランティアセンターの職員が声をかける。

「あ、はい」

「ネットから申し込む人がほとんどだけど、まだここも役に立ってるのもうれしいな」

「ここにしかない珍しいボランティアもあるんで……」

「次はどんなことするの?」

「隣の市の図書館で外国の人に日本語を教えるのと……近くの公民館で手話を教えてもらって……えっと……」

 直樹の説明をよそに、職員はいつの間にかそこから姿を消していた。

 BBSを足場にして、直樹は他のボランティアにも手を伸ばした。

部室にもほとんど顔を出さず、飲み会にも滅多に参加しない付き合いの悪い自分。秋元や甘谷のように一緒にいる人たちを楽しませたり和ませたりすることもできない自分を受け入れてくれる人々がBBSには確かにいる。そんな安心感が直樹を自由にした。

活動をするその場その場で、新しいことを覚え、そこで会う人達と様々な経験を経て、次の活動へ移る。それはレベルを上げながら次のステージへ進んでゆくロールプレイングゲームに似ていると思った。

直樹を活動へ突き動かすものは、活動そのものへの興味もさることながら、そこに集まる人と何かを共にできるという期待だった。各々の場所に集う人の中には大学の授業で単位を取得することを目的とする学生もいたが、多くの人は、純粋に困っている人を助けたいという思いで活動に参加していた。男性も女性も同じくらいいたし、驚いたことには白髪の老人もいた。

「なんかさ、分からないんだよね。自分からお金も貰わないで働く人の気持ちがさ~」

「そう、そのモチベが知りたい。しかもさ、もし本当に必要な仕事なら、誰かがお金出すっしょ?」

「やってる人には悪いけど、突き詰めていくと偽善なんじゃない?」

 ボランティア概論の講義中、後ろに座る三人組の学生の言葉を今も直樹は覚えている。そういう考えがあるのも、ボランティアをして初めて知ることだった。しかし、ボランティアの現場に集う人たちは、自腹で電車賃を工面し、時間を捻出し、そこへやって来る。直樹は、尊敬とはどこか違う憧れを、そこで出会う人々に向けるようになっていた。活動の場で、直樹の目に留まる女性の多くは明日香がそうであるように薄化粧だった。もし自分が女に生まれていたら、薄化粧でボランティアに参加していただろうとほろ酔いで帰る途中で想像した。電車の窓に映る自分の顔に化粧を薄く塗り、笑いをこらえた。

一方、サークル活動で一緒に遊ぶ子どもたちは毎週水曜日に遊びに来る直樹たちを待ちわびていてくれた。直樹も子どもたちと過ごす時間が楽しかった。活動後に催される飲み会も秋元が虎にならなければ、大概は和やかだった。大体は皆が好きな分だけ飲んで、話して、三々五々それぞれの時間で帰る。直樹は参加するのはまれだったが、参加するとだいたいビール一杯だけ飲んで会を後にした。帰りの電車の中で、車窓から夜の街を眺めたり、中吊り広告の文字を目で追いながら、ぶら下がるように体をつり革に任せる。他の乗客と目が合い、すぐに逸らす。そんな普段なら何の意味も帯びないことの一つ一つが普段よりも直樹を大切に包んでくれた。

 


 7 恋心

大学二年生になった頃、直樹には気になる異性が三人いた。一人はBBSの先輩の神永泉だった。会計を務めるしっかり者だが、意外に抜けているところもありサークル仲間の中では天然系で親しまれる人気者だった。部費を期日どおりに納めない直樹に催促するのも物言いに角がなく、直樹の肩や腕に軽く触れ、笑顔で「ちゃんと払ってよ」と甘えるように言ってきた。ふくよかな体つきも直樹の好みだったので、滞納している方が得な気がした。それもあって直樹は毎月のように部費を遅れて払った。もう一人はティッシュ配りのアルバイトで知り合ったフリーターの加奈子だった。加奈子は直樹と同い年で高校卒業後定職には就かず、いろいろなアルバイトを掛け持ちしていた。ティッシュ配りのアルバイトで顔を合わせた日に、加奈子の方から連絡先の交換を求めた。その後時々一緒に食事に行ったり映画を観たりした。茶髪のポニーテールが揺れるのが直樹は好きだった。直樹の恋人になったのはBBS同期の春日部凛だった。凛は直樹から見ると、いかにもシャフク系の女子だった。小柄だが背筋が伸びていて姿勢がぶれない。肩まである黒髪を決まって一つに束ねていた。視線は遠くを見て、トートバッグを右肩にかけて決まった歩幅でキャンパスを歩いていた。入会当初からしっかり者で隙のない彼女のどこに自分は惹かれたのか今ひとつ分からなかった。

