9.就寝
旅館のおじいちゃんからしこたま絞られた後、誰も何も言わなくなった。なんかもう、大学生にもなってあんな小学生みたいな怒られ方をするとは夢にも思わなかった。俺はうな垂れている二人を横目に、もう一室予約しておいた部屋に移ることにした。流石に男女同じ部屋で寝るのはまずいと思ったからだ。
既に敷いてある布団に寝そべりながら今日あった出来事を回想してみる。黒木さんが痴女みたいな水着を着て来たのはビビったなあ。まあ半分予想はしてたけど、あそこまでキレのある水着を着てくるとは思わなかった。それから佐倉とどっちが黒木さんにオイルを塗るかでケンカしてオイルまみれになったな。あいつめ、あんな時だけ女みたいな声出しやがって。それからスイカ割りをしたっけ。海にダイブする黒木さんの姿は、本人には絶対に言えないけど面白かった。
俺はふと、薄暗い天井を眺めている自分の口角が上がっていることに気付いた。二回も引っ叩かれたけど、楽しかった。三人で来て良かったと心から思った。明日も全力で楽しみたい。
トントン、と扉を叩く音。俺は反射的に飛び起きる。なんせ怖い話をした後だ。加えてここは何が出てもおかしくない古い旅館である。俺の脳みその中は「まさか本当に幽霊なのか?」という思考でいっぱいだった。
恐る恐る、右手に握りこぶしをつくったまま、ゆっくりとドアの方へ近づいて行く。
「誰、ですか?」
俺は居るかどうかも分からない相手に、そっと尋ねてみた。相手は何も言わない。が突然、ドアノブが激しく音を立て回され始めた。ガチャガチャという無機質な金属音が夜のしじまに響く。
「なんで開けてくれないの……!」
か細い女の声に骨の髄まで冷えるような気がした。これは確実に危ない霊だ。開けた瞬間に魂を取られかねない。扉の向こうの相手は依然としてドアノブを回し続けている。耐えろ! 耐えろ俺! そうやって俺がドアノブを抑えて必死に歯を食いしばっていると、今度は半泣きの声が聞えて来た。
「何で開けてくれないんですか! 先輩!」
…………えっ佐倉!? 恐る恐るドアを開けると、そこにはうつむいたままの佐倉が立っていた。
「おねしょ、しちゃったの?」
「違いますよ!」
噛みついてくるところを見ると、どうやら元気はあるようだ。
「じゃあ何でこっちの部屋に来たんだ?」
すると佐倉は再びうつむいて、手をこね始めた。こんなモジモジした佐倉は初めて見る気がする。意外と可愛いな。
「せ、先輩が一人で怖くて震えていたら可哀そうだから、し、仕方ないから私が一緒に寝てあげますよ」
「俺は大丈夫だ。おやすみ」
「まままま待って先輩! 嘘ですごめんなさい! 本当は黒木さんと二人じゃ怖くて眠れないから来たんですっ! お願いですから入れてください! 何でもしますから!」
俺がさっさとドアを閉めようとすると、佐倉は扉に片足と両手を入れてそれを阻んだ。まるで強引なセールスマンだ。これは断れそうにない。
「分かったよ」
「本当ですか!」
「入っていいけど布団一つしかないぞ」
「私の部屋から布団持ってきます!」
佐倉は機敏な動きで廊下を走っていき、バタバタと足音を鳴らしながら布団を抱えて戻って来た。何かテンション高くないか、あいつ。というか普段誰に対しても『私この世に怖い物ありません』的なふてぶてしい態度の佐倉が、こうも怖いという感情を素直に認めるのはすごく新鮮というか、ギャップが凄いというか……。
部屋に入って来た佐倉は俺の隣に布団を敷き始めた。待て、なんでこいつは当然のように俺の隣に布団を敷いているんだ。
「お、おい佐倉。同じ部屋で寝るのは良いけど、そんなに布団をくっつける必要は無いんじゃないか?」
すると佐倉は怪訝そうな顔をする。
「だって怖いから私より強い先輩の部屋に来たんですよ。近くに居ないと、いざという時に守ってもらえないじゃないですか」
