犬も歩けば人になる? 3
月曜日は生憎の雨模様。ただ、強く降っているわけじゃなく、しとしとと弱く長く降る予報だ。
いつもは徒歩通学なんだけど、今日は志津香との約束があるため自転車。着ていたレインウェアとズボンを校舎の玄関で脱ぎ、ビニール袋に詰め込む。
その作業中に、ふと思った。
志津香は今日、学校に来てるかな?
昨日、あれから連絡はなかったし、こっちから連絡するのも躊躇われたんで放置していた。無事に家に帰れたのか、今日無事に学校に来られるのか。
そんな心配は教室を覗いて、すぐに消えた。
「志津香、びしょびしょじゃん。ほら、タオル」
「わりぃな、ミッチー。これくらいならカッパなしでもいけるって思ったんだけどなー。意外と濡れた」
「ブラ、透けてるよ」
「あたしのブラ見て発情する奴なんてテツくらいだろ」
「す、するかっ!」
窓際が随分と騒がしい。いつもはうるさいな、と思うだけだったけど、今日は少しだけ安堵を覚えた。自分の席に座り、鞄の中身を机に整理しているとスマホが震える。
誰だろう? こんな朝から……。
『今日の約束忘れんなよ』
と、志津香からのメッセージ。
一瞬、彼女の方に顔を向けそうになったけど、それはやめて、敬礼するクマのスタンプだけを送っておいた。
授業は滞りなく進み、そして終わった。
今じゃネットやSNSでいろいろな話や噂が爆発的に拡散していく時代だけど、昔は人伝に広がっていくしかなかった。
その温床となったのが学校と言うコミュニティーで、そこで生まれた一つが人面犬だ。
だから、この高校にも何かしらの影響が出るんじゃないかなって思っていたから、何も起きなかったことは素直に良かった。
けど、問題はここからだ。
「何も起きなかった」では何の解決にもならないし、逆に「何か起きた」時にはどう対処すればいいのかの対応策は未だ不完全だった。
「つまりは人面犬をぶっ殺す算段は整ってねえってわけか?」
「まあそうだけど、何でもかんでもぶっ殺さないでもらえるかな? ヤンキーって穏便な解決法を選ばないの?」
血気盛んに拳を握る志津香には、僕の不満は聞こえていないようだった。
放課後、前回と同じように別々に教室を出て、別々に目的地へ向かった。雨は午前中より少し弱くなり、新緑のトンネルがあるこの峠道ではほとんど降っていないようなものだ。
それでも僕はレインウェアを纏い、対する志津香は制服に体操着のジャージを羽織おり、スカートの下にズボンを穿いていた。
「人面犬に出会ったのはこの辺りの坂なの?」
「ああ、多分な。いきなり後ろから鳴き声が聞こえたから正確な位置はわからねえけど、この辺りの坂を下ってた時だな」
「じゃあ、念のためにもう少し上からこの坂を下りてみよう」
少し先にこの下り坂のスタート地点と言うべきか――平坦になっている場所があったので、そこからペダルを踏み込んだ。自転車がある程度のスピードに達するとペダルを漕ぐ必要はなくて、緩いカーブを下っていく。
晴れていれば爽快なサイクリングロードなんだろうね。地面が濡れた今はスリップしないかが少し心配だ。お互い、ただのどこにでもあるママチャリなんだから。
「この辺だよね?」
「ああ、おっかしいな……。この辺りで急に鳴き声が――」
志津香と並走しながら喋っている時だった。
少し小さく、犬が吠える声が聞こえたような気がした。聞き間違いかと思って横目で志津香を見ると、彼女もこちらを見ながら喉をごくりと鳴らす。
怪談のお出ましだ。そう思うと、不意にも僕の口許は少し緩むのだった。
「わん! わんっ!」
「で、出た、出たぞ! あいつだ、碧斗!」
前方確認をしてからさっと振り向くと、確かに茶色い物体が自分たちの後ろにいた。もう一度、今度は長く後ろを振り返る。
そこで目にしたのは、父親と同じくらいの歳の男性の顔が付いた柴犬だった。
想像はしていたし、ネットでも調べて想像図も見た。けど、実際にこの目で見るのとではやっぱり違う。実物って……。
