37話 始まる子
明日から3日間程お休みします。
よろしくお願いします。
12日に投稿します。
スパンッ!
静まり返った夜の自室に、乾いた、それでいて実に心地よい音が響き渡った。
「あだっ!?」
黒瀬三佐が頭を押さえて飛び上がる。その横には、眉間に深い皺を刻んだ佐々木一尉が、振り抜いた手もそのままに立っていた。
「今何時だと思っている! 流石にご迷惑だ!」
佐々木が指差した壁の時計は、日付が変わるまであと30分という時刻を指していた。
あまりに濃密な出来事が続きすぎていたが、本来ならとっくに寝静まっているべき真夜中である。
「……だって、こんな貴重な機会、もう二度とないかもしれないのよ……? 伝達効率10倍超えよ……? ああ、私の論文が……ノーベル魔学賞が……」
黒瀬は情けなくぼやきながら、名残惜しそうに野蒜たちの繋いだ手を眺めていたが、佐々木の冷徹な視線に射抜かれ、それ以上は言葉にならなかった。
「今日はこれで撤収です。野比さん、ご両親、夜分にお騒がせして申し訳ありませんでした」
佐々木が深々と頭を下げる。
その合図とともに、廊下で待機していたSPたちも、機材を抱えた隊員たちも、驚くべき手際で撤退の準備を始めた。
「また何かあれば、すぐに連絡を。……ただし、緊急時以外は明日の朝までゆっくり休んでください」
佐々木は最後に黒瀬の襟首を掴むようにして、嵐が去るように部屋を後にした。
「……あー、びっくりした」
野蒜がポツリと独り言を漏らす。
ついさっきまで大人たちがひしめき合っていた部屋は、再び家族だけの静かな空間に戻っていた。
「……お父さん、本当に見えるわ。カーテンの隙間から漏れてる月光が、なんだかキラキラした粒に見える」
「ああ……。空気そのものが動いているのがわかるな。不思議な感覚だ」
魔力の認知を得た両親は、部屋のあちこちを物珍しそうに見つめ、まだ少し興奮が冷めやらない様子だ。
「ムフー、でしょ? これが私の見てる世界だよ」
自慢げに鼻を鳴らす野蒜だったが、大きくあくびを一つ。
「さて……流石にもう寝ようか。明日も学校だし、お父さんたちも仕事(休業中だけど)があるでしょ?」
「そうね。……なんだか、今日は人生で一番長い一日だった気がするわ」
向日葵が優しく笑い、野蒜の頭を撫でる。
三人はおやすみの挨拶を交わし、それぞれの寝室へと向かった。
横になったベッドの中で、野蒜は窓の外の静かな森を見つめる。
妖精たちはもういないが、そこには確かに「魔力」という新しい息吹が満ちていた。
明日から、この家での生活も、学校での日々も、きっと今までとは違う輝きを持ち始める。
野蒜は心地よい疲れに身を任せ、ゆっくりと深い眠りに落ちていった。
翌朝、野蒜はいつもより少し重い瞼を擦りながらベッドから這い出した。
リビングに下りると、そこには昨夜「開眼」したばかりの両親がいた。
「おはよう、野蒜。……見て、お味噌汁の湯気の中に、小さな光の粒が踊ってるわ」
向日葵が楽しそうに鍋をかき混ぜている。
「ああ、トーストが焼ける時の匂いまで、なんだか色がついているように感じるな」
旅野も新聞を置いたまま、窓から差し込む朝日の反射に見惚れていた。
「ムフー、そうでしょ。……でも、あんまり見惚れてると遅刻しちゃうよ!」
野蒜はSPの車に乗り込み、いつものように途中でミシェルを拾った。
車内は防音と機密が保たれている。野蒜は早速、昨夜の「妖精の乱舞」の動画と画像をミシェルに見せた。
「……うそ、これ、本物?」
ミシェルはスマホの画面に釘付けになり、息を呑んだ。
「本物だよ。私の部屋の窓をトントンしてたんだから。最後は自撮り大会になっちゃったけど」
「……本当に、世界は変わってきているのね」
ミシェルは画面の中で光る羽を動かす小さな命を見つめ、静かに独り言ちた。昨日まで「ただの空想」だったものが、今や手のひらの中の映像として、確かな輪郭を持って存在している。その事実に、彼女は期待と少しの不安が混ざったような表情を浮かべていた。
午後、学校の喧騒を離れ、野蒜は再び「特別準備室」へと呼び出された。
黒瀬三佐の熱すぎる講義か、あるいは佐々木一尉の厳格な訓練が待っているはずだ。
「よし、行きますか……ん?」
校舎の渡り廊下を歩いていた野蒜の足が、ふと止まった。
視線は、窓の外――誰もいない午後のグラウンドの中心へと釘付けになる。
「……あれ、何?」
広大な茶色の土の真ん中。
陽炎のように空間が歪み、そこだけが周囲の景色から浮き上がっている。
普通の生徒たちには見えていないのか、グラウンドの隅で部活動に励む声は変わらず響いているが、野蒜の目にははっきりと見えていた。
地面から、淡い藤色の霧が、まるで呼吸をするようにゆっくりと立ち上っている。
昨夜の妖精たちの清らかな光とは違う、どこか重苦しく、それでいて抗いがたいほど濃密な「魔力」の澱み。
「……佐々木さんに、教えた方がいいのかな」
野蒜はスマホを取り出そうとしたが、その霧は生き物のように形を変え、グラウンドの土をじわじわと変色させ始めていた。




