幻に恋をして
—プロローグ—
渡辺蓮の一日は、静かすぎる朝で始まる。
台所からは味噌汁の匂いが漂い、祖母の立てる包丁の音が響いてくる。
「蓮、ご飯ができたわよ」
祖母はいつもと変わらない声で呼ぶ。けれど、その声に答える自分が少し遅れるのは、もう癖になってしまっていた。
—1,半年間の孤独—
半年前までは違った。学校へ行けば、友人と馬鹿な話をして、先生に小言を言われ、当たり前のように一日が流れていった。
だが、あの日を境にすべてが変わったのだ。理由もわからない。誰かに恨まれるような覚えもない。
ただ、突然に。
朝、教室のドアを開けると、いつも話しかけてくれる友人が目を逸らした。声をかけても返事はない。
先生にノートを提出しても、受け取られない。まるで、存在ごと透き通ってしまったみたいに。
それは一日だけの気まぐれではなく、次の日も、その次の日も続いた。やがて蓮は学校へ行くことをやめ、祖母とだけ会話を交わす生活に沈んでいった。
「大丈夫なのかい、蓮」
ある夜、祖母が茶碗を置きながらそうつぶやいたことがあった。
「……うん」
蓮は短く答える。祖母はそれ以上追求しない。ただ温かいみそ汁を差し出すだけだ。その優しさが、かえって胸に重くのしかかった。
そんな日々が、気づけば半年も経っていた。
—2,雑貨屋の女性—
ある午後、気まぐれに蓮は玄関の戸を開けた。
風が頬を撫でる。澄んだ青空が広がり、稲の穂が陽光に揺れている。
歩き出した理由はない。ただ、部屋の中の空気に耐えきれなくなったのだ。
歩道をとぼとぼと歩く。家も人もまばらな田舎道。
遠くで犬の吠える声が聞こえ、カエルの声が田んぼに響く。
しばらく歩いて、ふと足が止まった。
古びた木造の建物。ガラス越しに並ぶ陶器やガラス玉。色褪せた看板には「雑貨店」とだけ書かれている。
窓から覗き込んでいると、ふいに声にかけられた。
「君は……もしかしてーー」
振り返ると、二十代半ばくらいの女性が立っていた。涼やかな瞳に、どこか人を見透かすような光を宿している。
言いかけた言葉を、彼女は途中で飲み込み、柔らかく微笑んだ。
「…ううん、なんでもないわ。私は白石沙織。ここの店の者よ」
そして、少しの間をおいてからこう付け加える。
「もし話し相手がいなかったら、いつでもここにおいで。ひとりでやってる暇な店だから」
彼女はそれ以上何も言わず、店の奥に消えていった。
残された蓮の胸には、言葉にできないざわめきが残った。
—3,火事場の影—
歩みを再開したとき、空は茜色に染まり始めていた。
角を曲がった先に、赤々と燃え盛る光が広がっていた。炎だ。屋根が崩れ、黒煙が立ちのぼっている。
「火事…!」
熱気が皮膚を刺し、息が詰まる。逃げようと足を引いたそのとき—
「たすけて!」
かすかな声が耳に届いた。見れば、家の隙間から小さな子どもの手がのぞいている。
頭で考える前に、体が走り出していた。
炎の渦に飛び込み、子どもの手をつかむ。ごうごうと燃え盛る音が耳を塞ぎ、煙が喉を焼いた。必死に外へ走り出し、子どもを押し出すように逃がした瞬間、背後で轟音が響いた。
外壁が崩れ落ちてくる。
避けきれない。
ああ、ここで終わるんだ——
そう思った瞬間、“だれか”が視界を遮った。
強い衝撃が体を突き飛ばす。
視界が激しく揺れ、地面に叩きつけられた。
目を開けたときには、炎はもう消され、かすかな煙だけが残っていた。あのとき自分を救った“影”はもうどこにもいない。
体を引きずりながら家に戻ると、祖母は台所でみそ汁をあたためていた。
「おかえり」
それだけを言い、いつも通り食卓に腕を並べる。
蓮は答えなかった。祖母もまた、それ以上何も言うことはしなかった。
僕はただ、息を整えながらその背中を見つめていた。
—4,きみとの出会い—
翌週の午後、蓮はふとした衝動にかられて家を出た。
どこへ行くでもなく、あてもなく歩いていると、気づけばまたあの雑貨屋の前に立っていた。
軒先にぶら下がる風鈴が、秋の風に揺れて小さな音を立てている。
「……また来てしまった」
小さくつぶやきながら、戸口へと足を運ぶ。
中に入ると、古びた木の匂いと、乾いたハーブのような甘い香りが混じって漂っていた。
カウンターには白石さんがいて、前回同様、穏やかな笑みを浮かべている。
だが、今日はその隣にもうひとり、見慣れない制服姿の女の子がいた。
