相手の立場で考えるのも一つの思考力だ
国語力がどうとか話題になってたアレ そもそも国語力#とは
ごんぎつねの兵十の母の葬式のシーンで鍋で煮えていたのが何か問われた小学生がグループでの話し合いの結果、煮えてるのは母親だと結論したことについて、国語力の低下だと評価した記事が話題になっていた。寧ろ燃えていた。
結論からいえば、その返答を好ましくないというなら、そもそも設問が悪かったのではないかと思う。何故なら、ごんぎつねの作中で鍋で煮えているのが何なのか、明言されていないからである。
論理的に考えれば、(何の為にかはともかく)煮られているのが兵十の母親であっても物語上不都合はない。何故なら、当時の文化をある程度知識として知っていれば、これは葬式振舞いの料理を作っているところではないかと推測できるが、本文中では何か煮えてる以上の情報はなく、その中身が以降の文章で出てくることもない。ごんが葬式で行われていることに気付くための小道具の一つでしかないのだ。
明言されていない以上、煮えているのが芋の煮っころがしでも、味噌汁でも、汁粉でも、粥でも、カレーでも、構わないのである。もっとも、狐で鼻が良いごんが中身を明言できないこと、兵十の家がとても貧しいことを考慮すると料理らしい料理ではないのではないか、とも考えられる。僅かな穀物を何とか水で嵩増しした薄い粥ではないか、と推測している方も見かけた。余談である。
ともあれ、青空文庫に登録されている(作者の死後50年が経過して著作権が切れている)物語は最近の子供たちにとっては一種の古典、昔話、御伽噺のようなものだろう。御伽噺においては、残酷表現が規制されていなければ、直接的な意味で人を料理して喰う話はそこそこある。かちかち山では狸汁を作ろうとして婆汁にされるし、ヘンゼルとグレーテルでは魔女が子供を食べている。ねずの木では継子が殺されてスープにされる。なんならごんぎつねと年代の近い注文の多い料理店で主人公二人が料理にされかける。人が大鍋で煮られることは実は然程突飛な発想ではないと言えるだろう。
(実際のところそうではないだろうから当然ではあるが)兵十の村にカニバリズム文化がないことは明言されていないため、故人を弔うために故人を料理して参列者で食べる風習があっても物語ついての矛盾は起こらない。もっとも、小学生たちは食うために煮ていたと考えたわけではなく、埋葬の前に消毒したり煮溶かして骨を取り出すために煮ていると考えたらしいのだが。
この鍋は葬式振舞いと推測されるといったが、最近の子供たちは小学生ぐらいだと実際の葬式に参列した経験のない者の方が多いのである。最近は時勢上家族葬で参列する人間が減らされる上に、昔より兄弟が少なくなったことで相対的に身近な人間が死ぬ確率が下がっている。そもそも普通にしていれば国内の死亡率はそう高くない。葬式で人が集まって食事をすることを知らなくてもおかしくない上に、最近は大抵仕出し弁当を頼むので、喪主の家で振舞い料理を作らないのである。なんなら市内のホールとかを借りて通夜と葬式をやるので喪主の家に集まりすらしない。現代においては葬式振舞いは廃れた異文化と化しているともいえる。
翻って、今回の設問である。普通であればさっと読み飛ばす、鍋の煮えている描写。読み飛ばしても問題ないこれを、態々注目して深く考えろと問う。普通に考えれば何某かの料理だろうと流すところを、態々注目しろというからには、それは料理ではないのではないか、と考えても何も不自然ではない。先にも言ったが、ここで煮えているのが芋でも肉でも魚でも穀類でも物語状構わないのである。態々問うのであれば、何が煮えているというより、何の為に煮えているかと問う方が飛躍した返答は出さずに済むだろう。
そもそもがこのごんぎつねという話は人間社会に疎い狐の視点で語られる物語である。ごんが語ったり思考したり推測したりしている内容が作中世界観において正しいという保証はない。メタ的には大体合っているのだろうといえるが、例えば、兵十が何故ウナギを獲っていたか本人は明言していない。ごんは母親が食いたがったから食わせてやろうとしたのだと推測しているが、違うかもしれない。精の付くものをと兵十が自分で考えただけで母親が欲しがったわけではないかもしれないし、自分や他の人間が食べるためかもしれない。町に売りに行って薬を買う費用にしたかったのかもしれない。母親が何故死んだのかも具体的には語られていないので、寝込んでなかった可能性もなくはない。ただ何かのお祝いに少し豪勢なものを、と思ったところだったのかも。考えようと思えばいくらでも人間側の物語を捏造することはできる。そして本文におけるごんの推測でないところと矛盾しないのなら、間違いとは断言できないのだ。