邪魔なヒーロー
その日、有川 仁が捉えた「声」は、これまでとは明らかに異質だった。
悲鳴ではない。爆発音でもない。それは、老女のか細く、しゃがれた嗚咽だった。彼の超人的な聴覚は、その声が絶望の縁から絞り出されていることを正確に捉えていた。
場所は、再開発の波から取り残された古い木造住宅が立ち並ぶ一角。仁が音もなく現場に降り立つと、そこには異様な光景が広がっていた。
数人の屈強な男たちに囲まれ、一組の老夫婦が玄関先で泣き崩れている。しかし、男たちは武器を持っていない。代わりに手にしているのは、分厚いファイルの束だった。その中心に立つ、スーツを隙なく着こなした細身の男が、冷たい声で言い放つ。
「契約は完了しています。立ち退きは、法に則った正当な権利です。ごねても無駄ですよ」
老女が、震える手で仁の存在に気づき、懇願するように手を伸ばした。
「アトラスさん……! 助けてください! この家は、私たちのかけがえのない……」
仁は一歩前に出た。それだけで、屈強な男たちの顔に緊張が走る。だが、スーツの男は全く動じなかった。彼は嘲るような笑みを浮かべると、ファイルの一枚を仁の目の前に突きつける。
「これは、正式な土地売買契約書です。法務局の登記も済んでいる。我々は、この土地の所有者として、所有権を行使しているにすぎません。ヒーローと言えど、民事不介入の原則はご存知でしょう?」
契約書、所有権、民事不介入。
仁の頭の中で、知らない単語が空回りする。彼の前にあるのは、暴力ではない。燃え盛る炎でも、崩れ落ちる瓦礫でもない。ただの紙切れだ。しかし、その紙切れが、目の前の老夫婦を絶望の淵に突き落としている。
「……だが、この人たちは困っている」
仁が絞り出した声に、男は肩をすくめた。
「それは、彼らが契約書をよく読まずにサインしたからです。自己責任、というやつですよ。アトラス、あなたの力は、個人の軽率な判断まで救うものではないはずだ」
その時、仁は気づいた。男たちの背後、少し離れた場所に停まった車の窓が、こちらに向けられていることに。窓ガラスの向こうで、小さなカメラのレンズが鈍く光っている。
罠だ。
仁は、全身の血が沸騰するような怒りを、奥歯を噛みしめて押し殺した。ここで手を出せば、どうなるか。男の言う通り、自分は「法を無視する暴力装置」に成り下がる。彼らが望むのは、まさにその映像だろう。
彼の拳は、行き場を失っていた。銀行の壁を砕き、鉄骨を捻じ曲げたその力が、一枚の紙を前にして、完全に無力だった。
「……っ」
何もできない。
仁は、唇を噛み締めたまま、その場を動けなかった。老夫婦の絶望したような視線が、彼の背中に突き刺さる。これまで浴びてきた感謝と賞賛の眼差しとは、あまりにも違う、重く、痛みを伴う視線だった。
数分後、彼は静かにその場を去るしかなかった。
その夜のニュースは、この出来事を報じた。しかし、その内容は巧妙に編集されていた。
『行き過ぎた正義か? アトラス、民間の土地トラブルに介入か』
映像には、屈強な男たちに囲まれ、威圧するように立つアトラスの姿と、怯えるように見えるスーツの男の姿が映し出されていた。老夫婦の涙は、そこにはなかった。
人々の心に、初めて小さな疑念の種が蒔かれた。
絶対的なヒーロー、アトラスは、本当に常に「正しい」のだろうか、と。
有川 仁は、初めて味わう無力感と、胸を焼くような焦燥感の中で、そのニュースを一人見つめていた。




