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世界から忘れ去られる方法  作者: 伝福 翠人


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天を支える腕(かいな)

その日、街は地獄の釜の底のように煮えたぎっていた。


真夏日のアスファルトを溶かすほどの熱波ではない。天を衝くほどの摩天楼、セントラル・タワーの最上階から吹き出す、悪意に満ちた橙色の炎が放つ熱だった。黒煙は巨大な竜のように空をのたうち回り、太陽の光さえ遮っている。地上では、けたたましいサイレンと、逃げ惑う人々の悲鳴が不協和音となって響き渡っていた。


「ダメだ! これ以上は近づけない!」


消防隊長が叫ぶ。放水車から伸びるホースの水圧は、ビルの巨大さの前では子供の水鉄砲のように無力だった。高層階の窓ガラスが、内側からの圧力に耐えきれず、爆発するように砕け散る。きらきらと舞うガラス片は、死の雪のようだった。


ビルの中には、まだ数百人が取り残されている。展望レストランの客、オフィスで働いていた人々、そして、逃げ遅れた子供たち。彼らの命は、燃え尽きるまでの残り時間という、残酷な砂時計の上にあった。


誰もが絶望に顔を歪め、祈るか、あるいは天を呪うことしかできない。そんな地上の喧騒の中、ただ一人、流れに逆らうように歩く男がいた。


フードを目深にかぶった、何の変哲もない青年。有川 仁。彼は、パニックに陥る群衆の誰とも視線を合わせず、ただ燃え盛るビルを、その静かな瞳で見上げていた。彼の耳には、人々の悲鳴よりも鮮明に、もっと別の音が届いていた。


――ギシッ……ミシリ……。


それは、鉄骨が熱で歪み、コンクリートが限界を超えて軋む、巨大な建造物の断末魔の叫びだった。彼の瞳には、常人には見えない建物の構造的な欠陥、今まさに崩落しようとしている一点が、まるでレントゲン写真のように映し出されていた。


(……あそこが崩れたら、終わりだ)


彼がそう認識した瞬間、ビルの中腹が、まるで巨大な獣に喰いちぎられたかのように大きく歪んだ。轟音と共に、建物の外壁が剥がれ落ち、内部の鉄骨がむき出しになる。セントラル・タワーは、もはや自重を支えきれず、ゆっくりと、しかし確実に地上に向かって傾き始めていた。


「総員退避! ビルが倒壊するぞ!」


消防隊長の絶叫が、最後通告のように響く。人々は我先にと、死の影から逃れようと走り出す。


しかし、有川 仁は動かなかった。彼はフードを脱ぎ捨てると、人々の流れとは逆に、崩れ落ちてくるビルの真下へと、静かに歩を進めた。


「馬鹿野郎! 死にたいのか!」


誰かが叫んだが、その声は彼に届かない。


彼の頭上、数十階分のオフィスフロアが、一つの巨大な塊となって、重力に従って落下してくる。空が、コンクリートと鉄骨の塊で覆い尽くされる。


誰もが目を覆った、その時だった。


ゴウッ!


地響きとも衝撃波ともつかない、腹の底を揺さぶるような音が炸裂した。人々が恐る恐る目を開けると、そこには信じがたい光景が広がっていた。


たった一人の男が。


両腕と、その背中で。


崩落してきたビルの巨大な塊を、受け止めていた。


「ぐ……ぅうううっ……!」


彼の足元のアスファルトが蜘蛛の巣状に砕け、全身の筋肉が鋼鉄のロープのように隆起する。常人であれば一瞬で塵と化すほどの質量が、彼の双肩にのしかかっている。しかし、彼は支えていた。微動だにせず、傾きかけた摩天楼を、その身一つで支えきっていた。


地上の喧騒が、嘘のように静まり返る。誰もが言葉を失い、目の前で起きている現実を理解できずに立ち尽くしていた。


その奇跡的な光景は、偶然現場にいたテレビ局のヘリコプターによって、鮮明に捉えられていた。中継先のスタジオも、そしてテレビを見ていた全世界も、息を呑む。


現場のレポーターが、震える声でマイクに叫んだ。


「な……なんてことでしょう! 人が……たった一人の男が、ビルを支えています! まるで……まるで、神話の世界です! 天空を背負い続けたという、あの巨神……!」


レポーターは必死に言葉を探し、そして、誰もが知るその名を叫んだ。


「――アトラスです! 現代に、神話の巨人アトラスが現れました!」


その名は、電波に乗って瞬く間に世界を駆け巡った。


彼が作り出した、奇跡的な時間。その隙に、消防隊は決死の救助活動を再開し、ビルの中にいた全ての人々が生還を果たす。


そして、最後の一人が救出されたのを確認したかのように、男はふっと力を抜いた。支えを失ったビルの残骸は、安全な区画へと轟音を立てて崩れ落ちる。


煙が晴れた時、そこに彼の姿はなかった。


ただ、世界中の人々の脳裏に、その圧倒的な姿と、『アトラス』という名だけが、鮮烈に刻み込まれていた。

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