彼女は棚に並ぶアクセサリーをじっと見つめていて、振り向いた拍子に蓮と目が合った。
その瞳は、淡く光を宿したように澄んでいて、けれどどこか遠くを見ているようでもあった。
「…あ」
思わず声がもれる。
少女は小さく微笑んで、首をかしげた。
「同じ高校の人……だよね?」
制服を見れば、確かに同じものだった。だが、不登校になってからというもの、誰も蓮に声をかけてこなかった。
だからその一言が、胸の奥をじんわりとあたためた。
「……うん。渡辺、蓮」
不器用に名乗ると、彼女は少し驚いたように目を見開き、それから小さく笑った。
「私は橘、紅葉。……転校してきたばかりなんだ」
名前を告げる声は、どこか寂しさを含んでいて、それが妙に心に残った。
白石さんが奥で片付けをしながら、二人を静かに見守っている。
ぎこちなく言葉を交わすうちに、紅葉はぽつりとこぼした。
「私、あんまり学校って好きじゃないんだ。だから、こういう場所にいると落ち着く」
その言葉に、蓮はなぜか救われた気がした。
自分と同じように、学校に馴染めない誰かがいる。
それだけで、孤独に押しつぶされそうだった心が、少しだけ軽くなる。
雑貨屋を出たあとも、ふたりは自然と一緒に歩き出していた。
田んぼのあぜ道を並んで歩き、他愛もない話をする。
遠くで風が稲穂を揺らし、夕日が彼女の横顔をやわらかく照らしていた。
その日から、蓮の世界は少しずつ色を取り戻していくのだった。
—5,紅葉との日々—
それからというもの、紅葉は蓮と同じように学校には行かず、気づけば一緒にいることが多くなった。
ある日は、田んぼのあぜ道を歩いた。
風に揺れる稲穂の波がきらきらと光り、紅葉は靴を脱いで裸足で草の上を歩きながら笑った。
「ほら、気持ちいいよ」
差し出された手を、ためらいながら蓮も取る。彼女の手は冷たかった。だがその冷たさは、夏の風の中で不思議と心地よかった。
ふと、紅葉が突然立ち止まり、稲穂の上にとまった赤とんぼを指さした。
「ほら」
彼女が少し背伸びして手を伸ばす。指先が稲穂に触れた瞬間、とんぼはぱっと飛び立った。
思わず笑い声をこぼす紅葉。その横顔を見つめていると、蓮の胸の中で何かがじんわりと熱を帯びていくのを感じた。
次の日には、二人で丘に登った。
小さな公園のある展望台で腰を下ろし、遠くに広がる街を眺める。
紅葉はバッグから飴を取り出して、蓮に差し出した。
「甘いもの食べるとね、少しだけ元気が出るんだよ」
蓮は飴玉を口に入れる。確かに、ほんの少しだけ胸の重みが軽くなるような気がした。
また別の日には、海辺を歩いていた。
波打ち際で紅葉はスカートをつまみながら、波に足を濡らしてはしゃいでいた。
「ねえねえ蓮、見て!足跡がすぐに消えちゃう」
寄せては返す波にさらわれる二人の足跡。
「でも、消えるまでの間はちゃんとそこに残ってるんだよね」
そう言って笑う紅葉の横顔を、蓮はしばらく黙って見つめていた。
とある夕暮れ、公園のベンチに並んで座っていると、紅葉がふと口を開いた。
「こうしてるとね、不思議と時間が止まったみたいに感じるんだ」
蓮は何も言わず、ただ頷いた。
本当にその通りだった。彼女といると、過去の痛みも未来の不安も、すべてが遠くに消えてしまう。
静かな日々。何も特別なことはない。
けれど、その「何もない」時間こそが、蓮にとっては何よりも大切になっていた。
—彼女への感情に気づくのも、そう時間はかからなかった。
—6,花火の告白—
ある日の雑貨屋で、紅葉は言った。
「明日、この街で花火大会があるんだって」
それは言わずともわかった。いつもとは違う。
彼女が頬を赤らめて口にしたその言葉は、デートの誘いだった。
次の日の夜。
街は人であふれていたけれど、蓮と紅葉は、あえて少し外れた川辺の土手に腰を下ろした。
屋台の声も届かない静かな場所。二人だけの頭上に、漆黒の夜空が広がっていた。
「星がきれいだねぇ」
紅葉が小さくつぶやく。
「蓮、いつか、この日常が……なくなっちゃったら、どうする?」
蓮は隣を見た。その横顔はどこか儚げで、今にも消えてしまいそうに見えた。
「あのさ……」
紅葉の声が震える。
「私、本当は、ここにいちゃいけないんだ」
蓮は耳を疑った。
紅葉は続ける。
「私ね、死んでるの——。——幽霊なんだよ」
—ヒュー…ドーン!