「結構キモいね……」
「だろ! 何なんだよ、あのおっさん犬! 頭の天辺の辺りがちょっと白いから、禿げてるようにも見えるしさ! それが余計にやだ!」
「顔だけ見ると、おっさんにケモ耳生えたもんだしね。どこのオタクが喜ぶんだか」
「昔の小学生ってキモいのしかいなかったのかよ!」
「まあでも、そう言う人たちから生まれたのが今の僕たちだからね……」
ただ調べてみると、人の顔を持つ犬の話は相当古くから、江戸時代の頃からあったらしい。
当時、梅毒の患者は犬と性交すると治る、って言う迷信が出回り、その結果として生まれたのが人の顔を持つ犬だ、と噂されたそうだ。
他にも人の顔を持つ動物として有名なのが妖怪「くだん」だ。漢字で書くと「件」、字の通り「にんべん」に「牛」なんで、体は牛なのに顔は人間。
くだんは怖い妖怪って言うよりは奇妙な妖怪で、生まれると何かの大惨事や凶事を予言して死ぬ。そして、それは必ず当たるんだと言う。
悪いことを教えてくれると捉えれば良い妖怪なんだろうけど、言ったことが必ず現実になると捉えれば恐ろしい妖怪ではある。
くだんも古くから記録はあって、幕末や第二次世界大戦頃にも民衆で噂されたんだとか。そう考えれば人面犬はまだまだ新しい方の類で、こう言う土台があったからこそ生まれた噂、とも言えるのかも知れない。
「そんで、どうするよ? あいつ、めっちゃ追い駆けてきてんぞ!」
「古い怪談で多い解決策は何かアイテムを使うか、魔法の呪文を唱えるか、だよ。口裂け女で言えば、べっこう飴とかポマードだね」
「ハゲ! メタボ! 働け! 日曜ゴロゴロすんな! たまにはメシ作れ! 枕臭いんだよ! 洗濯物一緒にすんな!」
魔法の呪文と言うより、単なる悪口じゃない? しかも、おっさんじゃなく、お父さんに対する。
当然、人面犬に何の効果もない。
「ダメじゃねえか!」
「みたいだね。あと多いのは、力尽くって言うよりは打ち勝つってものかな。相手の土俵に上がって、それで相手より勝る。そうすると怪異は消えていく、みたいな」
「あいつの土俵……? つまりは、スピード勝負か!」
「そう単純に考えるのは――」
早いんじゃないかな?
そう言おうとした時には、志津香はもうペダルを踏み込んでいて、まるで競輪選手のように上体を低くして前に出ていた。
下り坂も力を押し、志津香はぐんぐんスピードを上げていく。それにどうにか付いて行こうとするんだけど、それよりも先に志津香を追随する茶色い物体がいた。
「志津香、行ったよ!」
「上等だ、このヤロー!」
人面犬が、まるでボールを投げられた犬のように疾走していく。狙いはあくまでも志津香と言うことなのか。
一人と一匹を追う形となったわけだけど、そこでふと思った。
これって僕も人面犬に追い抜かれたってことになるのかな……?
どうにか志津香に食らい付く中で、人面犬が彼女に少しずつ迫っているのがわかった。噂では高速道路を百キロで走ると言うんだ。自転車に追い付く、自転車を追い越すことなんて簡単なこと。
けど、志津香は上手く人面犬の前を阻み、追い抜かれまいとしている。
均衡した勝負。一瞬の気の緩みが敗北に繋がる。そんな緊迫した状況ではあるんだけど、僕は根本的なことに気付いてしまった。
このレースのゴールはどこにあるのだろうか、と。
「うおりゃあああああー!」
まさか、どちらかが疲れて停まるまで終わらないのんろうか。それより先に、こっちがバテてしまう。
そう思った矢先、そのまさかが現実のものとなった。
「もう無理っ! あかんわ!」
そんな鳴き声……じゃなく、叫び声を放ったのは人面犬で、その人面犬は急に足を止めてぱたりと横に倒れた。
その少し先で志津香は急停止し、後ろを振り返って倒れた人面犬を呆気に取られた顔で眺めている。
「な、なあ、これってあたしが勝ったのか?」
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