初めて凛と二人だけになった日は、夏休み中最後の飲み会とあって直樹は珍しく最後まで飲もうと決めていた。凛が直樹の隣に座ったが、どちらも話しかけなかった。他の仲間と話していた。幹事の指示でみんなが席を替えて話す相手を変えるタイミングが来ても凛は直樹の隣から動かなかった。直樹も凛に合わせるように動かなかった。どれくらい経った頃だろうか、直樹は凛の肩が自分の肩に度々触れることに気がついた。小さく少し尖った肩の骨がコツと当たったり、少し擦れるように触れたりする。かと思うと少し長い間、もたれかかったりした。いつもなら一次会で切り上げるはずが、その日は集まりから離れたくない気になって、自然に二次会に顔を出すことにした。一次会がお開きになり、会計を幹事に手渡した直樹が仲間より先に出て店の外で待っていた。

そこへ軽い足取りで誰かが小走りに出てきた。

凛だった。

「ちょっと~」

酒の強い女だなあ、そんなことが頭を過ぎる。

「こんなとこで待ってたら、ダメでしょ~もっと離れたとこにいると思った」

その動きに迷いは感じられなかった。直樹の手を引くと目で誘う。引かれるようにして直樹は凛と一緒に店の前から消えた。あの蒸し暑い夜、あの商店街の狭い空……

瞬く星。

白いシャツに散らばった水玉。

黒いパンツ。

白い脚。

ヒールが、アスファルトを叩く音。

二人で走る夜の街には、約束されたように明かりが灯っていて、追っ手から逃げる何者かになった気分の直樹を励ましていた。

「どこ、行く?」

そう聞く直樹に凛は答える。

「そんな質問要らな~い」

二人はその先のおでん屋に入り、凛の部屋に帰った。凛は髪の毛も解かずにコップに注いだ水を飲んで勢いよくベッドに倒れ込んだ。

「直樹~。直樹さ~ん」

凛は直樹を試すような目をして口角を上げる。後ろめたさに似た気分と、何かから解放された心地が綯い交ぜになって、直樹は急に苦しくなった。恐る恐るという感じに凛のすぐそばに横になる。凛がくすくすと笑い出す。悪戯っ子のように自分を見る凛の目に、直樹は初めての気持ちを持て余した。直樹二十歳、凛十九歳。ともに大学二年生、夏の終わりの夜だった。


 8 卒業の夜

「かんぱーい!」

「おめでとーございまーす!」

いつも以上に大きな声が部屋のあちこちから上がる。

直樹たちの卒業の日、後輩たちが祝いの席を設けてくれた。少しして、卒業生一人ずつ後輩たちに挨拶をした。BBSでの楽しい思い出やほろ苦い失敗談など、何を話しても笑いに包まれる。

「つぎは、直樹先輩!」

後輩たちから拍手が沸き、直樹は掘りごたつ式のテーブルから立ち上がった。

「えー自分は、BBSのユウレイ部員一号です」

大きな声で言って、場の笑いをとった。

「ちゃんと足が見えますよ! たしかにあんまり顔は見なかったけど!」

駿太郎のツッコミでさらに場が盛り上がった。

「あまり、BBSに貢献はできませんでしたが、自分はこの場が好きでした。この場があるから、他のボランティアに行って、いい経験をさせてもらえました。部費も滞納してたけど、今日払います!」

「おおー」

歓声が上がる。

「卒業式のこの日まできて、ブヒブヒ言うな! 大丈夫だぞ、お前の部費は、俺が何とかしといたから!」

駿太郎が煽る。

「そーだそーだー」

後輩たちもここぞとばかり直樹をからかう。直樹の部費の滞納癖は、皆の知るところとなっていた。時には、凛が立て替えていたことも皆知っている。

「次は、部費を立て替え続けた会長! お願いします」

 割れんばかりの拍手の中、凛が笑顔で立ち上がる。

「みんな、わたし達のためにこんな立派な会を設けてくれて、ありがとう」

 頭を下げることもなく、声を上ずらせるわけでもなく、かと言って目を潤ませるわけでもなく、いつものように満面の笑みで仲間に語りかける凛の姿を直樹は目の前にあるから揚げやフライドポテトを頬張りながら聞いている。

