トイレのしずかちゃん 2
学校に忍び込む日は、特に理由はないそうだけど週の真ん中、水曜日に決まった。時間は午後九時。
テストを前にして残業している教師がいるかも知れないからと、少し遅めの決行となった。
両親の許可は僕もそうだけど、志津香も簡単に取れたそうだ。志津香はテスト勉強だと嘘を吐いて、僕は正直に肝試しに行ってくると言っておいた。
テスト前だから志津香の両親は喜んで見送ったそうだし、僕の方はいつものことかと平然としていた。
「この学校は宿直の用務員とかいないよね」
「あたしの小学校にはいたような気がするけど、雇う金とかないんじゃね? けど、代わりに学校の戸締りは完璧だ。教師ほぼ全員でチェックして帰るみたいだし、完全下校した後に用務員が更にチェックして帰るらしい」
「じゃあ、どうやって入るの? 窓ガラスを叩き割るとか?」
「あたしは不良じゃ……あっ、いや、不良か……」
冷静な自己分析。ただ、夜中の学校に忍び込もうとしている時点で僕も不良だよな。
「一年の教室なんだけど、鍵が緩くなっている窓があるんだ。ガタガタ揺らせば鍵が開くってわけさ」
誰もいないってわかってはいるんだけど、自然と小声になるし、足音もできるだけ立てないように歩いていた。そうやって辿り着いた教室の窓枠を、志津香は静かに揺らし始める。
鍵は極一般的な、摘みを上下するものだ。それのネジが緩くなっているのか、確かに窓枠の揺れに同調するみたいに鍵の摘みも震えている。
そうしているうちに、少しずつ鍵が下りていき、最終的には力を失ったかのように摘みが落ちた。
「よっし、これで潜入成功だ。ここの教室からだとトイレは……あっちだな」
誰もいない教室を通り抜けて、月明かりしか届かない薄暗い廊下を歩いていく。
ちなみにうちの高校は上履きなしの土足オッケー。これが土足禁止の学校だったら面倒だったかも。
トイレに向かう途中、もしかしたらと思って校舎を適当にデジカメで撮ってみたけど、パッと見て変化はない。ただ、心霊写真はじっくり見ないとわからないものが多いから、家での確認作業も怠れないんだ。
「碧斗ってさ、服とか興味ねえの? 素材はいいんだし、着飾ればモテんじゃね?」
「どうだろ? ただ、今着ている服はカッコいいとは思ってないけど、カッコ悪いとも思ってないよ。単にお洒落なんて気にせず着ているだけ。今日で言えば、動きやすい服装かな」
学校に忍び込むのに、わざわざ制服を着ていくわけがない。僕は無地の黒いTシャツに丈が膝下くらいのハーフパンツ。もちろん、靴はスニーカーだ。
対する志津香もそう変わらず、胸に読解不明な英語が書かれたTシャツにジーンズ。似合っていないわけじゃないし、そもそも肝試しにめかし込んで来る奴もいないだろうから、至って自然な恰好だ。
「あたしも。私服は大体こんな感じ。制服以外でスカート穿くことねえし」
「いいんじゃない? 志津香っぽいし」
「お、おう……。あ、碧斗も全然普通だと思うぜ」
「何、動揺してるの?」
「してるか、ボケっ!」
静かな学校に二人の声だけが木霊する。それはまるで、世界に僕たち二人だけしかいなくなったような、そんな不思議な感覚だった。そこに不安や恐怖はまるでなくて、寧ろ居心地のいい空間だと思った。
志津香と雑談をしながら辿り着いた女子トイレ。月明かりも届かないそこは、真っ暗な入り口だ。得体の知れない闇が、大きく口を開けているみたい。
僕はポケットに忍ばせておいたペンライトを点け、女子トイレの入り口を照らした。手洗い場が手前にあって、その上の鏡からの反射が少し眩しい。
「よし、行くか」
「う、うん……」
ああー……本当に女子トイレに入っちゃうよ……。この期に及んで、未だ僕には躊躇いと言うか、緊張みたいなものがあった。
トイレの中は少し冷気に包まれていた。ひんやりとしていて、僅かに石鹸か芳香剤の匂いが漂っている。
「おーい、花子。いるか?」
本当に妹か友達でも呼んでいるような呑気な声だ。それは静かなトイレに木霊するだけで何の変化もない。
おかしいな、と呟きながら志津香は「おーい」と声を掛け続けた。そうしていると志津香の声に重なるように、女の子の笑い声が聞こえてくるような気がした。
「あはっ」「ふふっ」と小さな声が背後からする。
僕らの後ろ。そこは手洗い場。そして、鏡……。
「お姉さん、遊びましょう」
正に幽霊、って光景だった。鏡の中から出て来たのか、それとも壁ごと擦り抜けて出たのか、おかっぱ頭の少女が顔を覗かせて微笑んだんだ。
「何だよ、今日はそっちにいたのか」
……相変わらずだな、志津香は。結構な心霊現象だと思うんだけど。
ただ、僕の方も対応はいつも通りで、すぐに少女へとカメラを向けていた。液晶画面で被写体とピントを確認すると、今回は何とあの少女がしっかり映されている。
よ、よし、撮れる……。撮れるぞ……!
