突然の出会い
鹿児島の春は、湿った潮風と、どこか甘い土の匂いを運んでくる。
夕陽が傾きかけた高峰高校のグラウンドは、橙色に染まり、照り返しが瞼を刺した。
マウンドの上に立つのは、
――三島虹河、高校二年。
右投げ左投げ、両方で投げる《スイッチピッチャー》という異色の投手だ。
虹河は右手でボールを握り、じっとキャッチャーへ視線を定める。
力の入り方、指にかかる重み、握りの深さ――すべてが“正しい”。
だけど。
「……いくぞ」
振りかぶり、右腕を鋭く振る。
球は強烈な伸びを保ったまま、ミットへ一直線。
――バンッ!
捕った音ではない。
弾かれた音だった。
「ご、ごめん虹河……!無理、これ……」
キャッチャーの三年・西山が、手を押さえて顔を歪める。
――またか。
何度見た光景だろう。
虹河はゆっくりと息を吐いた。
「すみません。ケガ、してませんか?」
「いや、たぶん軽く突き指……これ以上は無理だわ」
西山が防具を外し、肩を落としてベンチへ戻っていく。
その背中を見送りながら、虹河の胸の中に小さな棘が刺さる。
(わかってる。俺の球は“扱いづらい”。
だけど――こんなはずじゃなかった)
右手は145キロ前後の速球と切れ味鋭いスライダー、フォーク、シュート。
左手は右同様の球速に軌道が読めないカーブとナックルとシンカー。
小学生の頃から磨き続けてきた自分だけの武器。
だけど。
その武器を「受けられる」仲間が、ひとりもいなかった。
ベンチでは、先輩たちが苦笑いを浮かべている。
「虹河の球、相変わらずバケモンだな」
「捕れるキャッチャー、全国探してもそうはいねぇよ」
悪気がないのは分かっている。
だけど、その言葉が何より胸をえぐった。
――俺のせいだ。
俺の球が特殊すぎるから。
だからチームが困ってる。
夕焼けに染められたマウンドの上で、虹河はふと空を見上げた。
(……もう、やめちまうか)
その呟きが、喉の奥で震えた。
翌日 放課後――
ボールの音がしないグラウンドは、妙に静かだった。
虹河は部室でユニフォームを畳みながら、ぼんやりと前日を思い返していた。
「……どうしろってんだよ」
右手の指を見つめる。
自分を支えてきた“武器”が、今は鎖に見える。
そのとき――
「三島先輩ですか?」
静かな声が、部室の入口から聞こえた。
虹河が振り向くと、そこには一人の後輩女生徒が立っていた。
黒髪を低い位置でまとめ、澄んだ瞳が真っ直ぐこちらを見ている。
制服姿なのに、どこか凛とした空気をまとっていた。
「一年の 西園寺鈴鹿 です」
少女は軽く会釈して続ける。
「あの……お願いがあります」
虹河は一瞬、言葉を失った。
後輩の女子が野球部に来るなんて、まずない。
しかも頼みごと?
「な、なに?」
少女は静かに、しかしはっきり言った。
「――先輩の球を、私に受けさせてください」
虹河は思わず立ち上がった。
「……え? 俺の球を……受ける?」
「はい。右も左も、両方です」
彼女の表情は穏やかで、どこか“おしとやか”な雰囲気さえある。
だけど、その瞳だけは違った。
野球を諦めきれない者だけが宿す、強い光。
(なんだ、この子……)
「三島先輩のスイッチ投法、噂で聞きました。
以前、ソフトボールで捕手をしていたので……どうしても一度、受けてみたいんです」
虹河の心臓がドクンと鳴る。
「……ソフトの捕手?」
「はい。でも、どうしても“硬式の捕手”をやりたいと思って。
女子でも野球がしたいんです。
女子でも――強い球を受けられることを証明したい」
鈴鹿は、まっすぐ虹河を見たまま言った。
「だから、三島先輩。
あなたの球を受けさせてください」
その瞬間、虹河の中で何かが動いた。
昨日までの重たい霧が、少し晴れた気がした。
「……わかった。じゃあ今からグラウンドで試してみるか」
鈴鹿は花が綻ぶように微笑んだ。
「お願いします、先輩」
夕暮れのグラウンド――
鈴鹿は借りてきたキャッチャー防具を身につけ、ホームベースの前に膝をついた。
虹河はマウンドに立つ。
(本当に、大丈夫なんだろうか……)
そう思いつつも、虹河は右手でボールを握った。
「いくぞ――!」
最初は軽めの球。
鈴鹿は目を見ず、音も立てずにミットを構える。
――パスッ。
静かな、芯を捉えた音。
(捕ってる……!)
「次は少し速くお願いします」
まるで練習を促すように、鈴鹿が言う。
虹河は息を整え、今度は本気のストレートを放つ。
145キロ――!
――バチン!!
完璧な捕球。
虹河の心臓が跳ねた。
「じゃあ……左いくぞ……?」
「はい。全部受けます」
鈴鹿の手が、わずかに震えている。
怖くないはずがない。
だけど、逃げる素振りは一切なかった。
虹河は左でシンカーを投げる。
――ズバン!!
「……!!?」
あの扱いづらい球を、一発で受け止めた。
虹河は呆然とした。
まるで夢を見ているようだった。
鈴鹿はミットを胸で押さえながら、小さく息を吐く。
「――これくらいなら、慣れれば大丈夫です」
夕陽が彼女の横顔を照らす。
その顔は汗まみれなのに、凛として美しい。
虹河の胸が熱くなった。
「あんた……本当にすごいよ……!」
「私こそ、三島先輩の球……もっと受けたいです」
その瞬間だった。
虹河は初めて“自分の球が必要とされている”と感じた。
夕焼けの中、ひとりのスイッチピッチャーと
ひとりの女子捕手が――
確かに出会った。
そしてこの出会いが、誰も想像しなかった”革命”へつながっていく。




