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27話 名を知る子

四時間目のチャイムが鳴ると同時に、教室の緊張がわずかに緩んだ。


だが、野蒜が席を立つと、再びクラスメイトたちの視線が突き刺さる。それを無視して、野蒜は佐藤さんに促されるまま屋上へと向かった。

屋上へと続く重い鉄の扉の前には、すでに先回りした二人のSPが立っていた。


「野比さん、安全確認は済んでいます。我々はここで待機します」


「……あ、はい。ありがとうございます」


SPに見守られながら屋上へ入るという、異様な状況に苦笑いしながら、野蒜はフェンス際へと歩いた。


「……で。どういうことなわけ!?」


扉が閉まった瞬間、佐藤さんが爆発した。


「三日も行方不明になって、日本中が大騒ぎになって……。あの白蛇の動画、本物なんでしょ!? 警察とか自衛隊とか、なんであんなにアンタを囲んでるのよ!」


佐藤さんの目は、少し赤かった。好奇心よりも先に、本気で心配していたことが伝わってきて、野蒜の胸が少し痛む。


「ごめんね、佐藤さん。……本当に、迷子になってただけなんだよ」


野蒜は、できるだけ端折らずに話した。裏山で迷い、白蛇様に会ったこと。「観測者」としての役割を教わっていたこと。佐藤さんは呆れたように溜息をついた。


「……信じられないけど、野蒜が言うなら本当なんでしょうね。証拠がありすぎるし」


「……ちょっと、さっきから気になってたんだけど」


佐藤さんが、ジト目で野蒜を睨んだ。


「アンタさ、さっきから私のこと『佐藤さん』って呼んでるけど、私の下の名前、知ってる?」


「え……」


野蒜は言葉に詰まった。「……さとう、さん?」


「ショック! 親友に近い友達だと思ってたのに! 苗字でしか認識されてなかったなんて!」


佐藤さんは大げさにのけぞったが、すぐに少し寂しそうな顔をして呟いた。


「……まあ、確かに放課後に家に行き来したりとかは、してなかったけどさ……」


その独り言のような言葉に、野蒜はハッとした。学校という境界の中では一番の仲良しだったけれど、それ以上の踏み込みをお互いにしていなかったのかもしれない。

佐藤さんは再び屋上の空に向かって叫んだ。


「いい!? 私は、佐藤・ミシェル・成海なるみ! 覚えなさいよね!」


「……え、みしぇる?」


野蒜は目を丸くした。


「お父さんがフランス系なの! でも説明するの面倒だから、普段はミドルネームなんて言わないんだけどさ……もう、これだから野蒜は……」


佐藤さんは少し顔を赤くして、そっぽを向いた。そんな彼女をじっと見つめていた野蒜は、ポンと手を叩いた。


「わかった。じゃあ、これからは……ミシェルちゃんって呼ぶね」


「……は? 普通、成海ちゃんじゃないの?」


佐藤……成海は虚を突かれたような顔でツッコミを入れた。


「だって、なんかかっこいいじゃん! ミシェルちゃん!」


野蒜は満面の笑みで言い切った。その無邪気な感性に、成海は毒気を抜かれたように肩を落とした。


「……アンタらしいわね。いいわよ、好きに呼びなさい」



(……普通の佐藤さんでは無かったのか……)



富士山の主と対話し、魔法のようなことわりに触れた野蒜だったが、目の前の友人もまた、自分が知らなかった「特別な要素」を持っていた。

二人は並んでフェンスに寄りかかり、中山湖の向こうにそびえる富士山を眺めた。


「……ねえ、ミシェルちゃん。私、明日もちゃんと学校来れるかな」


「来なさいよ。私がボディーガードのボディーガードしてあげるから」


二人の笑い声が、五月晴れの空へと吸い込まれていった。



だが、平穏な時間は長くは続かなかった。




午後の授業へ向かうべく廊下を歩いていた野蒜と成海の前に、白衣をなびかせた一人の女性が猛スピードで現れた。

精神物質取扱基礎実習を担当する黒瀬先生だ。


彼女は野蒜の姿を認めるや否や、SPの制止すら恐れぬ勢いで突進してきた。


「野比さん!!」


「ひょえ、ひょええええ……!?」


野蒜の内心の叫びをよそに、黒瀬先生はガシッと野蒜の両肩を掴んだ。


「……動画」


「え……?」


「あの、動画……ッ!!」


黒瀬先生の喉が、期待と興奮で鳴っている。


「……野比さん。単刀直入に聞くわ。あの動画は、本物なのね!?」


廊下に、先生の叫びにも似た問いが響き渡る。

慌てて割って入ろうとオロオロするSPたち。野蒜は先生の尋常ではない熱量に押され、ただ小さく頷くことしかできなかった。


「……あ、はい。……本物、です。私が撮りました」


まるで犯人の供述のようである。

その瞬間。

黒瀬先生は野蒜の肩を掴んでいた手を離し、天を仰いで拳を握りしめた。


「ああ……!! ついに! ついにこの時が来たわ!!」


彼女は廊下の中心で、全校生徒に聞こえるような大声で絶叫した。


「本当に、魔法はあったんだ!! 幽霊は生物で、現象は数式で証明できる!! 私の研究は、私の妄想じゃなかったのよおおお!!」


狂喜乱舞してその場でステップを踏い始める黒瀬先生。

SPたちは顔を見合わせ、成海は引き気味にその様子を眺めている。


野蒜は悟った。


黒瀬先生。彼女もまた、白蛇様とは別の意味で「ヤバイ奴」だったのである。


「さあ、野比さん! 午後の実習は自習よ! 準備室へ来なさい! 貴女の『観測』したすべてを、私の理論で解体してあげるから!!」


「え、あ、授業は……?」


「そんなものより、世界の真理よ!!」


野蒜は、自衛隊の警護とはまた違う、知的好奇心という名の暴風に巻き込まれようとしていた。


(……ムー。……今日は、おうちに帰るまでが冒険なのかなぁ)


混沌とする廊下で、野蒜は遠くに見える富士山を見つめ、そっと遠い目をした。

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