Last Case 終電の殺し屋の場合 ~破戒~
まっとうに任務を遂行するつもりだった。生かしたままこの女を捕まえ、代わりの女の死体を用意する。世間はただのカップルの心中だと判断し、二人は世間的には死んだことになる。そうするつもりでここに来た。
理性が言うことを聞かない。ただ、目の前の女を殺してやりたかった。
「自分は殺し屋を上手に賢く利用する側だと思った? 残念。お母さんはターゲットだよ」
我が子が死んでも何とも思わない毒親。我が子がなぜ死んだのかにもたいして興味を示さなかった。いつ生まれ、いつ死んだかも覚えていない、その程度の存在。自分を捨てた男の顔も名前もはっきりと覚えているくせに、我が子の顔は覚えていない。「流伽」という名前もどうせ今の今まで忘れていただろう。
殺し屋は皆、一度は考えたことがあるだろう。「自分の母を殺せるか」と。“終電の殺し屋”は殺さずの殺し屋だが、もしも産みの母に出会ったときにその人生を奪えるか、何かしらの温情をかけてしまうのではないかと思ったことがある。
温情をかけたかった。暴力もネグレクトも全部許したかった。少しでも愛してくれていたならば。死んだと思っていた我が子が実は生きていた、そんな奇跡を喜んでくれる母だったならば。
「人を呪わば穴二つ、人を殺そうとしたんだから殺されても文句言えないよな」
遠い昔のくだらない話をしよう。
お母さんがスマホのロックをどうやって解除するかを覚えていた。だから、お母さんがいない間にYouTubeを見た。水道が止まって困ったから、YouTubeを見れば、どうしたら水が出てくるかわかると思った。
だってYouTubeは何でも教えてくれるから。ハムきちの育て方はYouTubeが教えてくれたから。
調べ方がわからなかった。文字の打ち方がわからなかったから。文字なんて教えてもらえなかったから。
一度ある種の動画を見たら、似たような動画が何度も表示される仕組みだと知った。お母さんはハムきちをもらってきた日に一度「ハムスターの育て方」という動画を見ていた。だから、おすすめ動画のうちサムネイルにハムスターが描いてある動画を見た。
水道に関する動画はわからなかった。でも、水が出なくなったらお母さんだって困るはず。お母さんが昔見た動画の一覧を見てみよう。ダメだ、サムネイルは文字ばっかりで読めないや。
おすすめの中からあてずっぽうで再生しよう。こうして闇サイトの紹介チャンネルに出会った。じーちゃんに出会った。
なんで、闇サイトなんてアウトローな動画がおすすめに表示されたのか。答えは簡単。お母さんがよくない動画を見てたから。あの頃は文字を読めなかったけれど、サムネイルの文字の形は覚えている。一度見たものを忘れられないこの脳が忌々しい。これは遺伝か突然変異か。
母が見ていた動画のサムネイルに会った文字。
「子供にかけられる保険金、最大いくら?」
「事故に見せかけた殺し方」
そっちが先に殺そうとしたんだから、これは正当防衛だよね?
「なあ、お母さん。保険金、いくらもらったの? 何に使ったの?」
「使ってない、騙されて取られちゃったの」
「そっか、大好きだった“隆一くん”に全部あげちゃったんだ」
じーちゃん、ごめん。やっぱり、この女を許せない。不殺を貫く高貴な殺し屋にはなれませんでした。今日で終電の殺し屋は破門かな。
産みの母にナイフを向ける。母親は泣きじゃくっている。
「なんでぇ、なんでアタシばっかりひどい目にあうのぉ」
徹底的なまでの他責思考。あんたに育てられなくてよかったって心から思うよ。
「最期に言い残すことは?」
清々しいまでに自己愛の強い女、桃山真知子。ラストチャンスだ。もし、ごめんなさいって一言でも謝ったら、見逃してやってもいい。
「殺さないでぇ、お願い、殺さないでぇ」
決まりだ。さようなら。せめて苦しまないように、頸動脈を一撃で。
「ルカぁ、殺さないで。愛してるから」
心臓をぐしゃりと握りつぶされたかのような動機が襲った。体が動かなくなった。
「お願い、愛してるから殺さないで、ルカのこと愛してるの」
手に力が入らない。何で躊躇するんだ。こいつに昔殺されかけたんだぞ。今度こそ殺されたいのか。なんで腕に力が入らないんだ。
「せっかく会えたんだから殺し屋なんてやめて、また一緒に暮らしましょ。愛してるわ、ルカ」
こいつは殺人鬼だ。我が子を殺そうとして、恋人を殺して、その妻子も殺そうとして、また恋人を殺した。ハムきちだって、こいつに殺されたようなものじゃないか。
「ルカ、愛してる、愛してる。殺さないで、愛してるから」
こいつは人殺しだ。この人は命を何とも思ってない。お母さんは悪い人だ。お母さんは怖い人だ。お母さんは、お母さんは……。
「愛してる、愛してるの、本当に愛してるの」
お母さんに殴られた。お母さんにパンをもらった。お母さんに堕ろせばよかったって言われた。お母さんにハムスターの動画を見せてもらった。お母さんに家から閉め出された。お母さんが生んでくれた。
「ルカのこと、世界で一番愛してるの」
――お母さん、お母さん。
まただ、心の中で幼い子供が泣いている。なあ、お前の名前を教えてくれよ。お前はセイなのか? 流伽なのか? お前は何を望んで泣いているんだ。
――愛されたい。
そう呟いて、幼いあの子は砂になった。脆い砂の像は跡形もなく崩れる。涙の雨に流されて、どこかへと消えていく。その瞬間とても砂粒が幸せそうに見えた。
「ルカ、愛してるわ」
女が呟いて拘束を解こうとした瞬間、全身全霊をかけてもう一度おさえつける。関節を固めて、一ミリたりとも動けないように。
「『愛してる』を命乞いの道具にすんじゃねーよ!」
こいつは分かっていてやっているんだ。「愛してる」って言えば、子供は親を嫌いになれない。全部わかっているから、魔よけの呪文として唱えているだけ。そこに愛なんてない。
「じーちゃんにだって言われたことないのに、お前が軽々しく言っていい言葉じゃねえんだよ! 今更遅いんだよ! もう全部おしまいなんだよ!」
目から涙がボロボロこぼれた。悔しい。こんなやつのために泣きたくない。こんなやつのためにじーちゃんの流儀を汚したくない。
「おしまいじゃないよぉ、だって、血は水よりも濃いでしょ? ねえ、ルカぁ」
子供の頃の記憶、特に感情に関する記憶はだいぶ曖昧だ。痛いとか苦しいとか悲しいとか、そういう感情は全部塗りつぶされていた。あの頃何を感じていたか。ひたすら渇きを感じていた。
常に喉が渇いていた。ろくに水を与えられなかった。全身が水を欲していた。立って歩いて、蛇口を捻れるようになるまでずっとそれしか頭になかった。
ハムきちは脱水症状を起こして死んだ。ずっと、水を探していた。ハムきちを助けるための水を。渇きを癒すための水を。
お前の血じゃこの渇きは癒せない。
「ルカはもういないんだよ、真知子さん」
“他人”の細い首筋をなぞる。ナイフを刺す場所にあたりをつける。
「お前がルカを殺したんだ」
その、報いを受けろ。