檻の中から
要塞に戻っても、以前のような安らぎはなかった。
有川 仁は、新しく買ったコーヒーミルで豆を挽きながら、ずっとあの坂道での出来事を考えていた。
誰にも気づかれずに、人を救う。
喝采も、賞賛もない。だが、胸に残った確かな手応え。それは、ヒーローだった頃の興奮とは全く違う、静かで、じんわりと温かい感覚だった。
彼は、高い塀と監視カメラに囲まれた自室のモニターを見上げた。以前は、この閉ざされた空間が彼を守ってくれると思っていた。しかし、今は違う。この壁は、自分を世界から切り離しているだけの、息苦しい檻にしか見えなかった。
その夜から、仁の行動は少しずつ変わり始めた。
彼は、半年の間ずっと無視してきた、外の世界の情報を集め始めたのだ。ただし、彼が探すのは、大事件や大事故のニュースではない。
彼は、超人的な聴力を使い、五ヶ瀬の町に静かに耳を澄ませた。
役場の放送、商店街のざわめき、学校のチャイムの音。風に乗って運ばれてくる、人々の何気ない会話の断片。
「今日の特売、卵が安いらしいわよ」
「うちの子が、またテストで悪い点をとってきてねえ」
そんな、どこにでもある日常の音に混じって、時々、彼の耳を引く声があった。
それは、先日コーヒーミルを買った雑貨店の、あの店主の老人の声だった。誰かと電話で話しているようだが、その声には深い悩みが滲んでいた。
『……だから、もう少しだけ待ってはもらえんだろうか』
『担保、と言われても、この店と土地以外には何も……』
『そんな……話が違うじゃないか!』
断片的な会話から、仁は状況を推測した。老人は、金銭的なトラブルに巻き込まれている。それも、かなり悪質な相手とだ。
仁の脳裏に、都会での苦い記憶が蘇る。
法律を盾に、老夫婦から家を奪った男たちの、冷たい目。
自分の力が、一枚の紙切れの前でいかに無力だったかという、あの屈辱。
(また、同じだ……)
放っておけば、この店の主人も同じ運命をたどるかもしれない。
しかし、自分に何ができる? ヒーロー「アトラス」として現れれば、事態は悪化するだけだ。町の人々をパニックに陥らせ、メディアが嗅ぎつければ、この静かな町はめちゃくちゃになる。
だが、もう見て見ぬふりはできなかった。
檻の中から、ただ眺めているだけの自分には戻りたくなかった。
彼は決意した。
ヒーローとしてではなく、一人の人間として、この問題を調べる、と。
その夜、仁は再び黒い服に身を包み、音もなく要塞を抜け出した。彼の目的地は、町の中心部にある小さな金融会社のオフィスだった。昼間、老人の店の近くで見かけた、いかにもな男たちが入っていったビルだ。
ビルは、すでにシャッターが下り、静まり返っている。しかし、仁の目には、内部の構造、配線の位置、そして人の気配がないことまで、全てが手に取るように分かった。
彼は、誰にも気づかれることなく、ビルの壁を駆け上がり、小さな窓から内部へと侵入した。
彼の目的は、破壊ではない。情報だ。
超人的な五感を使い、彼はオフィスの中を調べ始めた。金庫の中に隠された裏帳簿、パソコンに残された消去済みのデータ、シュレッダーにかけられた書類の断片。
それらは、常人であれば決して見つけられない、パズルのピースだった。
しかし、仁は、それらを一つ一つ、驚異的な集中力で拾い集め、頭の中で元の形へと復元していく。
数時間後、彼は全ての情報を手に入れていた。
それは、あの雑貨店の主人だけでなく、町の多くの人々が、巧妙に仕組まれた罠にはめられ、土地や財産を奪われようとしている、という恐るべき計画の全貌だった。
仁は、誰にも気づかれずにビルを後にした。
手には、動かぬ証拠の数々があった。
しかし、彼の心は晴れなかった。
証拠はある。だが、これをどう使えばいい?
警察に匿名で送るか? まともに取り合ってもらえないかもしれない。
メディアにリークするか? 町が不必要な騒ぎに巻き込まれる。
彼は、再び大きな壁の前に立たされていた。
力だけでは解決できない、あまりにも厄介な問題。
要塞に戻った彼は、手に入れた証拠のファイルを机に広げ、夜が明けるまで、ただ一人、答えの出ない問いと向き合い続けていた。




