32話 重ねる子
黒瀬三佐が狂喜乱舞し、ミシェルがその輝きに目を細める中、背後でずっと推移を見守っていた佐々木一尉が、静かに一歩踏み出した。
「野比さん。……私も、教えてもらえるだろうか」
その声はいつも通り冷静だったが、わずかに緊張が混じっているのを野蒜は見逃さなかった。現場の指揮官として、未知のエネルギーを「主観」で捉えることの重要性を誰よりも理解しているのだろう。
「いいですよ。佐々木さんも、こっちに」
野蒜は快く頷き、空いた左手を差し出した。
佐々木は一度、自分の掌を見つめてから、壊れ物を扱うような慎重さで野蒜の手を包み込んだ。黒瀬の時のような強引さも、ミシェルのような親愛の情とも違う、規律正しく、それでいてどこか「守る者」としての力強さを秘めた女性の掌の感触。
「……始めますね。ムー……」
野蒜は再び、意識を集中させる。
黒瀬には「穏やかな風」、ミシェルには「穏やかな水」をイメージした。
ならば、常に最前線で部下をまとめ、現実的な問題と戦い続けている佐々木には何が相応しいだろうか。
(……温かい、地面みたいな感じ。どっしりしてて、動かないもの)
野蒜は「揺るぎない大地」のイメージを、自身の魔力に乗せて佐々木の手へと流し込んだ。
「…………っ」
佐々木の肩が、微かに震えた。
彼女は目を閉じ、自分の中に流れ込んできた「異物」の正体を必死に解析しようとしている。
「どうですか、佐々木さん」
「……不思議な感覚だ。熱いわけではないが、血液が急に重くなったような……いや、自分の体の輪郭が、指先よりも先まで広がっていくような感覚がある」
「慣れてきたら、目を開けてみてください」
佐々木がゆっくりと眼球を動かし、瞼を上げた。
その瞬間、彼女の視界もまた、塗り替えられた。
野蒜が右手でプールの上に描き続けていた魔力の残像。
それが、ただの光のゴミではなく、明確な「構造」を持った幾何学模様として、彼女の網膜に突き刺さる。
「……これが、君の見ている世界か」
佐々木の声は低く、震えていた。
彼女に見えているのは、黒瀬が見た「設計図」でも、ミシェルが見た「キラキラ」でもなかった。
それは、空気を物理的に押し広げ、そこに厳然と鎮座する「重力」や「圧力」に近い、圧倒的な存在感を持った『光の壁』だった。
「凄いな……。これを、君は一人で扱っていたのか」
「えへへ、野蒜ちゃんだからね!」
またしても最大限のムフー、である。
だが、佐々木の表情は晴れなかった。彼女は魔力の円を見つめたまま、その先に繋がる「未来」を幻視していた。
「……黒瀬。今の光、記録できているか」
「当たり前じゃない! 三方向からの多スペクトルカメラ、精神物質波形、全部同期させてるわ! ……でも、変ね」
黒瀬がモニターを指差す。
そこには、野蒜が魔力を流した瞬間のデータが表示されていたが、佐々木が手に触れた瞬間、波形に「特有の乱れ」が生じていた。
「野比さん……さっきミシェルちゃんが触れた時もそうだったけど、触れる人間によって、魔力の質変が起きてる。……これは、適性の問題かしら。それとも……」
黒瀬の呟きが、再び不穏な熱を帯び始める。
準備室の中、三人の「観測者」が誕生したことで、魔法という未知の力は、急速にそのヴェールを剥がされようとしていた。
キーンコーンカーンコーン……。
放課後の終わりを告げるチャイムが、静まり返った準備室に鳴り響いた。
そのあまりに日常的な音に、張り詰めていた空気がふっと弛緩する。
「あ、もうこんな時間……」
野蒜が小さく息を吐き、上げたままだった手を下ろした。
それと同時に、佐々木の視界から「光の壁」が消え、ミシェルの前の「キラキラ」も霧散した。そこには、ただの水が入った簡易プールがあるだけの、変哲もない理科準備室が戻っていた。
「……現実に戻された気分ね」
黒瀬が不満げに唇を尖らせ、手元のタブレットに猛烈な勢いでログを書き込む。
「野比さん、今日はここまでにするわ。これ以上のデータは私の脳がオーバーフローしちゃう。……それに、貴女も少し顔色が悪いわよ。大丈夫?」
「え? あ、はい。ちょっとだけ、頭がふわふわするかも……」
野蒜は椅子に深く座り直した。三人にそれぞれ異なるイメージ(風、水、大地)を乗せて魔力を流し続けたのは、思った以上に精神を消耗させていたようだ。
「無理をさせたな。すまない」
佐々木が、気遣わしげに野蒜の肩に手を置いた。先ほどまで魔力を通じて繋がっていたその手は、今はただの、温かく頼りがいのある女性自衛官のものだった。
「佐藤さん。君も今日は付き合ってもらって助かった。……二人まとめて、自宅まで送らせよう」
「えっ、私もですか!?」
ミシェルが目を丸くする。野蒜と一緒に帰る約束はしていたが、まさか自分まで「護送」されるとは思っていなかった。
「当然だ。君は今、国家機密の核心に触れた数少ない民間人だ。動画の件で君を特定しようとする動きもある。安全を確保するのは我々の義務だ」
佐々木の言葉には、一切の妥協を許さないプロの響きがあった。
「……ま、魔法少女の助手も楽じゃないね」
ミシェルは観念したように肩をすくめ、野蒜の背中をポンと叩いた。
「ほら、野蒜。今日は糖分補給が必要でしょ。帰りにクレープ寄らせてくれるかな、この怖いお姉さんたち」
「ムフ、クレープ食べたい!」
「……クレープ屋、か。ルート上の安全を確認させる。黒瀬、撤収準備だ」
佐々木が無線で外のSPたちに指示を飛ばす。
放課後の廊下、部活動に励む生徒たちの声を遠くに聞きながら、女子高生二人は黒塗りの車が待つ校門へと向かった。
SPに前後を固められ、まるで要人のような足取りで歩くミシェルは、緊張しながらもどこか楽しそうに野蒜の耳元で囁いた。
「ねえ野蒜。これ、明日学校でなんて説明すればいいの?」
「えーと……『魔法少女の修行が忙しいから』、かな?」
「……それ、誰も信じないけど、野蒜なら納得されちゃうのが怖いわ」
夕闇が迫る中山湖高校。
異質な知識を分け合った三人の女性と一人の少女を乗せて、重厚なドアが閉まる音が響いた。