花火が上がった。
心臓を掴まれたような感覚に、蓮は言葉を失った。
けれど紅葉の瞳は真剣で、それが真実であることをものがたっていた。
「あの日——あのとき、君を助けずにはいられなかった。君が小さな子どもを助けるのを見て、私も体が勝手に動いてた。」
「…っ!」
夜空に、光の花が咲いては散っていった。
胸が強く締めつけられる。
あのとき、炎の中で見た“影”を蓮ははっきり覚えている。だが、それが紅葉だなんて、想像したこともなかった。
「どうして、僕なんかを……」
かすれた声で問いかける。
紅葉はほんの少し笑みを浮かべた。
「—えて—い—だね…」
花火の音で声はかき消された。
その笑みは、どこまでも優しく、そして痛いほど切なかった。
「—ううん。なんでもない」
蓮は胸が熱くなり、言葉を飲み込む。
そっと手を重ねるが、その手はまるでこの世のものではないように冷たかった。
夜空で花が散るたび、蓮の胸の奥にも、言いようのない痛みが広がっていった。
—7,夢と記憶—
紅葉の言葉は、蓮をひどく混乱させた。
火事場で自分を救った“影”が紅葉だった——
そう知った瞬間、あたたかさよりも、耐えがたいほどの痛みが胸を満たした。
彼女はもう、この世の人ではない。
花火の日の帰り道、蓮は何度も紅葉に声をかけようとした。けれど、そのたびに声が詰まり、何も言えなかった。
そして、翌日から蓮はまた家に閉じこもるようになった。
外に出る気力はなく、カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、ひとり布団に潜り込む。
紅葉は幽霊だった。
好きになった人は、もうこの世にはいない。
—僕のせいで。
思考はそこから動かなかった。
彼女がなぜあの日、自分を助けたのか。
どうして僕なんかに笑いかけてくれたのか。
——わからない。いや、わかりたくなかった。
一週間が過ぎたころ。
夜、うなされるようにして眠りについた蓮は、夢を見た。
それは懐かしいはずなのに、なぜかずっと忘れていた光景。
眩しい夕日の光、通い慣れた高校の通学路、イチョウ並木の小さな交差点。
そこに、ひとりの少女が立っていた。
同じくらいの年頃の少女。
道路に飛び出すその一瞬。
蓮は迷わず身体を投げ出し、彼女を突き飛ばした。
耳をつんざくタイヤの音。
視界がぐらりと揺れる。
意識が遠のく中、蓮が最後に見たのは、その少女の驚いた顔——そして、次の瞬間には、その姿はもう消えていた。
目を覚ますと、蓮は汗でびっしょりだった。
夢のはずなのに、胸の奥が焼けるように痛い。
忘れていたのではない。無理やり、心の奥底に閉じ込めていた記憶。
少女は———紅葉だった。
—8,揺れる違和感—
胸の奥で、何かが脈打つように叫んでいた。
——行かなければ。
夜明け前の薄暗い空の下、蓮は布団を跳ねのけ、家を飛び出した。
冷たい空気が肌を刺す。息はすぐに切れ、足は重かった。
けれど、止まるわけにはいかなかった。
この真実をーーいや、そしてこの小さな違和感を、確かめなければいけない。
たどり着いたのは、あの雑貨屋だった。ガラス越しに見える、懐かしい木製の看板。
—白石沙織が営む、小さな店。
こんな時間にもかかわらず、店の奥には、いつものように白石さんが座っていた。
「また来てくれたんだね」
彼女の声には、不思議と心を落ち着かせる響きがあった。棚に並ぶ古びた本や置き時計、明かりのついたランプの影が、淡く蓮を包み込む。
「……実は、夢を見たんです。半年前の交差点で、女の子を助けた夢で……変ですよね、急にこんなこと」
白石さんは棚に並んだ小物を指でなぞりながら、静かに首を傾げた。
「紅葉ちゃんのことだね?」
蓮は思わず息を呑む。
「…知ってるんですか?」
「ええ。私は…“そういうもの”が見えるのよ、昔から」
蓮は胸の奥で言いようのないざわめきを覚えた。
紅葉を夢に見たのは偶然なのか、それとも——
「君が彼女と出会ったのは、偶然じゃないのかもしれないね」
白石さんはそう言って、少し目を伏せる。
「どういう意味ですか?」
問いかけると、白石さんははぐらかすように、ランプの明かりを消した。
「人はね……自分で気づかないまま、大切なものを忘れてしまうことがあるの。でも、その欠片は消えたわけじゃない。ずっと胸の奥にあって、ある日また、思い出すんだよ」
言葉は穏やかだった。けれど、その裏にある“何か”に、蓮の首筋が冷たくなる。
気がつけば、手が震えていた。
ずっと抱えていた違和感。紅葉と過ごす時間の、説明のできない儚さ。
それが、形を持ちはじめる。
—僕は、何を忘れている?
