Last Case 終電の殺し屋の場合 ~動揺~
「あのぉ、聞いてる? 質問してるんだけど。あんた、アタシの待ち合わせ相手だったりしない?」
高圧的な物言い。答えなきゃいけない。
「ちがいます」
反射的に出てきたのは、否定の言葉だった。逃げたい。この女から逃げたい。殺される。違う。何を考えてるんだ。これから殺すんだろ、これから消すんだろ、この女を。
「そう、違うのね。ごめんねぇ」
女は少し離れてスマホをいじりだした。メールを受信する。着信音でバレるなんて馬鹿な真似はしない。サイレントマナーモードにしておくのは常識以前の問題だ。
「着きました。ピンクの服着てます」
終電の殺し屋のメールアドレス、すなわちじーちゃんと共有しているメールアドレスにカレンからメールが来た。間違いない、この女がカレンだ。
母親の源氏名なんて知らなかった。家に来る母の彼氏は皆、母を本名で呼んでいたから。母が上京していたなんて知らなかった。じいちゃん、なんで教えてくれなかったんだよ。
「もう少しかかります。その場で待機していてください」
人気のない場所に彼女を連れ出さないといけない。しかし、こんな精神状態ではうまくいくものもいかない。落ち着く前に逃げられてしまっては元も子もない。やっとの思いで彼女にメールを送る。
ピロン、と彼女のスマホが鳴った。バレたらまずいことするときくらい着信音切っとけよ、と普段ならあきれるところだが、そんな余裕すらない。
チッ、と彼女が舌打ちをした。お母さんが怒ってる。怖い。やめて、殴らないで。心の中で、幼い自分が泣いている。落ち着け、精神を乱すな。
「うえっ……」
口を押えてしゃがみこむ。必死で吐き気を抑える。母はこちらを一瞥したが、すぐにスマホをいじり始めた。
汚いものを見るような目。あの頃と同じ目。忘れられない。一度見た光景は忘れられない。生まれつきそうだった。普通人間は匂いや音をよく覚えているものだけれど、見たものの方が強く記憶に残る体質だった。母の匂いも声も、母親に対して感じていた感情も今日この瞬間まで思い出すことはなかったのに、母の顔だけはずっと忘れられなかった。
「大丈夫ですか?」
通りすがりの女の人に声をかけられる。それを見たサラリーマンがこちらにやってくる。
「あ、この人気分悪そうなんです」
「どうしましょう? 駅員さん呼んできましょうか?」
「あ、お願いします」
「どうしたんですか?」
「この人が具合悪そうで」
「じゃあ私、お水買ってきますね」
答えられずにいる間に、どんどん人が集まってくる。目立ってどうするんだよ。人がどんなに集まっても、母はこの状況を無視してスマホをいじっていた。
「お水買ってきました、どうぞ」
蓋を開けた状態のペットボトルの水を差し出される。自律神経が乱れて喉はカラカラだ。
「だいじょぶ、っす」
殺し屋としての性が、見知らぬ他人から飲食物をもらうことを拒否した。
そのタイミングで、母がこの場を離れた。慌ててスマホを確認する。終電の時間が迫っていた。アドレスの送信履歴によると、「完了。XX駅に来てください」とじーちゃんが送信していた。
「オマエ ニハ マカセラレナイ」
幻聴が聞こえた。いつの間にか、女を……ターゲットを見失ってしまっていた。
「オマエハ モウ イラナイ」
待って、じーちゃん。捨てないで。できるから。やれるから。お願いだから見捨てないで。よろよろと必死で立ち上がった。
「あ、君。無理しちゃだめだよ」
「平気、っす」
平気じゃない。全然大丈夫じゃない。でも、これは試練だ。
なぜ、じーちゃんが依頼者が母親だと伏せたのか。試されているんだ、じーちゃんに。
これは二代目・終電の殺し屋としてふさわしいかの試験だ。不合格なら存在価値はない。でも、合格ならこれからもじーちゃんの孫でいられる。
視覚以外の記憶力には自信がない。それでも、あの日じーちゃんに拾ってもらった嬉しさはずっと覚えている。優しい声も、手のぬくもりも、水のおいしさも全部。
力の限りに走った。終電の発車まで、あと三分。人の流れの隙間を縫うように猛ダッシュする。足の感覚はとうにない。
改札を抜けて、地下深いホームへの階段を二段飛ばしで降りていく。最後の階段の上から、ターゲットが電車に乗り込む姿を確認した。残り十秒。普通に降りていたんじゃ間に合わない。
やれる。殺れる。まだやれる。本物の終電の殺し屋ならばこんなところで終わったりしない。
足に力を入れて、踏み切った。ジャンプして、階段の上から下まで一気に飛び降りる。上りエスカレーターに乗ったカップルと目があった。口をぽかんと開けていた。着地は片足で。勢いを殺さず、そのまま走れ。突き進め。
「ドアが、閉まります」
放送と同時に、電車に駆け込んだ。滑り込みセーフ。コンマ一秒後に、後ろで扉が閉まる音がした。