25話 はじめる子
リビングに流れる、重苦しい沈黙。
スマートフォンの画面の中で、音もなくうねる巨大な白蛇。
野蒜にははっきりと聞こえている「世界の声」が、大人たちにはただの「風の音」にしか聞こえない。
その断絶こそが、今この瞬間に世界が変質した何よりの証拠だった。
佐々木一尉は、手帳を閉じると静かに立ち上がった。
「……野比野蒜さん。貴女の話は、現時点では信じるほかありません。富士山にあれほどの質量を誇る『生命体』が実在し、貴女を送った光景を、我々の偵察機が捉えている以上は」
佐々木は一度窓の外、ヘリの音が響く夜空を仰ぎ、それから野蒜の両親へ向き直った。
「ご両親。大変な心労かと存じますが、お嬢様を今すぐどこかの施設へ隔離するような真似はいたしません。……いえ、現時点では『できない』と言ったほうが正しい。
彼女は、あの白蛇……富士山の主と対話できる唯一のパイプです。無理な拘束は、あの巨大な存在を刺激しかねない」
佐々木は野蒜の前に歩み寄り、その小さな肩にそっと手を置いた。
「野蒜さん。貴女には、明日から普通の学校生活に戻ってもらいます。ただし、我々の『護衛』がつきます。
それから、そのスマートフォン。
その動画を、我々の解析チームにコピーさせてください。
いつか誰にでも『聞こえる言葉』へ変換する助けになるかもしれない」
野蒜は、少しだけ考えた。
白蛇の言葉を思い出す。――
『小さな波で良い。そなたの出来る範囲で』
「……わかりました。でも、条件があります。私が、この動画を……『編集』して、ネットに上げてもいいですか?」
「……は?」
佐々木一尉が、今日初めて呆然とした顔をした。
「白蛇様が言ったんです。恐れを生まない形で伝えろって。
自衛隊の難しい発表より、たぶん、私のVログみたいな感じの方が、みんな怖がらないと思うんです」
沈黙。一等陸尉と、女子高生が、数秒間見つめ合う。
やがて、佐々木は観念したように短く息を吐いた。
「……内容の検閲はさせていただきますが、よろしいでしょう。『広報』の一環として検討します」
玄関の重い扉が閉まり、外で待機していた車両のエンジン音が遠ざかっていく。
ようやく家の中に家族三人の時間が戻った。
両親は、どっと押し寄せた疲労に崩れ落ちるようにソファへ座り込む。
野蒜はその様子をじっと見ていたが、ふと思い出したように、三日前のままのカバンを握り直した。
「……あ」
その声に、父・旅野と母・向日葵が顔を上げる。
野蒜は、かつてないほど真っ直ぐに二人を見つめ、一歩踏み出した。
「お父さん、お母さん。……ただいま」
その言葉が、静かなリビングに響いた瞬間。
張り詰めていた空気が、音を立てて解けていく。
向日葵の目に、再び涙が溢れた。
旅野は眼鏡を外して目元を覆い、何度も、何度も頷く。
「……ああ。おかえり、野蒜。本当におかえり」
「おかえりなさい……。よく、頑張って帰ってきたわね」
もう一度、今度は自衛隊も白蛇も関係ない、ただの家族としての抱擁が交わされる。
その温かさと、少しだけ料理の匂いがする家の空気に、野蒜の胸の奥がじんわりと熱くなった。
数時間後。
両親は疲れ果てて眠りにつき、野蒜は一人、自分の部屋のベッドに転がった。
窓の外には、月明かりに照らされた富士山のシルエットが見える。あそこに、あの大きな白蛇が今も巻き付いている。
「……観測者、かぁ」
野蒜はスマホを取り出し、動画の編集を始める。
タイトルは、もう決めてあった。
『【驚愕】裏山で迷子になったら富士山の主(白蛇様)に会った件について【世界終了?】』
「ムフー。……ちょっと盛りすぎかな? まぁ、波紋は大きい方がいいし」
夜の静寂の中。
中山湖のほとりから放たれた小さな波紋が、新しく重なり合った世界へと広がっていった。
とりあえず第一章を終了します。
まさか、自分がこんなに描けるとは思いませんでした。
楽しくできれば良いなと思っています。
とりあえず2〜3日休憩したらまた書き始めます。
オリンピックが見たいのです。
よろしくお願いします。




