41話 祈る子
窓枠を掴む指先が、白く震えていた。
野蒜の内側から溢れ出す黄金の光は、彼女の必死な思いに応えるようにその輝きを増していく。だが、その光の強さとは裏腹に、野蒜の心は冷たい恐怖に支配されていた。
(……怖い。やっぱり、怖すぎるよ……っ)
つい数日前までは、放課後のチャイムが鳴ればそのまま真っ直ぐ帰り、家でダラダラ過ごすのが当たり前の、部活にも入っていない普通の女子高生だったのだ。
昨日のことだってそうだ。ミシェルと一緒にクレープ屋に寄って、護衛の佐々木さんに「これも警備費用の一環ですか?」なんて冗談を言いながらクレープを奢ってもらった。チョコバナナの甘い匂いと、あきれたような佐々木さんの苦笑い。そんな平和な光景こそが、自分の生きるべき世界だったはずなのだ。
そんな自分が、今、正体不明の土偶と対峙し、空に浮かぶ不気味な「門」を前にしている。
「さっきはとっさに体が動いちゃったけど……私、だって女子高生だもん。こんな、世界を救うヒロインみたいなことなんて、できるわけないよ……」
喉の奥が引き攣り、呼吸が浅くなる。目の前で渦巻く藤色の霧からは、鉄が錆びたような嫌な臭いが漂ってくる。ひび割れた空間からは、この世のものとは思えない巨大な「指」のようなものが、現実の壁をメキメキと剥がしながら這い出そうとしていた。
自分がどうにかしなければならない。そんな強迫観念のような義務感と、今すぐ耳を塞いでうずくまりたいという本能が、胸の中で激しくせめぎ合う。
(私に何ができるの? 魔法の使い方も、戦い方も、何も教わってないのに……)
けれど、野蒜の直感が冷酷に告げていた。
今、ここで自分が何もしなければ、この学校の平穏は二度と戻らない。それどころか、きっと誰かが死ぬ。
隣で腰を抜かしながらも、必死に自分の制服の裾を掴んでくれているミシェルかもしれない。グラウンドで死を覚悟したような顔で盾を構える、あの佐々木さんや佐藤さんかもしれない。窓の向こうで、まだ状況を飲み込めずにスマホを構えている無邪気なクラスメイトたちかもしれない。
(みんなを守る力なんて、私にはない。空っぽの私が、どうやってこんな……)
絶望が視界を真っ暗に塗り潰そうとしたその時、記憶の底から、温かな声が蘇ってきた。それは、かつて両親が寄り添って話してくれた、なんてことのない日常の教えだった。
『野蒜、いいかい。一人だけでなんでも考える必要はないんだよ。誰かを頼ることも、それもまた、立派な勇気なんだから』
そうだ。一人で背負い込むから苦しいんだ。
私は最強の戦士じゃない。ただの女子高生だ。
だったら、女子高生らしく振る舞えばいい。
野蒜は、涙目になりながら隣の親友を振り返った。
「ミ、ミシェルちゃん……っ! どうしたら良いと思う!? 私、もう限界だよ……!」
唐突にパスを振られたミシェルは、驚きに目を見開いた。
「ええ!? 私に聞くの!? わからないわよ、そんなの! 私たちただの高校生よ!? 魔法なんて、昨日から見始めたばかりなんだから!」
ミシェルは震えながらも、全力で言葉を返した。
「普通に考えなさいよ! こんなの、警察とか自衛隊とか……凄い誰かに助けてもらうか、さっさと逃げるくらいしかないんじゃない!?」
究極の正論だった。専門的な知識も、戦術も、何もない。けれど、その「助けてもらう」という言葉が、野蒜の凝り固まった思考をパチンと弾いた。
「そっか……‼︎ そうだよね、助けてもらえばいいんだ! ありがとう、ミシェルちゃん!」
「え? ど、どういたしまして? って、ちょっと野蒜! そんな場合じゃな――」
ミシェルの困惑を余所に、野蒜の瞳から迷いが消えた。
無理に戦わなくていい。自分の魔力だけで土偶を打ち倒す必要もない。
今の自分にできる最大の「出力」は、私の声を、私の「助けて」という悲鳴を、世界の裏側にまで届けることだ。
野蒜は窓枠から手を離し、祈るように両手を胸の前で強く組んだ。
手のひらの中で凝縮されていた黄金の光が、鋭い攻撃的な色から、まるで母鳥が雛を呼ぶような、優しく、けれど気が遠くなるほど遠くまで届く「祈り」の波動へと変わっていく。
(お願い……届いて! 私だけじゃ無理だよ! 誰でもいい、助けて!!)
