「なろう5年生」になって思うこと……(´・ω・`)
筆者は2023年の9月で、なろう5年生になった (゜∀゜;)
皆様のお陰で続けていられる。
まずは、それに感謝を述べたい。
さて、本題だが「読みやすい文章を書くのが大切!」これがよくなろうのエッセイで言われている。
……もちろん、それは大切なのだが。
しかし、最も大切なのは「おもしろいものが描ける」ことだったと最近気づいた。
これは、書いてない人からすれば当たり前だと思うだろうが、意外とサイト中で書いていると判らなかったりする気がする。
今頃気付いたのだが、読みやすいように書くことは練習できるが、面白い話を書けるように練習するのはなかなかに難しい。
多くの人がそうであったように、なろう小説のヒット作を読んだとき、思ったのは「自分でも描けるんじゃないだろうか?」であった。
批判覚悟で言ってしまうが、なろうというサイトに載っているファンタジー小説は、そんなに文章が巧いとは思わなかった。
むしろ、極端に言えば、本というレベルにしては稚拙に感じたかもしれない。
だから、多くの挑戦者を呼びこんだ側面もあると思う。
ではなぜ「面白いものが描けること」が、他の要素を排するほど重要かに気付いたかについてだ。
私は、50位までのエッセイの日間ランキングをよく見るのだが、そこに出て来る作品は、面白いか面白くないかは別として、文章としては読みやすいものが多い。
そこで、おもしろいものを作品として見つけると、どんな方かと興味をもち、作者の方のページを覗くのだ。
大体、そこにはエッセイ以外に、長編のファンタジー作品がおいてあることが多い。
稀に高得点者もいるのだが、大体が、私と同じようにションボリな点のことが多いのだ。
「文章が読みにくい?」
そんなことはないのだ。
むしろ、スラスラと読めるエッセイを書く作者の文章なのだ。
程よい改行もしてあるし、無駄に難しい言葉も使っていない (´・ω・`)
……ぶっちゃけ、私より巧いのが現実だww(ノ∀`)
しかし、人によっては「2PTだけしか点がない」とか、自虐系の面白エッセイを書く人もいるほどだ。
つまり、努力のしようがある「読みやすさ」(だけ?)というものは、意外なことにあまり重要な要素ではないのではないだろうか?
きっと、我々の作品に足らないのは、努力しにくい「面白さ」という要素なのではないか?
結局は小説とは面白くてナンボの世界。
研ぎ澄まされた「センス」という実力がモノをいうのだ。
きちんとした文章を書くだけなら、学校の国語の先生たちが皆小説家だ!w
最近、そういう「当たり前」なことに気付いて、今更ながらに納得してしまった。
……でも、それ以上にがっかりしている (´・ω・`)ションボリ
そう、そろそろ、自分の「センス」の無さを認める頃合いなのだろう……。
多くの違う意見があり、このように書くことが、あまりよくないことも肌で感じる。
だが、あまりにも書かれないことに「なんだかそれもおかしいのではないか?」と思うのだ。