佐倉はさも当然のことを言っているかのような口調だ。いやお前はそれで良いかもしれないが俺は男だぞ。もし俺が間違ってお前を襲ったりしたら……いや、襲ってる最中に殺されるか。
俺は佐倉を離すのを諦めて、一度付けた電灯のヒモに手をかけた。
「先輩、まだ起きてますか?」
「まだ電気も消してねーよ! っていうか今俺つっ立ってんだろうが!」
よほど俺の怖い話が効いたと見える。そこまで怖い話だったか、あれ。俺は電気を常夜灯に切り替え、佐倉に背を向ける形で布団に入った。
「先輩、まだ起きてますか?」
「あー、まだ起きてるよ」
「良かった……。ところで先輩、まだ起きてますか?」
「起きてるよ! なんでさっきからゼロ間隔で確認してくるんだよ!」
「先輩、深夜なんだから静かにしてください」
「お前のせいだろ!」
とツッコんだところで俺の背中の方から静かな吐息が聞こえてきた。振り向いてみると、既に眠っている佐倉の安らかな寝顔があった。寝付くの早っ! まあいい、これで俺も安心して眠れる。そう思って再び佐倉に背を向けた。
突然、ドンドンと扉を叩かれる音が響いた。心臓が止まるかと思った、という表現はこのためにあるのだろう。まさか二度も深夜にノックされる機会に出くわすと思っていなかった俺は再び飛び起きる。
佐倉も眠そうに眼をこすりながら上体を起こし、俺の顔を見て言った。
「しぇんぱい、ハリウッドに行っちゃうんでふか?」
「行かねえから心配するな」
今までどんな夢を見てたのかすごく気になるところだが、扉を叩く音は止まらない。俺は先ほどと同じように恐る恐るドアへ近づいた。
すると今にも泣き出しそうな女の声がキンキン響いて来た。
「星くん開けてえええ! 大変なのっ! 佐倉ちゃんが悪霊に連れ去られてしまったのおおおお!」
やっぱ黒木さんか。俺はホッと胸をなでおろした。
「心配しているところ残念ですが、佐倉は黒木さんを置いて俺の部屋に来ましたよ」
黒木さんに中へ入るよう促し、寝ぼけ眼の佐倉を指差していった。すると半泣きだった黒木さんの表情がみるみる強張っていく。
「まあ! なんて罪深いんでしょう!」
絶対言うと思ったわ。その声を聞いた佐倉も寝ぼけながら黒木さんの顔を認識したようで、「ちっ」と舌打ちをした。ははっ! こんな真夜中に喧嘩するのは勘弁してくれ!
「佐倉ちゃん、どうして星くんの部屋に居るのかしら?」
黒木さんは眼鏡をクイッと上げながら言った。
「私は星先輩が幽霊に怯えていて可哀そうだったから、仕方なく一緒に隣に寝てあげているだけです」
いやいや逆だろ。
「まあ! 結婚もしていない若い男女が一緒に寝るなんて許されませんわ! そこを退いて女部屋に戻りなさい!」
黒木さんは佐倉の腕を掴んで無理矢理立たせようとする。しかし佐倉は頑なに立とうとしない。
「嫌です! 私はこの部屋で寝るんですから一人で帰って下さい!」
「まあなんて罪深いんでしょう! そんなに抵抗するんなら私にも考えがありますよ!」
そう言って黒木さんは佐倉の隣に潜り込んだ。
「佐倉ちゃんがこの部屋で寝るのなら私もこの部屋で寝ます!」
待って、それ俺の布団! おい、30秒前に『結婚もしていない若い男女が一緒に寝るなんて許されませんわ!』なんて言ってたのはどこの誰だよ!
「何言ってるんですか! そんな事したら先輩の寝る場所がなくなっちゃうじゃないですか!」
すかさず噛みつく佐倉。
寝そべった状態から上体を起こした黒木さんは、走って部屋を飛び出していき、布団を抱えて戻って来た。この光景さっき見たぞ。
「これで文句は無いですわね?」
俺の隣、つまり佐倉の反対側に布団を敷きながら黒木さんは得意げに言った。何故そんなに自信満々なのかは分からない。だが佐倉が唇を噛み締めて悔しそうにしていると、どうやら三人で川の字を書くことを渋々許容したようである。ねえ、俺の許可は取らないの?
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