表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界から忘れ去られる方法  作者: 伝福 翠人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/12

最初の一滴

夜が明けても、有川 仁は机の前から動けずにいた。


目の前に広げられた書類の山。それは、町の静かな日常を蝕む、悪意に満ちた計画の証拠だった。しかし、今の彼にとって、それはただの重い紙の束でしかなかった。


(どうすればいい……)


答えは出ない。


ヒーロー「アトラス」として、この証拠を突きつければ、悪人たちを黙らせることはできるだろう。しかし、その代償はあまりにも大きい。この静かな町に、都会と同じ混乱と喧騒を持ち込んでしまう。そして何より、自分の正体が暴かれれば、もう二度と平穏な日々は戻ってこない。


かといって、このまま見過ごすことは、彼にはできなかった。


檻の中から抜け出したいと願った自分が、また同じ檻に閉じこもることになる。


数日間、彼は何もできずにいた。


ただ、超人的な聴力で、町の声を聴き続ける。雑貨店の主人の、日に日に追い詰められていく声。他の被害者たちの、不安と諦めが混じったため息。それらが、彼の心をじわじわと締め付けていった。


その日、彼はいつものように町の様子を「聴いて」いた。


すると、彼の耳に、これまでとは少し違う種類の声が飛び込んできた。それは、町の小さなケーブルテレビ局で働く、若い女性レポーターの声だった。


『……だから、何かおかしいんですって! この町の土地売買、ここ数ヶ月で急に増えすぎてるんです。しかも、全部同じ会社が関わってるなんて、偶然じゃありえない!』


電話の向こうの相手、おそらく上司であろう男は、彼女の熱意を面倒くさそうにあしらっている。


『考えすぎだ。裏付けも取れてないのに、そんな憶測で騒ぎを起こすな』


『でも、実際に困っている人たちがいるんです! 何か大きな力が働いてるに違いありません!』


彼女の声には、強い正義感と、しかし証拠がなくて動けないもどかしさが滲んでいた。


仁は、その声を聞きながら、一つの可能性にたどり着いた。


自分が表に出る必要はない。


自分が裁きを下す必要もない。


ただ、真実を求める人間の背中を、そっと押してやればいい。


彼は、机の上の証拠の山の中から、一枚の書類を抜き出した。それは、雑貨店の主人がサインさせられた、最も悪質な契約書のコピーだった。


その夜、仁は再び闇に紛れて要塞を抜け出した。


彼の目的地は、町のケーブルテレビ局。深夜、もちろん誰もいない。彼は、昨日と同じように、音もなく建物に侵入した。


目的のデスクはすぐに見つかった。昼間、あの声の主が座っていた場所だ。机の上には、取材ノートや資料が乱雑に積まれている。


仁は、持ってきた契約書のコピーを、その資料の一番上に、そっと置いた。


まるで、最初からそこにあったかのように。


そして、誰にも気づかれることなく、彼はその場を去った。


翌朝、仁は要塞のモニターで、ケーブルテレビ局の様子を遠くから見ていた。


出社してきた女性レポーターが、自分のデスクの上に見慣れない書類があることに気づく。彼女はそれを手に取り、数秒間、目を通し――そして、息を呑んだ。


彼女の顔が、驚きから確信へと変わっていく。


探し求めていた、パズルの最初のピースを見つけた顔だった。


仁は、モニターから目を離し、静かに息を吐いた。


世界は、まだ何も変わっていない。悪人たちは、今も笑っているだろう。


しかし、静かな水面に、最初の一滴が落ちた。


それは、ヒーローの雷鳴のような一撃ではない。


誰にも気づかれない、小さな、小さな波紋。


だが、その波紋がやがて大きなうねりになることを、仁は確信していた。


彼は、檻の中から世界を動かす方法を、ようやく見つけ出したのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