42話 叫ぶ子
グラウンドを埋め尽くしていた白蛇の巨大な質量が、ゆっくりと、光の粒子となって夕闇の中に溶け始めていた。
あれほど世界を絶望に染めていた藤色の霧は、白銀の守護者が一度尾を振っただけで、霧散して跡形もなくなっている。
白蛇は、黄金の光に包まれた野蒜の姿を、まるで仕立て上がったばかりの新品の服を眺めるような、少しだけ満足げな眼差しで見つめた。そして、その荘厳でありながらも、どこか親しみを感じさせる思念を野蒜の脳裏に直接に語りかけてくる。
『……また、我が元へ会いに来なさい。その「器」の真の使い方を教えよう』
野蒜はその温かな声に、少しだけ肩の力を抜いた。初めて会った時の圧倒的な威圧感とは違う、どこか「よく頑張ったな」と言われているような、そんな響き。
「はい。ありがとうございました、白蛇さん」
野蒜がぺこりと頭を下げると、巨大な白銀の守護者は、いたずらっぽく目を細めた。
『うむ。ではな。』
満足げな思念を残し、白蛇は完全に光の中へと消えていった。
あとに残されたのは、粉々に砕け散った土偶の残骸と、静まり返った学校の校庭。
そして、割れた窓際で夕陽の残光を背負って佇む、一人の少女だった。
ミシェルは、腰を抜かしたまま、その光景を呆然と見上げることしかできなかった。
隣で震えていた小学生みたいな親友が、今は光の中にいる。
野蒜が纏っている装束は、これまでの世界の歴史のどこを探しても見当たらない、不思議な装束だった。
基本は清楚な白を基調とした巫女服に近い形だが、生地には見たこともないほど繊細な黄金の刺繍が走り、動くたびにキラキラと鱗のような光を反射している。
だが、何よりも目を引くのは、そのあまりにも大胆なデザインだった。
巫女服を極限までスタイリッシュにアレンジしたようなその衣装は、腰のあたりから左右に深い、あまりにも深いスリットが入っている。野蒜が少し動くだけで、細い足のラインが根元近くまで露わになり、黄金の糸で編まれた紐がその素肌に複雑な模様を描いている。
夕陽の赤が、野蒜の少し大人びた横顔と、その神秘的な装束をドラマチックに照らし出していた。
その姿は、あまりにも神聖で、あまりにも美しく――そして、あまりにも「現実離れ」していた。
(……これ、本当に野蒜なの? 私の知ってる、クレープのチョコを口の端につけて笑ってた、あの野蒜なの?)
ミシェルだけではない。
グラウンドで銃を構えていた自衛官たちも、指が止まったままの黒瀬三佐も、そして窓からスマホを向けていた何百人もの生徒たちも。
誰もが息を呑み、言葉を失っていた。
誰もが、この「現実の仕様変更」の象徴として現れた、美しき魔法少女の降臨に釘付けになっていたのだ。
そんな、歴史に刻まれるべき静寂を破ったのは、当の本人だった。
野蒜が、きょろきょろと自分の服を見回す。
そして固まったあと、ギギギ……と錆びた機械のようなぎこちない動きで、ゆっくりとミシェルの方へ顔を向けた。
その表情には、先ほどまで白蛇と対峙していた時の凛とした空気も、神の加護を受けた者の威厳も、これっぽっちも残っていなかった。
野蒜は、今にも決壊しそうな涙目でミシェルを見つめ、震える唇をようやく戦慄かせた。
「……ミ、ミシェルちゃん……ど、どどど、どうしよう……っ!」
「え? ……何が?」
あまりに情けない声に、ミシェルは間抜けな返事をしてしまう。
野蒜は、自分の太ももまで丸見えになっているスリットを、両手で必死に押さえつけようとした。だが、隠そうとすればするほど、別の場所が強調されてしまうという魔法少女の衣装特有のジレンマに陥り、不自然な内股でガタガタと震え出した。
「めっちゃこの格好……恥ずかしいんだけどおぉぉ!! なんでこんなエッチな感じなの!? なにこの隙間! 通気性良すぎだよ!! やだ、みんな見てる! 佐々木さんも、クラスの子も、みんな見てる!! 死ぬ、恥ずかしくて死んじゃう!!」
「………………」
一瞬。
ミシェルの頭の中が、真っ白なノイズで埋め尽くされた。
すぐに思考が高速回転し、野蒜の思考回路を読み、野蒜の内心を顕にした。
さっきまで世界を救う救世主か、あるいは天界から降り立った女神のように見えていた親友。
しかし今はただの「露出度の高すぎるコスプレを強制させられ、羞恥心でオーバーヒート寸前の女子高生」として喚き散らしている。
あまりのギャップ。
あまりの台なし感。
あまりの「いつもの野蒜」っぷり。
ミシェルの脳内で、神秘のヴェールが音を立てて破り捨てられ、代わりに爆笑のエネルギーが火山の噴火のごとく突き上げてきた。
「……ぷ、っ……!! ふ、は……っ!!」
一拍置いて、それは耐えきれずに決壊した。
「あははははは! なにそれ! あははははははは!!」
ミシェルはお腹を抱えて笑い転げた。
さっきまで命の危険を感じていた恐怖も、異界の門が開いた絶望も、全部どこかに吹き飛んでしまった。
割れた窓の床を叩き、涙が出るほど笑いながら、目の前の「魔法少女」と言うか「魔法巫女」の親友を指差す。
「最高……! 野蒜、最高だよ! マジで神々しくて拝もうかと思ったのに、第一声がそれ!? あははは! 似合ってるわよ、そのスリット!」
「似合ってるとか言わないでよミシェルちゃん! もー!! 私は真剣に悩んでるんだからね! 呪いだよこれ、絶対白蛇さんの嫌がらせだよ! 変態蛇ー!!」
「ちょ、白蛇さんに変態とか言わないの! また出てきたらどうすんのよ!」
「あんなの、もう一回出てきたら今度は私が噛み付いてやるんだから! もー、どうやって帰ればいいのこれ! あとで絶対文句言ってやるんだから!制服返してよおおぉぉぉ!!」
黄金の魔力を纏い、神聖な光を放ちながら、必死に裾を引っ張って「絶対領域」を死守しようとする魔法少女。
そして、その姿をスマホで撮ることさえ忘れて爆笑し続ける親友。
校庭を包んでいた緊張感は、野蒜の叫び声に寄って完膚なきまでに上書きされてしまった。
指揮所では、黒瀬三佐が「あの装束の魔導構成、解析不能……でも、あのスリットの角度は黄金比ね……」と虚空を見つめ、佐々木一尉は「……とりあえず、毛布を持ってこい。早くしろ」と、顔を背けながら部下に指示を出していた。
日も傾き、夕日の中もうすぐ夜のとばりが落ちる。
これが野蒜たちの、そして世界の新しい「仕様」の始まりだった。




