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世界から忘れ去られる方法  作者: 伝福 翠人


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6/12

境界線の外

要塞での暮らしは、驚くほど快適だった。


有川 仁は、半年という時間を、誰にも邪魔されず、自分とだけ向き合って過ごした。


『普通の人チャレンジ』は、もはや遊びではなく、彼の日常そのものになっていた。朝、鳥のさえずりで目を覚まし、割ることなく掴んだ卵で朝食を作る。丁寧に淹れたコーヒーを、指の跡がつかないマグカップでゆっくりと味わう。その一つ一つの動作が、彼に静かな満足感を与えてくれた。


都会の喧騒も、非難の声も、もう遠い世界の出来事のようだった。彼は、この塀の内側でなら、「普通の人」として生きていける。その事実は、彼を心から安心させた。


しかし、その完璧な日常は、ある日、ささいなきっかけで崩れ始める。


愛用していたコーヒーミルの、小さな歯車が欠けてしまったのだ。それは、彼の超人的な力をもってしても修理できない、精密な部品だった。配達サービスで同じものを探したが、どこも品切れだった。


「……行くしかない、か」


半年ぶりに、彼は塀の外へ出ることを決意した。帽子を目深にかぶり、サングラスとマスクで顔を完全に隠す。その姿は、ヒーローではなく、人目を忍ぶ逃亡者そのものだった。


彼の車が、初めて五ヶ瀬の町へと入っていく。


仁は、緊張でハンドルを握る手に汗がにじむのを感じた。すれ違う人々が、自分の正体に気づくのではないか。そんなありえない恐怖に、心臓が早鐘を打つ。


町は、彼が想像していたよりも、ずっと穏やかだった。


古びた商店街、楽しそうに話す主婦たち、自転車で駆け抜けていく子供たち。そこには、彼が失ってしまった、温かい日常があった。


目的の雑貨店はすぐに見つかった。店主の老人は、仁の怪しい格好にも特に驚くことなく、奥から同じ型のコーヒーミルを探し出してくれた。


「あいよ。大事に使ってくれよ」


ぶっきらぼうな言葉の中に、温かさが滲んでいる。仁は、代金を払うと、逃げるように店を出た。


車に戻ろうとした、その時だった。


キーキーと甲高い音を立てて、一台の軽トラックが目の前の坂道で停まった。荷台には、たくさんの野菜が入ったコンテナが、ロープ一本で危うげに固定されている。運転席から降りてきた農家らしい男性が、エンジンをかけたまま、近くの商店へと入っていった。


仁が、その場を通り過ぎようとした瞬間。


パキン、と乾いた音がした。


見ると、トラックを固定していたロープが、劣化して切れている。サイドブレーキも甘かったのだろう。軽トラックが、ゆっくりと、しかし確実に坂道を下り始めた。


その先には、道路でボール遊びをしている数人の子供たちがいた。


(まずい……!)


仁の体が、反射的に動こうとする。トラックを力ずくで止め、子供たちを救う。そんなことは、彼にとって呼吸をするより簡単なことだ。


しかし、その瞬間、彼の頭をよぎったのは、電波塔でのあの悲劇だった。


力任せの介入は、最悪の結果を招く。


彼の思考は、コンマ数秒の世界で加速する。


大声で叫ぶか? 間に合わない。


子供たちを突き飛ばすか? 怪我をさせてしまう。


トラックの速度が、少しずつ上がっていく。子供たちは、まだ気づいていない。


仁は、決断した。


彼は、子供たちではなく、トラックそのものに意識を集中させた。彼の足元にあった、こぶし大の石ころ。彼はそれを、誰にも気づかれない速さで拾い上げると、狙いを定めて、そっと転がした。


石は、まるで意思を持っているかのように坂道を転がり、下りてくるトラックの前輪の、ほんの数センチ手前でぴたりと止まった。


ゴッ、と鈍い音がして、トラックの前輪がその小さな石に乗り上げる。完璧な角度とタイミング。それだけで、トラックの進路はわずかに逸れ、子供たちのすぐ脇を通り過ぎ、電柱に軽くぶつかって停止した。


子供たちは、何が起きたのかわからず、きょとんとしている。商店から出てきた運転手は、自分のトラックを見て顔面蒼白になっている。


誰一人、あの小さな石ころの存在に気づいていない。


誰一人、そこに「アトラス」がいたことなど、知る由もない。


仁は、誰にも見られることなく、静かにその場を立ち去った。


車に戻り、エンジンをかける。彼の心臓は、まだ激しく高鳴っていた。


しかし、その鼓動は、恐怖からくるものではなかった。


『普通の人チャレンジ』で培った、力の精密なコントロール。それが、誰にも気づかれずに、人を救った。喝采も、賞賛もない。だが、彼の胸には、ヒーローだった頃とは全く違う、静かで、確かな手応えが残っていた。


要塞に戻った彼は、高い塀を見上げた。


かつては自分を守るための壁だったそれが、今は、自分を世界から隔てるだけの、息苦しい檻のように見えていた。

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