17話 選ぶ子
野蒜は、進むと決めた。
はっきりと言葉にしたわけじゃない。
誰かに宣言したわけでもない。
ただ、心の奥で、
「行く」
と、思った。
その瞬間だった。
周囲の光が、すっと落ちる。
さっきまで生い茂っていたジャングルの輪郭が、闇に溶けていく。
「……あ」
驚く間もなく、暗闇の中に一本の道が浮かび上がった。
淡く光る、細い道。
足元だけを照らすように、先へ先へと伸びている。
「……選べ、ってことか」
野蒜は、立ち止まったまま、その光を見つめる。
進むと決めたから、道が現れた。
つまりこれは――与えられたものじゃない。
自分で選んだ結果、出てきたものだ。
ふと、違和感が胸をかすめた。
「……そういえば」
どれくらい、時間が経ったのだろう。
ジャングルに入ってから。
洞窟に落ちてから。
それとも、最初の台座に立ってから。
まったく分からない。
それなのに。
お腹が、空いていない。
喉も渇いていない。
トイレに行きたいとも思わない。
「……なんでだろ」
疲れているはずなのに、限界じゃない。
眠くもない。
時間が止まっている?
それとも、自分だけが違う?
考えても答えは出ない。
でも、不思議と怖くはなかった。
光る道の先に、視線を戻す。
一歩、踏み出そうとして――
ふと、胸の奥が、きゅっと締まった。
家族の顔が、よぎる。
「……今ごろ」
もしかしたら。
大騒ぎになっているかもしれない。
失踪。
行方不明。
警察。
ここまで来る間、ほとんど考えてこなかったことだ。
考えないようにしていたのかもしれない。
「……心配、してるよね」
その考えが、急に重くのしかかる。
思い出す。
昔。
まだ野蒜が小学生だった頃。
親に怒られて、夜、家の外に出されたことがあった。
中山湖の夜は、街灯なんてほとんどない。
月も出ていなければ、ほんとうに真っ暗だ。
親は、きっと思っていたのだろう。
すぐに泣いて戻ってくる、と。
謝って、許しを乞う、と。
でも、野蒜は――そのまま、山に行ってしまった。
当時の記憶は、あまりはっきりしていない。
ただ、祖母に連れられてよく山に行っていたこと。
秘密基地を作って、一人で遊んでいたこと。
「……行ける」
そう、自然に思ってしまったのだ。
夜の山に一人で入っていった野蒜に気づいた時。
血の気が引いたのは、両親のほうだった。
地域の人に知らせて。
必死になって探して。
でも野蒜は、気づいたら、家に帰っていた。
両親は、泣きながら謝った。
怒ったのではなく、謝った。
その時の野蒜には、
なぜ自分が謝られているのか、分からなかった。
ただ泣いていた顔が忘れられ無い。
両親の必死な泣き顔。
もうこんな顔はさせたくないと思った。
「……ああ」
今なら、両親の気持ちが少しだけ分かる。
帰れないかもしれない、という不安。
何が起きているか分からないまま、待つ時間。
「……同じ、か」
自分は今、あの時の自分と同じことをしている。
そして、両親は――あの時の両親と同じ場所にいる。
野蒜は、ぎゅっと拳を握った。
ただ、そこにある。
「……選ぶ、んだよね」
戻りたい気持ち。
進みたい気持ち。
どちらも、本物だ。
野蒜は、深く息を吸った。
そして。
野蒜は、光の道を進む。
足元は確かに道だ。
けれど、石でも土でもない。
光が固まったような、不思議な感触。
登る。
しばらく登る。
気づくと、少しだけ下る。
また登る。
そして、また少し下る。
それを、何度も繰り返す。
「……結構、歩いてるよね」
声に出してみるが、返事はない。
足音だけが、淡く響く。
振り返る。
――何も見えない。
さっきまであったはずの道は、光の中に溶けて消えている。
後ろには、ただぼんやりとした明るさがあるだけだ。
「……戻れない、か」
多分。
きっと。
戻ろうと思えば戻れる、という感じじゃない。
そもそも、「戻る」という選択肢自体が、もう用意されていない。
野蒜は前を向き直る。
歩く。
ただ、歩く。
どれくらい時間が経ったのか、分からない。
疲れも、空腹もない。
歩いているうちに、頭の中が静かになっていく。
考え事が、勝手に浮かんでは、流れていく。
――コロ。
ふいに、そんな名前が浮かんだ。
飼っていた犬。
ブルーアイズのハスキー。
でかくて、毛が多くて、やたら元気だった。
「……懐かしいな」
散歩中、熊に出くわしたことがある。
偶然、ばったり。
あの時。
野蒜の前に、コロが飛び出した。
吠えて、体を張って、時間を稼いでくれた。
「……ヒーローじゃん」
本気で、そう思った。
別の日。
同じく散歩中。
今度は――イノシシ。
「……あれは、怖かった」
中山湖では、熊よりイノシシの方が恐れられている。
何せ、でかい。
本当に、熊よりでかい。
その時。
コロは――逃げた。
一目散に。
リードを持つ野蒜の手を振り切って。
「……あのヤロウ!」
必死に逃げて、木の間を転びそうになりながら家に帰った。
息を切らして、帰ってきて小屋を見ると。
コロは、ちゃんと中にいた。
何事もなかった顔で。
「……」
思い出すだけで、腹が立つ。
その後。
多分、人生で最初で最後だ。
犬相手に、本気でケンカをした。
多分コロは手加減していたが。
……でも。
野蒜は、ふっと吹き出す。
「……バカだな、私」
コロは、もういない。
天寿を全うした。
それでも。
あの時のことを思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……早く、帰ろ」
家に。
家族のところに。
その気持ちが、はっきりと形を持った、その瞬間。
光が、濃くなった。
気づけば、足元の感触が変わっている。
光の道が、終わっていた。
野蒜は、光の中に出る。
眩しさに、思わず目を細める。
ゆっくりと、目が慣れていく。
――青。
どこまでも広がる、青い空。
足元には、白い雲海。
雲が、ゆっくりと流れている。
自分は、高い場所にいる。
山の上。
それも、かなり高い。
そこには、小さな休憩所のような場所があった。
岩を整えただけの、簡素な場所。
けれど、不思議と落ち着く。
「……すご……」
思わず、言葉が漏れる。
風景に、心を奪われていると。
――風。
後ろから、風が吹いた。
いや。
吹いた、というより。
「……え?」
何かが、動いた。
野蒜は、ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは――
白。
途轍もなく、大きな白い蛇。
体は、雲よりも太く。
鱗は、光を柔らかく反射している。
頭だけで、野蒜の全身よりも大きい。
圧倒的な存在感。
けれど、恐怖よりも先に来たのは。
「……きれい」
そんな感想だった。
白い蛇は、静かに野蒜を見下ろしていた。
まるで、ずっと待っていたかのように。




