5.オイル塗り
「痛ってえなあ。なんで叩くんだよ」
俺はヒリヒリする頬を撫でながら言った。
「先輩がキモ過ぎるからです。私の半径3000000km以内に近寄らないでください」
「地球にいちゃだめなの?」
佐倉は答えず、黙々と腕立て伏せをしている。サイヤ人かこいつは。まあ確かに客観的に見れば女物の水着を買うという俺の行為は気持ち悪かったかもしれない。
確かにあの黒いレースのビキニは若干俺の趣味が入っているかもしれないし、どの水着を買うかで一か月間悩みぬいたし、毎晩黒木さんが俺の選んだ水着を着た姿を想像してニヤニヤしていた。だが俺の予防策はしっかり功を奏したではないか。そんなに怒るようなことでも無いだろう。
「佐倉ちゃん、ちょっとお願いがあるのだけれど」
「何ですか?」
黒木さんへ向けた佐倉の声はとげとげしい。
「背中にオイルを塗ってくれないかしら? どうしても自分だと塗りづらくて……」
「嫌です」
佐倉は未だ腕立て伏せをしたままハッキリ言った。こいつは筋トレをするために海へ来たのだろうか。
「そう。残念だわ」
そう言って黒木さんは俺の手を取り、思いがけないことを言った。
「じゃあ代わりに星君に頼もうかしら」
……え? 俺?
「お、俺が黒木さんの背中にオイルを塗るんですか?」
黒木さんは眉を下げて困ったような表情になる。
「ダメ、かしら?」
いや駄目じゃないです。全面的に良いです。俺は改めて黒木さんのムチムチした身体を見て生唾を飲んだ。グへへ。こんなに早く黒木さんの身体に触れるチャンスが来ようとは。
「先輩、何を考えているんですか?」
冷たい声にビクッとして後ろを向くと、先ほどまで腕立てをしていた佐倉が俺の背後に立っていた。暗殺者かよ。
「えっ、い、いやあ。俺オイル塗るの初めてだからうまく塗れるかなって」
「しょうがないですね。じゃあ私が黒木さんに塗りますよ」
「はっ? お前さっき塗りたくないって言ってたじゃん!」
「気が変わりました」
くっ! こいつ、俺がワクワクしてるのを察知して邪魔しに来やがったな! しかし黒木さんの方を見るとニコニコとほほ笑んでいる。
「私も女の子に塗ってもらう方が安心だから、佐倉ちゃんにお願いしようかしら」
そりゃないですよ黒木さん! 俺のワクワクを返してくれよ!
パラソルの下、シートの上で寝そべる黒木さんを前にして俺はふと気になった。
「でも佐倉、お前こそ人にオイル塗った事あるのか?」
「無いです」
「無いのかよ」
そして両手を組んでポキポキと音を鳴らせながら佐倉はこう続けた。
「でもまあ、バッキバキにすればいいんですよね」
「それ骨の折れる音だよな?」
「やだなあ、人聞きの悪い事言わないでくださいよ。私は全身に力を入れて、思いっきりオイルを塗ろうと思っただけです」
「いや雑巾がけじゃねえんだぞ……」
駄目だ。こいつは黒木さんのことを異常に敵視している。このままオイルを塗らせたら、黒木さんが関節を決められかねない。異変を察したのか寝そべっていた黒木さんも立ち上がった。
「二人ともどうしたの?」
黒木さんは苦笑しながら言った。
「ほら黒木さんが困ってるだろう。ここは俺に任せるべきだ」
「何言ってるんですか、私が塗りますよ」
佐倉はポンプ式の容器からシュポシュポとオイルを手のひらに出す。
「早く寝そべってください黒木さん」
「ダメだ。お前がやったら黒木さんが骨折するかもしれないだろ。あっちでスクワットでもしてろよ」
俺も負けじとシュコシュコと手にオイルを乗せる。
「何ですかその言い方は! どうせ先輩は黒木さんの身体をベタベタ触りたいだけでしょ!」
はい。
「違うし! オイルは俺のような手練れが塗らなければ、黒木さんの雪のように白い肌が日焼けしてしまうだろうが!」
「さっき塗ったこと無いって言ってたじゃないですか! 先輩は邪魔だからあっち行って砂に埋まっといてくださいよ!」
佐倉が押すので俺の腹がオイルまみれになってしまった。ここで俺の中で何かが切れる。
「やりやがったな!」
俺はオイルを馴染ませた両手を佐倉の背中に滑らせた。
「キャッ! 何するんですか先輩のエッチ!」
途端にふにゃっとした声を出す佐倉。まるで女の子みたいな声を出すなあ。
「もう頭きた!」
オイルの容器を掴んだ佐倉は俺めがけて水鉄砲のように何度もオイルを噴射してきた!
「うわっ! めっちゃヌルヌルする! すっごい滑るよ!」
「うははははは! どうしたんですか先輩もう降参ですか!」
魔王のような笑い声を上げながら佐倉はシュポシュポを止めない。お前がそう来るならこっちにも考えがあるぜ! 俺は全身をオイルまみれにされながら佐倉に抱き着いた。
「ちょっ! 何してるんですか先輩! 滑……んっ!」
今一瞬佐倉が色っぽい声を出したのは気のせいだろうか。
「ふ、二人とも何やってるの! 罪深いわ! なんて罪深いんでしょう!」
顔を真っ赤にした黒木さんが両手を振り下げながら叫んだ。確かにこの光景は傍から見たら男女でオイルを塗り合うという非常にいかがわしいシーンであることは確かだ。ここで、あろうことか佐倉が黒木さんの腕をつかんだ。
「貴様も巻き添えじゃああ!」
と叫びながら黒木さんに抱き着く佐倉。
「きゃあああああ! 罪深! 罪深ぁ!」
こうなってはもう三人とも全身オイルまみれである。当然、足元にもオイルが垂れていたわけで、油断していた俺は豪快にすっころんだ。残りの二人もバランスを崩し、俺の上にヌルリと覆いかぶさる。俺たち三人は、しばしその態勢で無言のまま、波の押し寄せる音を聞いていた。
「ほらみろ大惨事になった。だから言っただろう。オイル塗りには手練れが必要なんだ」
一番下でうつ伏せになっている俺はどもりながら言った。それに対して佐倉は
「どうもそのようですね」
と他人事のように返したのだった。