その答えに触れようとすると、頭が痛んだ。
「彼女なら、きっとまだいるよ」
白石さんはただ静かに、蓮の瞳を見つめていた。
蓮は深く息をつき、雑貨屋をあとにした。
外に出ると、冷たい風が頬を撫でる。
行かなければ——あの、交差点に。
—9,交差点の再開—
——イチョウ並木の交差点。
半年前のあの日、ここで何かがあった。
蓮は無意識に走り出していた。
夏の名残を残す朝日が、黄金色の並木道をゆらめかせている。
風が吹き抜けるたび、はらはらと葉が落ち、アスファルトに舞い散った。
そして——見覚えのある交差点にたどり着いた。
そこに、彼女は立っていた。
まるであの日から、一歩も動いていなかったかのように。
「……紅葉」
声に出すと、胸の奥がひび割れるように痛んだ。
紅葉はゆっくりと振り向き、微笑んだ。
けれどその微笑みの奥には、耐えきれないほどの悲しみが滲んでいた。
「やっぱり、来てくれたんだね」
その言葉は風に乗って、遠くまで響いていくようだった。
足が震える。彼女を見つめるたび、頭の奥に記憶の断片が突き刺さる。
忘れていた記憶が、容赦なく心を締め付ける。
蓮は呼吸を忘れていた。
「紅葉……僕は……」
言葉を探しても、声にならない。
「蓮……ずっと、言わなきゃって思ってた」
その声音は、かすかに震えていた。
並木道に沈黙が満ちる。
「私ね…半年前、死のうとしてたの」
蓮の鼓動が止まった。
耳に届くのは、風に揺れるイチョウの葉の音だけ。
「学校で、いじめられて……なにもかも、いやになって。だから、あの日……この交差点で、飛び出したの」
胸の奥が凍りついていく。
紅葉の言葉は、蓮が夢で見た記憶と重なっていく。
「でもね、蓮が……私を助けてくれた」
紅葉の瞳が揺れる。そこには、感謝と、どうしようもない悲しみが混じっていた。
「私、生き延びたの。だけど——」
言葉が途切れる。
紅葉は微笑んだ。
けれどその微笑みは、涙のように儚かった。
「本当はね、蓮に会いたかった、伝えたかった。ただ一緒にいたかった。それだけなの」
蓮の胸に、崩れていく世界の輪郭が見えた。
すべての違和感が、今、確信へと変わる。
—10,すべては幻のように—
彼女の言葉が、胸の奥に染み込んでいく。
彼女は生き延びた。なのに、なぜ自分をかばって死んだのか。どうして——
すべての断片が、今一つに繋がっていく。
—どうして、あの日からみんなが自分を無視するようになったのか。
—どうして、紅葉だけが自分を見てくれたのか。
—どうして、彼女の言葉の端々に、言いよどむ影があったのか。
答えは、一つしかなかった。
蓮の視界が、ゆらりと揺れる。
声にならない声が、喉の奥で途切れる。
「……あぁ」
紅葉が泣きそうな顔でこちらを見ている。
その瞳に映る真実が、蓮の胸を突き破った。
「——僕ももう、死んでたんだ」
その瞬間、世界が音を失った。
まるでふたりは幻だったように、ただ風に舞うイチョウの葉だけが、静かに落ちていった。
—エピローグ—
朝の光が、薄いカーテンを透かして部屋に差し込んでいた。畳の上に敷かれた布団は、空っぽだった。
渡辺蓮の姿はどこにもない。
しばらくその場に立ち尽くしていたおばあちゃんは、やがて目を細め、穏やかに微笑んだ。
「……やっと、行けたんだね」
独り言のようにつぶやき、静かに手を合わせる。
その指先はかすかに震えていたが、その声は澄んでいた。
部屋の窓の外では、風に揺れるイチョウの葉が二枚、ひらひらと舞い落ちていた。




