29話 示す子2
すみません。予約投稿が全部1日ズレていたみたいです。
明日からはいつも通りになります。
準備室の空気は、重い沈黙に支配されていた。
野蒜は目を閉じ、昨夜から何度も繰り返しているあのプロセスを脳内で再現する。
(白蛇さんの『道』が見せてくれた、あの「流れ」……)
野蒜の意識の中で、透明な糸のような力が紡がれていく。
それは、白蛇様が「理」と呼んだもの。野蒜はそれを、自分なりに「魔力」という言葉で解釈していた。
円と円が複雑に重なり合う、あの幾何学的な紋様。
野蒜は慎重に、魔力を注ぎ込む速度と方向を調整していく。少しでも流れるリズムが狂えば、形は霧散してしまう。
その場にいる佐々木や黒瀬、そしてSPたちに、野蒜が描いている「形」は見えない。
ただ、彼女を中心に、静電気のようなピリピリとした圧力が膨れ上がり、空気が密度を増していく感覚だけが肌を刺す。
(……外側の円が繋がる)
カチリ、と心のなかで音がした。
最後の一線が結ばれた瞬間。
「え……?」
ミシェルちゃんが、呆然と声を上げた。
密閉された、屋根のあるはずの準備室。
簡易プールの真上の空間、何もない宙から、キラキラと輝く滴が生まれ、静かに滴り落ち始めた。
しと、しと、と。
野蒜の指先に呼応するように、半径一メートルほどの範囲だけに、優しく、けれど確かな「雨」が降り注ぐ。
室内を照らす蛍光灯の光を反射して、銀色の糸のように降る雨。
SPたちも、佐々木も言葉を失ってその現象を見つめた。
精密機器が並ぶ準備室で、そこだけが別の世界に切り取られたような、神聖な静寂が流れる。
だが、その静寂は長くは続かなかった。
「ふおおおおお……ッ!! ふおおおおおおおおおーーーーーーー!!!」
地鳴りのような咆哮が、準備室の壁を震わせた。
黒瀬三佐だ。
彼女はモニターの波形を凝視し、あるいは降ってくる雨に顔を濡らし、狂ったように叫び始めた。
「観測成功! 完全に成功よ!! 質量保存の法則を無視した物質の局所発生! 熱力学第二法則を嘲笑うかのような情報の書き換え! ああ、あああ!! これよ! これこそが私の求めていた『高次事象』よ!!」
黒瀬は激しく身悶えしながら、雨の中へと突っ込んでいった。
眼鏡が水滴で真っ白に曇るのも構わず、彼女は空中で雨を掴もうとする。
「野比さん! 貴女、今何をしたの!? 何を考えたの!? 数式!? イメージ!? それとも神への祈り!? 脳波計が、脳波計がもうお祭り騒ぎよおおお!!」
先ほど佐々木に叩かれたことなど、微塵も覚えていないのだろう。
黒瀬桜という「研究者」の魂が、理性のタガを外して全開になっていた。
「……落ち着け、黒瀬」
佐々木が冷たく、けれどどこか疲れたような声で制止するが、雨に打たれながら踊る三等陸佐の耳には届かない。
野蒜はそっと指を離した。
すると、魔法が解けたように雨は止み、後には濡れた床と、興奮で息を荒くする黒瀬だけが残された。
「……魔法は、やっぱり科学なのかな」
野蒜の呟きに、黒瀬はビショビショの顔を上げ、満面の笑みで答えた。
「そうよ! 科学よ! まだ私たちが知らない、残酷なほど美しい新世界のルールなのよ!!」
黒瀬が興奮した面持ちで雨と戯れる。
30秒もすると雨は止んだ。
黒瀬も動きを停める。
雨が止んだ静寂の中、濡れ鼠になった黒瀬の顔が、ぐりん、とおよそ人間とは思えない角度と速度で野蒜の方を向いた。
「どうやったの! ねぇ! どうやるか教えて!! 思考のプロセス!? 視覚情報の変換回路!? 早く! 全部吐き出しなさい!!」
「ぴ、ぴええぇぇ……!!」
獲物を追い詰める捕食者のような剣幕に、野蒜は椅子の上で縮こまる。
すかさず、佐々木の拳が黒瀬の脳天に振り下ろされた。
ゴンッ! と、本日一番のいい音が響き渡る。
「……あうっ。……ひどい、私、一応これでも貴女より上の階級の上官なのに……っ」
「上(防衛省)からの『野比さんの精神的ケアを最優先せよ』という許可は得ている。不服か?」
「不当な権力の行使よ……! 暴力反対、科学の自由万歳……!」
黒瀬は頭を押さえながらぶつぶつと文句を垂れていたが、佐々木の冷徹な視線に射抜かれ、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻して野蒜に向き直った。
「……コホン。……ええと、今の現象だけど、かなり正確にプールの範囲内に収まっていたわよね。どうやってその『降雨範囲』を指定しているの?」
「えーと、なんとなく? この大きさならこれくらいの大きさの紋様かな、って感じです」
「紋様……?」
黒瀬と佐々木が同時に眉をひそめた。その反応を見て、野蒜は「あ」と声を上げた。
「……そっか。そういえば、二人には『魔力』が見えないんでしたね」
準備室の空気が一瞬で凍りついた。佐々木と黒瀬が、弾かれたように身を乗り出す。
「魔力が、見えているの……!? 視覚情報として、そこに実在していると!?」
「はい。……ええと、というか目で見てるのとはちょっと違うというか、同じように見えるというか、空気の中に流れている線みたいな感じで」
野蒜は手近な紙とペンを借りると、さらさらとペンを走らせた。
だが、頭の中にある完璧な理を書き出すのは難しい。描かれた線は、どこか歪んで曲がっている。
イメージを物理的な二次元に落とし込むもどかしさを感じながらも、野蒜は「まぁいいか」とそれを黒瀬に手渡した。
「ちょっと歪ですけど、こんな感じに魔力を流しています。実際には、この描いた線に沿って、魔力の流れる速度や方向を細かく変えたりしているんです」
黒瀬はその紙を、まるで国宝でも扱うかのような手つきで受け取った。
眼鏡の奥の瞳が、狂おしいほどの渇望に燃えている。
「……素晴らしいわ。この図形そのものが事象の設計図になっているのね。……ねぇ、野比さん。どうすれば、その『魔力』とやらが見えるようになるの?」
「えっ、どうすればって……」
野蒜は首を傾げた。自分にとっては、白蛇様のいたあの洞窟から戻って以来、当たり前のようにそこにある景色だ。
(どうしてたっけ……?)
野蒜は目を閉じ、あの暗い洞窟の中を思い出した。
ひんやりとした壁に指先で触れ、岩肌の奥底に流れる、血管のような熱い拍動を感じ取ったあの瞬間。
「……たぶん、最初は『見る』んじゃなくて、流れに『触れる』こと、かな」
野蒜の言葉に、準備室にいた全員が息を呑んだ。
科学と魔法が、中山湖高校の一角で、音を立てて混ざり合おうとしていた。