「今のわたしがあるのも、そしてBBSが活躍の場を広げているのも、みんなが自分たちの活動に自信と誇りをもって取り組んでくれたお陰です」

四年生になった先輩たちが就職活動で忙しくなる四月以降、三年生がBBSの運営を任された。凛はその中心となり、福祉系サークルをまとめる連絡会“シャフク連”を仲間とつくり、その会長に就いた。そしてBBSの会長も兼ねて大学全体で、サークル活動の活性化、学生の交流を拡大してきたことも思い出された。副部長になった明朗快活な神川駿太郎と二人三脚でサークル改革を進めた。他サークルからBBSの活動への参加が増えた。同時にBBSからも他のサークル活動に参加する学生も増えた。

凛の話を聞く学生は直樹を除いて皆、凛から視線を逸らさない。直樹は手持ち無沙汰になって、取り皿に残る枝豆を口に放り込んだ。

「でも、一番はありがとうって言いたいのは、やっぱりみんなのいるBBSがサイコーだってこと。わたしはBBSでの経験を生かして地元に戻って働きます。ここで過ごした四年間は、私の宝物です。みんなも四月から新しい生活、楽しんでください」

 最後にぺこりと頭を下げた凛は、変わらず笑顔でみんなを見回す。

「凛りんせんぱーい、こっち向いて!」

 凛は声する方へ顔を向ける。横に立って一緒に写真に写ったり、少し遠くから見たり、各々が凛との別れを惜しんでいるのが分かる。

卒業生は直樹以外皆、社会人への切符を手にして来月からは就職先が決まっていることが分かった。中には一月前から会社に研修で出社している者もいて直樹は驚いた。

二次会になると、酒好き、付き合い好きの馴染みのメンバーが顔を揃えるのも、これまでと同じだった。男子学生はスーツのネクタイをいつの間にか外していたし、卒業式に決めていた和装の女子部員たちの大半は着物が窮屈だと先に帰ったが、残っていた女子たちの着崩す様が何か艶めかしく、普段の二次会とは少し違う自堕落な空気が漂いだしていた。

「なあ、直樹はどうして就職しなかったんだ?」

どこからともなくそんな声が聞こえる。

「どこかの企業に入れるはずだったんじゃないのか?」

もちろん聞こえてはいるが、上の空で聞き流すのも雰囲気を壊すので、適当に返事をする。

「『働いたら負け』って嘯いてるヤツがいてさ、そいつに付き合ってやったんだよ」

「ああ、いるよなそういうやつ」

「わたしもその気持ちよく分からないでもない」

いつの間にか卒業生の何人かがその話の輪に加わり、たけなわになっている。

「どういうことなんかさっぱり分からん。ただの現実逃避なんじゃないの?」

「人によるでしょ?」

「本当に人に使われるのが嫌で、自分で会社を興すやつもいるやん」

「でも、一度会社に入って社会を知ってからでも遅くはないんじゃないか?」

「いや~一度会社に入ったらなかなか抜けられないぞ」

「それくらいで会社抜けられないやつは最初から会社なんて興せないの」

「直樹は実家のコンビニを継ぐんだろう?」

「いや、それこそ負けだよ。あんな親父のコンビニを継いだところで奴隷みたいに搾り取られて終わりだ」

「そうなん?」

「儲けのほとんどが、本社に持ってかれる」

「そんなもんなのか」

 直樹はテーブルの向い側の隅で珍しく静かに座っている凛を視界の隅に置きながら話しを続ける。凛は隣に座る三年生の小沢糸の話を何も言わずに頷きながら耳を傾けている。糸は今はサークルの副代表を務めていて、小柄な体で小股で歩く様が、直樹はついテントウムシを思い浮かべてしまいテン・トウコというあだ名をつけた。すぐに凛にひどく叱られたのを思い出した。

