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34話 観測する子

カサリ、という音に誘われるように、野蒜は窓際に歩み寄った。


中山湖の夜は暗い。野生動物の気配には慣れているはずの野蒜だったが、その時感じたのは、獣のそれとは違う、もっと澄んだ、それでいて圧倒的な「異質さ」だった。


(白蛇さんかな……?)


期待と少しの緊張を胸に、野蒜は勢いよくカーテンを開けた。


「……あ」


野蒜の動きが止まる。


網戸のすぐ向こう側、暗闇を背にして浮かんでいたのは、狐でも狸でも、ましてや白蛇でもなかった。


それは、手のひらに乗りそうなほど小さな、光を纏った「人」の姿。


背中には透き通った羽が生えており、それが微かに羽ばたくたびに、金色の粉のような魔力が夜風に舞う。


「……妖精?」


絵本やゲームでしか見たことのない存在が、今、目の前で小首をかしげて野蒜を見つめている。

野蒜は反射的にベッドに飛び戻り、放り出していたスマホをひっ掴んだ。


(撮らなきゃ! 証拠、証拠!)


現代の魔法少女の行動は早い。

カメラアプリを起動し、震える手でレンズを網戸に向ける。

シャッター音を消す余裕もなかったが、妖精は逃げるどころか、カメラのレンズを不思議そうに覗き込んできた。

カシャリ。

画面の中には、幻想的な光に包まれた小さな少女のような姿が、鮮明に記録された。


「……ムフー! 撮れたぁ!」


野蒜が歓喜の声を漏らした瞬間、妖精は満足したのか、くるりと空中で一回転した。

そして、闇の中へと吸い込まれるように、猛スピードで飛び去っていく。


「あ、待って!」


野蒜は窓に張り付き、遠ざかる小さな光の筋を追った。

妖精が向かったのは、ペンションの裏手にある深い森の方。


「……うそ。あれ……全部そうなの?」


飛び去った妖精の先、森の奥を見つめていた野蒜の瞳が大きく見開かれた。


木々の隙間、暗闇の奥深くに、何十、何百という無数の小さな「光」が集まっているのが見えたのだ。


まるで星が地上に降りてきたかのような、あるいは巨大な光の繭がそこにあるかのような、幻想的で、どこかおどろおどろしいほどの光景。


「あそこ、自衛隊の人たちが『何も無い』って言ってた場所だ……」


野蒜が教えた『道』の先。


野蒜はすぐにスマホを動画モードに切り替え、網戸越しにその姿を捉えた。


ピントが合った瞬間、画面の中で小さな妖精が楽しそうにくるくると舞う。


「よし、バッチリ……」


野蒜が呟いた直後、妖精は夜の森へと矢のように飛び去った。その先には、星を撒き散らしたような無数の光の群れ。

野蒜はとりあえずどうしようか、と考える。


これだけ光り輝いているのに、外にいるはずのSPさんたちが騒ぎ出す気配は一切ない。ということは、あの妖精も、森の奥の輝きも、普通の人の目には「ただの暗闇」にしか見えていないということだろう。