興奮と逸る気持ちを抑えつつ、僕はシャッターボタンに指を掛けた。
「えっ……?」
そこには何も写ってはいなかった。ううん、正確に言えばいつもの風景写真だ。学校のトイレの、手洗い場と鏡が写っただけの写真。
「ダメっぽいか?」
「……うん。理由はわからないけど、液晶には映るのに、写真にすると写らない。僕に技術がないのか、それとも才能なのか……」
あっ、そうだ。
才能が問題なら、ここに才能のある人間がいるじゃないか。
「ねえ、志津香。きみが撮ってみてくれない?」
「あ、あたしがか? まあ、いいけどさ……」
昭和の遺物だとしても、怪異を呼び寄せてしまう志津香なら、心霊写真も撮れるかも知れない。単純な考えだけど、試さない理由はないよね。
「どうよ?」
志津香から受け取ったデジカメを操作して、彼女が撮った画像を液晶に映す。その結果は、
「な、何だ、これ……」
だった。
何も写ってない。言葉だけ聞くと僕と同じ結果のように聞こえるけど、志津香が撮ったものは本当に何も写っていないんだ。
逆光を、強い光を撮影したみたいな、ただただ真っ白な写真。
「わ、わりぃ……。あたし、デジカメとか触ったことないんだわ。何かミスったよな……」
「全然いいよ!」
「あ、碧斗……?」
「写るだけが心霊写真じゃない! 写らないことも心霊写真の一つだよ! うわっ、マジか。目の前で心霊写真が撮られちゃったよ……。自分の手で、ってわけじゃないのは悔しいけど、それでも……嬉しい!」
「真っ白な写真見て、ここまでテンション上げられるなんて、お前はほんとバカだな」
少し呆れられているみたいだったけど、志津香もどこか嬉しげに笑ってくれていた。そんな僕たちの様子を、おかっぱの少女は小首を傾げて眺めている。
怪談を相手に放置してしまったものだから、あっちも呆れているのかも。
そんなことを考えていたら、少女がとことこと歩み寄ってきて、僕をじっと見つめてきた。
「今日はお兄さんも一緒なの?」
「ああ、こいつはあたしのクラスメートだ。花子のこと、教えてくれたのがこいつなんだ」
「ふーん……」
何だろう、この子……。
青白い無機質な表情。そこからは上手く彼女の感情を読み取ることはできそうにない。ただ、ここまでちゃんと意思疎通ができるのは驚きだ。
口裂け女との会話は途中で崩壊してしまったし、人面犬とはまともな会話はできた気がするけど、内容は単なるセクハラ。
だから、普通の子供を相手にしているような、普通の会話ができることに僕はちょっと感動してしまった。
怪談の内容が対話系のものだから、とか? 少しファンタジーな解釈をするなら、花子さんは上位の怪異、とかかな?
もしも怪談に「年齢」みたいな概念があるとしたら、確かに「トイレの花子さん」はかなりの年配者だ。そう言う考え方も、強ち的外れでもないんじゃないかな。
「こんばんは。僕は常田碧斗。きみはトイレの花子さんなんだよね?」
「そう。今日はお兄さんも一緒に遊んでくれるの?」
「別に構わないけど、トイレの中で何をして遊べばいいのかな?」
「何でもいいのよ。お兄さん、遊びましょう」
そう言うと、少女は僕の手首を掴んだ。怪談に触れられているってことに、一瞬感激してしまった僕。
けど、彼女のその手の冷たさが一気に思考を冷静にさせてくれた。
花子さんは僕の手を引くと、トイレの個室へと導く。まさかそこで、お飯事か何かゲームでもして遊ぶのか?
そんな呑気な考えが僅かに脳裏を過ったけど、相手は普通の子供じゃない。
志津香から聞いた話とは違う反応。腕を掴まれた時点で、僕は怪談に「掴まれた」んだ。
「ねえ、お兄さん。花子とずっと、ずっと遊びましょうね」
「なっ……!」
振り返った少女は、口裂け女ほどじゃないけど、にたりと口角を一杯に上げて笑っていた。その悍ましい形相は、心霊スポット巡りで少しは恐怖への耐性のある僕でさえも、震え上がってしまうほどのものだった。
そのせいで力なんてないはずの女の子に、僕は個室へと連れられて行く。
洋式トイレが目の前に迫ると、独りでにレバーが下り、水じゃなくて真っ赤な液体が便器の中で渦を巻く。少女の笑い声と、血のような水を流すトイレの音が重なっていた。
こ、これ、ヤバいやつかも……!
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