「ホント、肩の荷が下りた・・・・・・」サークルの運営を後輩たちに引き継いだその夜、二人で大学近くのファミレスで夕食を摂っていた時にこぼした彼女の姿が浮かんだ。解放感と疲労感がない交ぜになった感慨が少しやつれた凛を艶めかしく見せている。これまでの苦労話をひとしきり話した後、テーブルに突っ伏して眠ってしまった凛を見ながら、普段愚痴や弱音の類を一切見せない恋人の新しい一面を見た気がし、胸の中に初めて感情が湧いた。飄々とした風に見せていても、この肩にいろいろなものを背負って進んできた。そう思うと直樹はこれまでよりも凛のことが愛おしく思えた気がし、向かいに座り眠り始めた恋人の頭をそっと撫でた。黒く真っ直ぐな髪の毛がさらさらと指先に触れる。蛍光灯の光がその一本一本を照らす。今流れている時間が、ずっと続いて欲しいと感じるほど、なぜか愛しく思えた。

朝五時になっても目を覚まさない凛を負ぶって、朝もやの中を歩いた。あえて遠回りして、途中列車の通る線路を見下ろす道を歩いてみた。まだ街の起き出す前にも意外と多くの通勤客が改札からホームに吸い込まれるように流れていくのを眺める。社会人になることが凄いことなのかえらいことなのか、分からない。しかし、あの無言の行進の中に馴染んでいけるための何かが今の自分の内には見つけられない、と直樹はあの時確かに思った。

―就職。そんな世界とは自分にはまだ距離がある。ニートとも違う。今の自分にちょうどよい在り方は、一体何者になることなのだろう。そんな思いをそのままに、横顔だけで正面を見せない恋人に聞いてみたかった。

この後、二人で凛のアパートに行くことになっているのだ。今夜は帰らないと、直樹は家には伝えてある。彼女とこれまで通りにいられるのも今日が最後かと思うと、どことなく心許なさが自分の胸を冷やす。周りの喧騒をよそに、直樹の意識は凛とのこれまでに吸い寄せられるように向けられていく。

いつかの凛との会話が蘇る。

「凛が俺に気があるなんて、全然思わなかったよ」

「そういうところなんだよね」

「は?」

「子どもの気持ちはよく分かるのに、女心はどうして分からないの?」

凛は本気で怒っているように見えた。

「どうした? 急に……」

「ほんと、いつもそうだから」

直樹は、機嫌を損ねた凛をなだめる言葉を見つけられなかった。

凛はサークルの顔、自分はサークルの何だろう? 凛とは反対に日の当たるところに敢えて背を向けてきた。誰とも群れない、何にも染まらない。それでも、凛とは同じ道を歩んできたと思ってきた。頭がぼんやりとしてきたので天井を見上げると、四角い枡のような面白みのないデザインにさらに酔いが回る。

凛が先を行っている。

一向に自分の方に視線を向けない恋人の横顔を眺めているうち気持ちが重くなる。

やはり、俺は……。

そんなことはない。

あいつはあいつ、俺は俺だ。

 凛はいつの間にか化粧も馴染むようになり、もうすっかり大人の女に見える。

四月からの遠距離、うまくいくだろうか?

思い出に浸っていたい胸は、不安でいっぱいになった。不安を掻き消すように、直樹は凛との楽しい思い出を自分の中に探し始めた。


 

九 まほろば 

「お帰りー」

 ランドセルを背負って勢いよく入ってきた男の子を直樹はそう言って迎える。

「なおきー!」

 小学三年生の倉田幸太郎は、走ってきて直樹とハイタッチした。

「ほら、幸太郎、ランドセルをロッカーにしまって」

 ランドセルを捨てるように置いて、庭に出て行こうとする幸太郎をたしなめる。

「なおきー。それくらいやっといてくれてもいーじゃん」

そこへは毎日学校帰りの小学生たちがやって来る。卒業から二年あまりは、家から近い場所にある学童保育「まほろば」で働いた。

彼らの多くは親が共働きであったり、幼い弟や妹がいて両親が関わる時間がとれないというケースが多かった。そこに預けられる子どもたちは、大学生時代に出会った子達とは違い皆、保護者である親がいたが、皆に大人である自分を求めているように感じられた。

 「まほろば」は、4LDKの一軒家を改修した学童保育で、閑静な住宅街の一画にあった。塀に囲まれた家屋の一階には簡単な料理ができるキッチンがあり広いリビング部分は子ども達の遊び場になっていて、二階にも部屋が三つあった。