声にならない絶叫が、黄金の光の柱となって、野蒜の頭上へと突き抜けた。
それは土偶が撒き散らすドス黒い藤色の魔力を一閃して切り裂き、夕暮れ時の空をさらに高く、成層圏を超えて宇宙の果て、あるいは「理の向こう側」へと突き抜けていく。
その瞬間。
ざわついていたグラウンドが、悲鳴を上げていた教室が、無線越しに怒鳴り散らしていた黒瀬の声さえもが――嘘のように、ぴたりと静まり返った。
「……え、暗い?」
誰かがポツリと漏らした。
太陽が雲に隠れたのではない。
月が重なったのでもない。
もっと巨大な、概念そのものを塗り潰すような圧倒的な「質量」が、校舎を、グラウンドを、そして空に浮かぶ「門」の亀裂さえも完全に覆い隠すように、上空に現れたのだ。
あまりの巨大さに、地上へ届く光のすべてが遮断された。世界は一瞬にして夜のような、いや、それ以上に深い静寂の闇に包まれる。
見えるのは、グラウンド中央で不気味に赤く明滅する土偶の光と、野蒜の全身から立ち上る黄金の祈りだけだ。
そして。
――バクっ。
地響きのような衝撃音はない。
まるでお菓子の袋を開けたかのような、あるいは静かな空間で一度だけ拍手をしたような、拍子抜けするほど軽やかな音が、グラウンドの中央で響いた。
何百トン、何千トンという質量が降臨したというのに、地鳴り一つ立てない。物理法則を嘲笑うかのような、あまりにも洗練された、あまりにも神秘的な「動作」。
藤色の霧が爆風で跡形もなく吹き飛ばされ、空を覆っていた闇がゆっくりと晴れていく。再び地上に夕陽が差し込んだ時、そこには異様な光景が広がっていた。
校舎の4階、5階を軽々と超える高さまで鎌首をもたげた、白銀に輝く「山」のような体躯。
それは、グラウンドの隅から隅までを埋め尽くすようにとぐろを巻き、静かにそこにいた。
「……あ……」
野蒜は、窓からその巨大な姿を呆然と見上げた。
夕陽を反射して七色に輝く純白の鱗。鋼のようにしなやかでありながら、絹のように滑らかな質感を湛えたその肉体。そして、夕陽よりもなお深く、温かな知性を湛えた真紅の瞳。
その巨大な「山」が、満足げに喉を鳴らすような音を立てた。
白蛇の口元には、先ほどまで絶望の象徴として野蒜を追い詰めていたはずの土偶が、まるで噛み砕かれた粘土細工のように無惨な姿で転がっている。
「……白蛇さん……」
震える声でその名を呼ぶ。
それは、かつて「道」で野蒜の適性を見出し、色々と教えてくれた存在。
自衛官たちが、そして動画を撮影していた生徒たちが、腰を抜かして声も出せずにその「存在」を見上げる中、白蛇さんはゆっくりとその巨大な頭を動かした。
空に開いた「門」から這い出そうとしていた藤色の「何か」は、白蛇さんが一度だけその紅い瞳で睨みを効かせただけで、恐れをなしたように霧散し、亀裂そのものが修復されるように閉じていく。
巨大な赤い瞳は、人間たちの動揺など意にも介さず、ただ静かに、3階の窓際で涙を浮かべる野蒜へと、その巨大な顔をゆっくりと、慈しむように寄せた。
野蒜の頬を、白蛇の冷たくも滑らかな鱗が優しく撫でる。
その瞬間、野蒜の意識の中に、懐かしくも荘厳な響きが流れ込んできた。
『……善きかな。己が弱さを認め、他者に救いを求めた勇気。それこそが、器を満たす真の光なり』
白蛇の瞳が黄金色に輝き、その光が野蒜の全身を包み込む。
恐怖に震えていた心は凪のように静まり、溢れ出していた魔力は、野蒜の意志を形にするための新たな「器」へと収束していく。
光が収まった時、そこにいたのは、ただの震える女子高生ではなかった。
黄金の糸で紡がれたような、光り輝く装束を纏い、その背に神聖な威光を背負った姿。
「……魔法少女、野蒜……」
ミシェルが呆然と呟く。
夕陽を背に、巨大な白蛇の加護を受けながら、野蒜は自分の中に満ちる新しい力に目を伏せた。




