砕かれた偶像(アイドル)
前回の事件で生じた世論の亀裂を、有川 仁は焦っていた。失われた信頼を取り戻すには、以前のような、誰もが賞賛する圧倒的な救出劇を見せるしかない。その逸る心が、最悪の罠への引き金となった。
事件は、テレビ局の電波塔で起こった。
一人の男が、地上200メートルの展望デッキの柵を乗り越え、鉄骨の上に立っている。拡声器を持った警察官が、必死に説得を試みているが、男は聞く耳を持たない。その様子は、全テレビ局によって生中継されていた。
「これだ」
仁は、この状況を好機だと判断した。複雑な権利関係などない。ただ、一つの命を救うだけ。これこそが、ヒーローである自分の原点だ。彼は、制止する警察の包囲網を軽々と飛び越え、一瞬で電波塔を駆け上がった。
「危ない! 刺激するな!」
地上の叫び声が耳に届く頃には、彼はすでに男の背後に音もなく降り立っていた。男は、仁の気配に気づき、怯えたように振り返る。その顔は、憔悴しきっていた。
「来るな……来るな!」
男の絶叫は、悲痛だった。しかし、焦る仁には、その声に含まれた恐怖や孤独を聴き分ける余裕はない。ただ、「保護すべき対象」としか認識していなかった。
「大丈夫だ。すぐに安全な場所へ」
仁は、安心させるつもりで、ゆっくりと手を伸ばした。
その善意の行動が、引き金を引いた。
男は、仁の伸ばされた手を、拒絶の象徴と受け取った。彼の目に映るアトラスは、救世主ではなく、自分の最後の逃げ場さえも奪いに来た、圧倒的な「力」そのものだった。
「やめろぉぉぉっ!」
男は、仁から逃れるように、自ら鉄骨の先へと一歩踏み出した。足場を失った体は、一瞬宙に浮き、そして、小さな点となって地上へと吸い込まれていった。
仁の伸ばした手は、空を掴んだまま、固まっていた。
何が起きたのか、理解できなかった。
助けようとした。ただ、それだけだったのに。
眼下で響き渡る、人々の短い悲鳴。それは、これまで彼が浴びてきた喝采とは、あまりにも違う、冷たく、鋭い刃のような音だった。
彼は、ゆっくりと地上に降り立った。そこに、感謝の言葉をかける者は、もう誰もいない。人々は、まるで怪物でも見るかのように、彼から距離を取る。その瞳に宿るのは、恐怖と、非難の色だった。
『悲劇! アトラスの強引な介入が、最悪の事態を招く』
『英雄か、それとも制御不能の暴力か』
翌日のニュースは、彼を英雄ではなく、人殺しであるかのように断罪した。あの時、男が何を叫んでいたのか、なぜ追い詰められていたのか、そんな背景は一切報じられない。ただ、「アトラスが現れた結果、男は死んだ」という事実だけが、繰り返し、繰り返し流された。
子供たちは、もう彼にサインを求めない。
街を歩けば、人々は彼を避け、ひそひそと噂を交わす。
賞賛と笑顔に満ちていた世界は、一夜にして、冷たい沈黙と敵意に満ちた荒野へと変わっていた。
有川 仁は、自らの拳を見つめた。
ビルを支え、鉄を捻じ曲げたこの力が、たった一人の心を救うことすらできなかった。
善意で振りかざした力が、命を奪った。
完璧なヒーローという、自らが作り上げた偶像は、粉々に砕け散っていた。