 五月の最終週の金曜日は“まほろば祭”と呼ばれる祭が開かれる。一週間前から段ボールで家を作ったり、折り紙や風船のプレゼントを用意したりで忙しかった。いよいよ本番を明日に控えて、直樹は子ども達と準備に勤しんでいる。

「あのさ、直樹。明日は絶対許せないやつが来るんだ……」

「なんて?」

 直樹は後ろから話しかけてくる小学五年生の拓海の声を背中越しに聞く。

「オレを悪者あつかいしやがって……」

「ん?」

 直樹は振り向いて拓海を見る。

「ゆるせねー!」

 拓海は何度か握り締めた拳をダンボールの壁に強くぶつけた。

「おい、拓海」

 段ボールハウスを出て行った拓海の背中を追って、直樹は廊下を走る。下に転がっていたクレヨンを蹴飛ばす。誰かが直樹を呼んでいる。玄関を駆け出していく拓海を見失わないように急いで靴に足先をつっこむ。

「たくみー」

 靴のかかとを踏みつけながら玄関を出ると、直樹の視界には、大きく開け放たれた門だけが見える。そのまま門を出て姿の見えない拓海を追う。住宅街の中のブロックを二つ行ったところで直樹は急いで踵を返した。

「はあ……」

直樹は門まで戻って来て、門の端を叩く。

「すみません、職員のみなさん」

 直樹は、玄関に戻りそこから中に声をかける。

 木村と高坂、二人の職員が何かを察して集まる。

「拓海が出て行きました。少し出て探しましたが見つかりません。これから探しに行かないといけないと思うんですが、どうしましょう」

「どんなことがあったの?」

 木村が直樹に説明を求める。

「段ボールハウスを作っていた時に、急に怒り出して、走って出て行きました」

「それ以外は?」

 直樹と高坂は外に拓海を探しに、木村は残って他の子ども達を見ておく。木村の指示でそれが決まると、直樹と高坂は近隣の住宅街の中を手分けして探した。二十分ほどして直樹のスマートフォンに拓海が戻ったと知らせが入った。

「拓海は?」

先に戻っていた高坂に訊く。

「あそこ」

 声を潜めて高坂が視線を向ける。その先には床にあぐらをかいてカードを並べている拓海がいる。

「おい!」

 拓海に近寄ろうとする直樹の腕を高坂が咄嗟に掴む。振り向くと高坂が「行くな」と目で訴えている。

「今は落ち着いてるから……」

 帰って来た拓海は落ち着きを取り戻していたらしい。事情を聞き取った木村によると、明日の開放日に拓海の通う小学校のある先生が来ることを他の子から聞いたことが引き金となって拓海は飛び出していったそうだ。それを聞いた木村は、その先生が訪れる時間、拓海は木村が近くの公園へ連れて行くことにした。

「それで拓海は納得したんですか?」

「見れば分かるでしょ?」

「意外です」

「そう?」

 高坂はそう言って二階の部屋へ階段を上がっていった。

拓海は今もそうしているように、いつも一人で遊ぶ。そのおもちゃ選びには特有の流行り廃りがあった。一週間ほどプラレールで遊んだかと思うと、次はトランプで神経衰弱をする。使う遊具やおもちゃ自体は他の小学生と変わらないが、その特異点はその遊び方だった。どんな時も一人で遊ぶのだった。トランプの神経衰弱もトランプをきれいに揃えて並べて、一人でする。時には、大人を誘って二人ですることもあるが、拓海なりの基準で相手を選ぶようである。子どもと遊ばせると必ずと言っていいほどトラブルを起こすので、一人で遊ぶように仕向けているとのことだった。

「拓海と同じ保育園だってきいたんだけど?」

 近くにいるりおんを呼び止めて聞く。

「そうだよ、サクラ保育園」

「ちょっと教えてくれる?」

 直樹は腰を折って、りおんに片目をつぶる。

「え~今サラちゃんと遊んでるの~やっとお祭の準備がおわったんだから」

「そうか、そうか、ごめん、すぐ終るから、ちょっとだけ、いい?」

「拓海って、保育園の時から一人で遊んでたの? お友達と遊ぶことはなかった?」

 りおんは記憶を探るように少し視線を宙に泳がせる。

「ん~覚えてないけど……だいたい一人でいることが多かったかなあ」

幼児だった頃の拓海の姿を思い描いた。

拓海は一人で遊ぶことが多かったのではないか。小さなシャベルで砂場で一人で山をつくる。教室の端で絵を描く。拓海には一人大人がついていたのかも知れない。それとも誰もついていなかったのかも知れない。いずれにせよ同年代の友達と遊んだり、協力して何かに取り組んだりした経験は少なかったのだろう。直樹は拓海の未知の過去をそんな想像で埋めたくなった。

