喝采という名の麻薬
セントラル・タワーの奇跡から、三ヶ月が過ぎた。
世界は、一人の男の登場によって、その景色を確かに変えていた。
『アトラス』。
その名は、もはや単なるニックネームではなかった。それは希望の代名詞であり、絶対的な安全の象徴だった。彼が現れれば、どんな絶望的な状況も覆る。人々は、何の疑いもなくそう信じていた。
そして、有川 仁もまた、その期待に応えることに、この上ない喜びを感じていた。
「アトラスだ!」
銀行の分厚い壁が、まるで紙細工のように内側から吹き飛んだ。武装した強盗団が、人質を盾にまさに逃走しようとした、その瞬間だった。粉塵の中から現れた巨影に、犯人たちは悲鳴を上げる。仁は、彼らが構えるライフルの銃口を、まるで小枝でも折るかのようにたやすく捻じ曲げると、その身柄を軽々と拘束した。
人質だった銀行員や客たちは、恐怖から一転、歓喜の声を上げる。パトカーのサイレンが遠くから聞こえてくる頃には、全てが終わっていた。
「ありがとう、アトラス!」
「助かったわ!」
人々が彼を取り囲み、感謝の言葉を浴びせる。スマートフォンのカメラが一斉に彼に向けられ、フラッシュが星のように瞬く。仁は、その光の中心で、少しだけにかんでみせた。そのぎこちない笑顔ですら、人々にとっては英雄の凱旋に見えた。
彼の活躍は、それだけにとどまらない。高速道路で横転したタンクローリーを、爆発寸前で持ち上げて川に運び、大惨事を未然に防ぐ。嵐の海で、高波にのまれそうになった漁船を、岸まで押し戻す。その全てが、ニュース速報として世界中に配信され、彼の伝説に新たな1ページを加えていった。
いつしか、有川 仁の日常は、人々の喝采と共にあるようになっていた。
彼は、超人的な聴力で街の声を聞く。助けを求める悲鳴、事故の衝撃音、火災の爆発音。それらの音を拾うたびに、彼は現場へと飛ぶ。そして、圧倒的な力で問題を解決し、人々の賞賛を浴びる。その繰り返し。
その循環は、彼にとって心地よい麻薬のようだった。
感謝されること。必要とされること。その感覚が、彼の心をかつてないほどに満たしていく。フードを目深にかぶって人目を避けていた頃の孤独感は、もはやどこにもなかった。
ある日の午後、事件を解決した帰り道、彼は公園のベンチに腰掛けていた。すると、一人の少年がおずおずと彼に近づいてきた。その手には、アトラスの活躍を報じる雑誌が握られている。
「あの……アトラス、だよね? サイン、ください!」
目をきらきらと輝かせる少年に、仁は戸惑った。サインなど、考えたこともなかった。彼はしばらく考えた後、雑誌を受け取ると、そこにただ一言、『ATLAS』と、不器用なブロック体で書き込んだ。
少年は、宝物を受け取ったかのようにそれを胸に抱きしめ、何度も頭を下げて走り去っていく。その背中を見送りながら、仁の胸には温かいものが込み上げてきた。
(これが、俺のいるべき場所だ)
自分の力は、人々を笑顔にするためにある。こんなにも、世界は自分を求めている。
その全能感は、甘美な毒のように、ゆっくりと彼の思考を蝕んでいく。
彼は、人々の心の奥底にある、もっと複雑で、声にならない叫びに、まだ気づいていなかった。物理的な力では決して解決できない、静かな悲鳴がすぐそばで上がっていることに、気づく由もなかった。
ただ、鳴り響く喝采だけが、彼の耳には届いていた。




