46話 少女はまた落ちる
本日もよろしくお願いします。
翌朝。
場所は野蒜の自宅、ペンション『のびのび』の前。
まだ夜が明けきらない蒼い空気の中、野蒜は右手側に広がる深い森を見つめ、深く、長く一呼吸を置いた。
「野蒜、成海ちゃん。……本当に、気をつけるのよ」
背後からかけられた声に、二人は同時に振り返った。
ペンションの玄関先には、野蒜の両親と、そしてミシェルの両親が並んで立っている。
野蒜は、隣に立つ親友の両親を改めて見て、思わず目を丸くした。
(……モデルさん?)
ミシェルの母親は、艶やかな黒髪ロングを後ろですっきりと纏めた、凛とした佇まいの長身な日本女性。そして父親は、それよりもさらに背が高く、燃えるような赤毛に優しい茶色の瞳をしたフランス人男性だった。
ミシェルの、茶色に近い柔らかな毛色や、どこか大人びた知的な横顔は、間違いなくこの母親譲りだ。
「成海、友達をしっかり頼みますよ」
父親が少し低く、けれど温かい声でミシェル――成海に声をかける。ミシェルは「わかってるって、パパ」と少し照れくさそうに笑った。
「佐々木一尉、娘たちを……どうかよろしくお願いします」
野蒜の父の言葉に、最初から同行の準備を整えていた佐々木が、重々しく頷いた。
「責任を持って。……では、行きましょう」
一行は、ペンションの庭から朝露に濡れた森へと足を踏み出した。
佐々木を先頭に、数名の自衛官が周囲を警戒しながら進む。右手には野蒜、左手にはミシェル。二人は昨夜の約束通り、しっかりと手を繋いでいた。
この森に、あの『道』への入り口がある。
数日前。これまでは小さな白蛇に誘われるまま、ふわふわとした足取りで境界を越えてきたが、今回は自分の足で、明確な意思を持って進んでいく。
(……変な感じ。世界が遠ざかっていくみたい)
森に入ってから、まだそれほど歩いていないはずだった。
ペンションの屋根がまだ木々の隙間に見えているような距離。それなのに、唐突に周囲を濃い霧が包み込み始めた。
「……霧? 全員、警戒せよ!」
佐々木の声が響く。自衛隊員たちが一斉に周囲へ銃口を向け、あるいは測定器を確認する。
視界はまたたく間に数メートル先も見えないほどに白く染まっていく。野蒜とミシェルは、互いの手の感触だけを頼りに立ち止まった。
「野蒜、大丈夫? 私、離さないからね」
「うん、ミシェルちゃん。……ありがとう」
霧の向こうで、隊員たちの鋭い声や金属音が聞こえる。
立ち止まり、背中を合わせるようにして周囲を見回す二人。
だが、次の瞬間。
「え……?」
足元の感覚が、唐突に消失した。
地面があったはずの場所が、音もなく巨大な「穴」へと変貌していた。
叫ぶ暇もなかった。
立ち止まっていたはずなのに、重力に引かれるまま、野蒜の体は奈落へと吸い込まれていく。
「野蒜――っ!」
ミシェルの叫び声が耳元で響く。
繋いだ手は、離れなかった。
霧のホワイトアウトの中、二人の少女は互いの手を握りしめたまま、境界の深淵へと真っ逆さまに落ちていった。
「嘘でしょぉ! またこれーー!!」
野蒜の絶叫が、白く染まった森の中に虚しく吸い込まれていった。
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繋いだ手にかかる重力が、ミシェルの温かさだけを現実として伝えてくる。どれほどの時間、落下していたのか。感覚が麻痺し始めた頃、唐突に衝撃が全身を襲った。
「いたたた……」
「……うぅ」
気がつくと、野蒜とミシェルは冷たい地面の上に転がっていた。
ペンションの庭の朝露に濡れた土ではない。もっと硬く、乾燥した、岩のような感触。
野蒜は這うようにして上半身を起こし、周囲を見回した。
「……ミシェルちゃん? 大丈夫?」
「……ええ、なんとか。腰、打ったみたいだけど」
ミシェルも顔をしかめながら立ち上がる。リュックの中身がカチャカチャと音を立てた。
霧は晴れていた。
だが、そこは森の中ではなかった。
天井からは、黄金色に輝く微細な魔力の粒子が、雪のように静かに舞い降りてきている。
前方は、暗い洞窟のような通路が奥へと続いており、振り返れば、そこは行き止まりの壁だった。
落ちてきたはずの「穴」も、佐々木一尉や自衛隊員たちの姿も、どこにも見当たらない。
「……佐々木さんたちは? 穴は?」
ミシェルが不安げに壁を触る。冷たい岩の感触があるだけだ。
「……たぶん、あっち側に取り残されたんだと思う」
野蒜は、自分でも驚くほど冷静に言った。
二回目だ。数日前。この場所の手触りは、身体が覚えている。
パニックになっても始まらない。野蒜は一呼吸置き、自身の内側にある黄金色の魔力を意識した。
その魔力を、視覚へと反映させる――。
(……見えた)
野蒜が目を凝らすと、岩壁のあちこちに、血管のように細く、しかし力強い魔力の線が走り始めた。その光の筋は、全て洞窟の奥、暗闇の彼方へと向かって流れている。
「……いたーい。もう、何なのよ一体」
腰をさすりながらぼやいているミシェルに、野蒜はそっと近づいた。
「ミシェルちゃん。……あそこ、見て」
「え? 何も……」
「集中して。……魔力の流れを、感じるの」
野蒜の言葉に、ミシェルは半信半疑ながらも暗闇の壁に目を凝らした。
五年前のAR以降、世界には魔力が満ちている。魔法は使えずとも、誰もが微かにその気配を感じ取れるはずだ。
「……あ」
ミシェルの瞳が、驚きに見開かれた。
最初はただの岩壁に見えていた場所。そこに、ぼんやりと、けれど確かに黄金色の光の線が浮き上がり、静かに、けれど淀みなく奥へと流れていくのが見えたのだ。
「……綺麗」
ミシェルが、思わずといった様子で呟いた。
その黄金の光は、恐ろしい場所というよりは、何か神聖な、世界の血流を見ているような、圧倒的な美しさを持っていた。
「よし!行こうか!ミシェルちゃん!」
野蒜は、ムフーと「カッコいい女」の笑みを浮かべ、ミシェルに向かって右手を差し出した。
カッコいい女がムフーと笑うかどうかは定かではないが。
恐怖はある。けれど、隣には、自分の魔法を「綺麗」と言ってくれた親友がいる。
「……うん!」
ミシェルは力強く頷き、野蒜の手をしっかりと握り返して立ち上がった。
二人の少女は、迷うことなく歩き出した。
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