「直樹くん、回してくれる?」

サラとりおんが大縄を手に持って外から呼んでいる。

「せーの! いーち、にーい、さーん」

 直樹は庭で大縄を回しながら、窓からリビングの床でカードを並べている拓海をちらちらと眺める。

「はーち、きゅー、じゅー」

 飛び出していったのが嘘のように拓海は静かに床に並べたカードをめくっている。

「にーじゅー、にーじゅいーち」

ぽつりぽつりと降り出した雨に直樹は空を見上げた。

「もー直樹くん!」

 大縄を回すリズムがわずかに狂い、誰かが足をひっかけた。

「ごめん、ごめん。雨も降ってきたから、中に入ろう」

 直樹はサラとりおんの誘いをやんわり断って、直樹の横に座りこんだ。

「拓海、俺と一緒にやらないか?」

「いーよ」

 直樹は拓海と神経衰弱を始めた。五十二枚のトランプを縦に四枚横に十三枚、きれいに並べる。じゃんけんをして負けた方が先にめくっていく。

「つまんねーな」

 直樹が手加減しているのが分かったのか、拓海が言う。そう言われては、直樹も本気を出してカードをめくり始めた。しばらくすると、二人で勝負に没頭する時間が続き、互いに一勝ずつして三回目のゲームが始まった。

「サツイがわいてきた……」

拓海がぽつりと言った。同じ部屋で追いかけっこをしていた子どもがきれいに並べてあるトランプを踏みつけて走り抜けていったのだ。

「おい! こっちはトランプやってるんだから、気をつけてくれよ」

直樹は駆けていった男の子二人の背中に声をかけて、ばらけたトランプを並べ直す。

「おい! こっち来てあやまれよ!」

声を張り上げて拓海は言うが、蹴飛ばして走り去った子ども達に、やはりその声は届かない。

「おい、拓海、おさえろ」

 直樹は慌てて立ち上がって歩き出した拓海を止める。

「どいつもこいつも、むかつくなー」

直樹は自分の言葉が拓海の耳に届いていないことを理解した。直樹に背を向けて部屋を出て行こうとする。

「拓海、落ち着け、おれが言ってくるから」

拓海が上半身を前に傾ける、次の瞬間勢いよく走り出した。廊下では、低学年の子ども達がボーリングごっこをしているのが見える。

「どいつもこいつも!」

拓海の声は、直樹には奇声にすら聞こえた。直樹は追いついて、拓海の両肩を後ろから抑える。ガラス越しに見える廊下では、拓海の異変に気づかずに楽しそうに遊んでいる子ども達が見える。

―このまま拓海の思い通りにしたら何をするか分からない。物が壊れるか、誰かが怪我をするか。

「おい! 拓海、どうした? おさえろ」

拓海は直樹に押さえられて尻餅をついた。

「ごめんな、ちょっと強くおさえすぎた」

直樹は拓海の脇のから手を入れて引き上げようとする。立ち上がって直樹の手を払い、拓海はまたも廊下に出て行こうとする。

子ども達の歓声。

激しい雨音。

雷の轟音。

「おい、拓海、そっちはダメだ」

直樹は拓海を羽交い絞めにして引き戻す。

「さっきの続きをしようぜ」

直樹がそう言うと、拓海の体から力が抜けた。前に屈むような体勢になったので、直樹もそれに合わせて力をゆるめた。落ち着きを取り戻して、元に戻りさえすれば問題はない、直樹がそう思った時だった。拓海の後頭部が反り返り直樹の鼻に打ち付けられた。鼻に走った激痛に、くぐもった声を出し、直樹はうずくまる。顔を上げ、ぼやける視界の中に小さくなる拓海の背中を目で追うが、体はその場から動かせない。鼻の穴から血が出てくる。両手は血で濡れている。小さい子が泣いている。拓海がその子をなじる声が聞こえる。声のする方へ歩こうとするが、立ち止まって側の水道の水で鼻を冷やす。銀色のシンクに鮮血が流れていく。拓海を止めるために大人達が集まっていくのが分かった。



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