魔力が関係しているのなら、今日一緒に「認知」を広げたあのメンバーなら見えるはずだ。


野蒜は、佐々木のBuLINEアカウントを開いた。


『衝撃!光り輝く謎の物体に迫る!』


ちょっと動画のタイトル風に大袈裟に打ってみる。

さらに、さっき撮ったばかりの妖精の静止画を一枚添付して。


「写真もポチっとな」


ふむ。これでしばらくしたら、真面目な佐々木さんのことだから「これは何だ?」と驚きの返信が来るだろう。


野蒜は良い仕事をしたとムフーとした、大きく伸びをし、もう一度窓の外、幻想的な光景に目を向け……た、その時だった。


「プギープギー!! プギープギー!!」


深夜の静かな部屋に、けたたましい着信音が鳴り響いた。

メッセージの返信どころではない。即、電話である。


「わわっ、びっくりしたぁ!」


画面を見ると、表示は『佐々木一尉』。

野蒜が慌てて通話ボタンを押すと、受話器の向こうから、低く、しかし明らかに緊迫した佐々木の声が響いた。


『野比さん、落ち着いて聞いてくれ。今送ってきた写真は本物か?』


「え、あ、はい。今さっき目の前で動画も撮りました」


『……信じられない。今、君の家の周辺を警戒している部隊から報告があった。君が写真を送ってきたのと同時刻、周辺の空間魔力濃度が異常数値を叩き出している。……だが、現場の隊員の目には何も見えていないんだ』


佐々木の背後で、慌ただしくキーボードを叩く音や無線が飛び交う音が聞こえる。


『画像を見る限り、それは……生物か? 黒瀬にも今共有した。彼女は「高純度の魔力結晶が意志を持って動いている」と言って叫んでいるよ。……野比さん、窓を閉めて鍵をかけ、部屋の灯りを消してくれ。今から応援の車両を向かわせる。いいかい、決して外に出ようと思わないでくれ』


「え、でも、すごく綺麗ですよ? 怒ってる感じもしないし……」


『……君にはそう見えるのかもしれない。だが、我々にとっては「正体不明の異常現象」なんだ。頼む、こちらの指示に従ってくれ』


『いいか、繰り返す。窓を閉め、部屋の隅で待機するんだ。こちらの許可があるまで、絶対に……』


佐々木が指示を言い終えるより先に、野蒜の耳に「別の音」が届いた。


「……あ」


電話の向こうの緊迫した声が、遠くに感じる。

窓の外、森の奥に集まっていた無数の光の群れが、まるで意思を持った一つの生き物のように、ゆっくりとこちらへ動き出したのだ。


「佐々木さん、光が……こっちに来ます」


『なんだと!? 隊員たちからは何の報告も……くそ、やはり見えていないのか!』


光の粒は、風に吹かれる綿雪のように、ふわりふわりとペンションの庭へと流れ込んできた。

暗闇を照らし出す幻想的な輝き。それは、庭の木々に止まり、建物の壁に触れ、そして吸い寄せられるように野蒜の部屋の窓へと集まってくる。

パチパチ、と静電気が弾けるような音が網戸越しに聞こえる。

数えきれないほどの「小さな人」たちが、窓枠に腰掛け、あるいは空中で手を取り合い、一斉に中を覗き込んでいた。


『野比さん! 返事をしてくれ! 何が起きている!?』


「……みんな、窓のところにいます。すっごくたくさん。……あ、一人が窓を叩いてる」


その一人は、さっき動画に撮ったあの妖精だった。

彼女は小さな拳で「トントン」とガラスを叩き、それから野蒜のスマートフォンを指差して、何かを訴えかけるように羽を激しく震わせた。


(……これを見せろってこと?)


野蒜が直感的に、先ほど撮影した動画の再生ボタンを押すと。

妖精たちは一斉に歓声を上げるように(野蒜の頭の中に直接響くような、不思議な鈴の音だった)光を強く放った。


『野比さん! 空間濃度が臨界を突破した! 今すぐそこを……!』


「大丈夫ですよ、佐々木さん。この子たち、多分……」


野蒜は、窓を叩く妖精の仕草を見て、ふと気づいた。

彼女たちは、野蒜を攻撃しに来たのではない。


「……自分たちが映ってるのが、珍しくて嬉しいみたい」


『……は?』


電話の向こうで、佐々木が絶句するのがわかった。

国家の存亡を危惧するほどの異常事態。その正体は、鏡を見たことがない子供が初めて自分の姿を見つけて喜んでいるような、無邪気な好奇心の塊だったのだ。


窓の外では、光の粒たちが「私も映して!」と言わんばかりに、カメラの前で競うようにポーズを取り始めていた。

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