雨宿り
葉子は学生時代に数か月しか働くことのなかったアルバイト先の同僚の顔など、その後の人生で思い出すこともなかったであろうし、これからも脳裏に浮かぶことも起こることはない。記憶はかけらですらなく、粉々に粉砕され、日々の濁流のなかで流され、そして時期に大海原に出たところで沈殿し、堆積物となって終わる。かおりとの出会いはそんな沈殿物の塵、芥であろう。少し自嘲気味に思いを巡らせる。
生理前は往々にして悲観的で、支離滅裂で感情的になる。生理がくることを忘れている際はもっと厄介だ。それを原因であると思い当たることがない限り、のしかかる負の感情を振り返ることもせずにその中でのたうち回ることになるのだから。そう、仕事をやめてしまったせいではない、貯金通帳の金額が目減りするのが不安なわけではない、不愉快な雨が降り続けているせいではない、レインブーツが気にくわないせいではない、葉子の人生に自分のかけらすらないことを見せつけられたからではない、すべては生理前だから。そう自分をもう一度慰める。
スーパーで幾日分かの食料の買い物をすませ、まだやまぬ霧状の雨にからだを湿らせながらマンションのエントランスで自室のメールボックスを開ける。目など通すこともないチラシが数枚と白い封書がひとつ届。何日あけていなかったっけ、と3階の自室まで階段をのぼりながら封書の送り主をみる、手書きではなく、印刷された見覚えのない名前、住所。もう一度自分あてのものか確かめる。
江崎かおり 間違いはない。
玄関ドアを開け、濡れた傘を風呂場で広げ食料をがらんとしていた冷蔵庫につめこみ、もう一度封書を手に取り名をぼんやりみつめる。
誰だっけ、封書をあけると角を正確に重ねあわされ、折りたたまれた白い紙が一枚、
ひらいてみると 一文だけ 空にぽっかりと浮かんでいるように文字が横に並んでいる。