サイレント・リトリート
世界から、アトラスが消えた。
有川 仁は、非難の視線と自分を責める気持ちから逃げ出した。あてもなく歩き回る日々の中、ふと、昔駅で見たポスターを思い出した。鮮やかな青空と真っ白なゲレンデ。そこに踊る『日本最南端のスキー場』という文字。
宮崎県、五ヶ瀬町。
(雪国で見る雪は、日常だ。だけど、南国で雪に触れる人たちは、どんな気持ちなんだろう)
それは、深い意味のある問いではなかった。ちょっとした好奇心と、行き場のない自分を納得させるための、都合のいい言い訳だった。人が少なそうで、誰も自分のことを知らない場所。彼が求めているのは、ただそれだけだった。
目的地は決まったが、問題は暮らしていくための土台だった。身を隠すには、外の世界から完全に切り離された要塞が必要だ。高い塀、監視カメラ、そして誰にも邪魔されない広い土地。それには、とてつもない大金がかかる。
仁は、夜の闇に紛れて山奥へと向かった。彼の目には、地面の下にある鉱脈が、まるで血管のように透けて見えていた。地面を掘るのは、豆腐を切るよりも簡単だ。数時間後、彼の手には、磨かれる前のダイヤモンドの原石や、混じりけのない金鉱石が山のように積まれていた。
金持ちになるのは、簡単だった。しかし、それを「現金」に換えるのは、全く別の話だった。普通の方法で売れば、必ず正体がバレてしまう。
仁は数日間悩んだ末、記憶の中から、ある連絡先を思い出した。それは、かつて彼が捕まえた、うまい手口で金持ちを騙していた詐欺師の男の番号だった。仁は一度しか使えない携帯電話を買い、男に連絡を取った。
電話に出た男は、最初こそアトラスからの連絡に怯えていたが、仁の目的が「換金」だと知ると、すぐに楽しそうな声に変わった。
『……いいでしょう。ただし、これはビジネスだ。手数料はきっちりもらいますよ、元・英雄サン』
仁は、何も言わずに電話を切った。胸に、黒くて重いものが沈んでいく。正義とは正反対の男に頭を下げ、手を組む。この瞬間、彼が信じていた完璧な正義は、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。もう自分は、絶対的な善ではない。ただ、生き延びるために手段を選ばない、一人の逃亡者だった。
数週間後、使い捨ての携帯に一件のメッセージが入った。『明日、深夜0時、第七埠頭』。翌日、港の薄暗い明かりの下、一台の高級車が音もなく現れた。仁が見たこともない男が車から降りてくると、重いアタッシュケースを地面に置き、一言も発さずに走り去った。中には、仁が想像もできないほどの大金が詰まっていた。彼はその金で、五ヶ瀬の町外れにある、森に囲まれた広い土地と家を、言い値で買った。すぐに高い塀と最新の監視カメラを取り付け、彼の要塞は完成した。
そこから数ヶ月、仁は家から一歩も出なかった。
外の世界から完全に切り離されたひとりぼっちの時間の中で、彼は不思議な遊びに夢中になっていく。
『普通の人チャレンジ』。
それは、強すぎる力を「普通」に抑えるための、彼自身が考え出した遊びのようなトレーニングだった。
チャレンジ1:ポテトチップス開封
指先に意識を集中させ、袋の端をそっとつまむ。力を入れすぎれば、袋は爆発したように弾け飛び、中身をぶちまけてしまう。ミリ単位で力を調整し、パリパリと気持ちのいい音を立てて開けられた時、彼は小さくガッツポーズをした。
チャレンジ2:卵割り
卵を片手で持ち、コン、と角に当てる。以前は、握っただけで卵が砕け、中身が飛び散るのが当たり前だった。絶妙な力加減で殻にだけヒビを入れ、中身をきれいにボウルへ落とせた日は、それだけで一日が満たされた気分になった。
ドアノブを壊さずに開ける。ティッシュを一枚だけ引き出す。スマートフォンの画面を、粉々にせずにスワイプする。
一つ一つの「普通」をクリアしていくたびに、彼はこれまで感じたことのない達成感を覚えていた。それは、誰かに感謝されるヒーロー活動よりも、ずっと個人的で、小さな喜びだった。
ひとりぼっちのはずの時間が、いつしか彼にとって、一番心が安らぐ楽しい時間へと変わっていった。
南国の町には珍しく、その夜は静かに雪が降り積もっていた。
有川 仁は、高い塀に囲まれた要塞の中で、世界から忘れ去られることの心地よさに、静かにひたっていた。




