序幕 誰もが忘れた今際の幻想
誰もが眠りについているであろう深夜。
窓辺から差す月明かりが、狭い部屋を優しく照らす。そんな薄暗い部屋の片隅……本棚とベッドの僅かな隙間に『ソレ』は寄り添っていた。
怪しく明滅する、二つの小さな光球。まるで意思があるように浮遊するソレは、こちらの存在に気付くと、互いを庇うように身を寄せ合っていた。
それが一体何なのか。まだ幼い少年には想像もつかなかった。ただ、不思議と恐怖は感じなかった。
胸に抱えていた数冊の絵本をシーツの上に置くと、少年はおもむろに、光球へ手を伸ばした。小さな指先が、光球に触れる……仄かな温もりと僅かな鼓動。それとはまた別の、小さな震えを感じた。
生きているんだ。そして怯えている。少年は手を引っ込めると、その場に座り込んでほくそ笑んだ。
『…君には、私たちが視えるの? 』
『君はその……僕たちが、怖くないのかい? 』
二つの声色が、少年の頭の中に響いた。
少年は驚き、振り向く。しかしどこにも人影はなく、見慣れた小さな机と椅子と広いベッド、その上で静かに寝息を立てる妹がいるだけだった。
『今の声って、君たちの? 』
少年は、改めて光球を見る。相変わらず明滅しているが、先ほどよりも儚く、まるで困惑しているように見えた。
そんな二つの光に向けて、少年は笑顔を崩さずに言った。
「うん、怖くないよ? 」
その言葉に、嘘や偽りはない。
もちろん根拠なんて無いのだが、少なくとも少年には、『ソレ』が怖いものだとは到底思えなかった。
むしろその逆。『言葉を話す光の玉』なんてものに対して、好奇心が膨らんで仕方なかった。
少年にとって、そういった類は『絵本の中の存在』でしかなかったのだから。
「ねぇ、君たちは誰? どうしてこんな場所にいるの? 」
問いに対する返事はない。
しばらく沈黙が続くと、やがて二つのうちの一つが、やや躊躇いがちに答えた。
『僕たちは、妖精さ。僕たち、ちょっと色々あって家出してきたんだ。』
『でも行くアテがなくて。疲れちゃったから、ここで一休みしてたの。』
「妖精さん!? 凄い! でもそっか……う~ん、じゃあしばらく此処にいていいよ。」
その言葉に妖精たちは唖然とするが、ただの光の球体にしか見えない少年には、彼らが今どんな表情をしているのか知るすべはなかった。
『怖くない。』たったそれだけの言葉に、妖精たちは心底驚かされた。
彼らが昔から聞かされてきた『人間』というのは、『コチラ側』の存在を畏怖し、もしくはその力を利用しようと企むというものだ。
嘘をついているのか? 安心させて、僕らを利用しようとしているのか? そんな考えがよぎるが、しかしこの少年からは、そういったものが全く感じられない。
見たところ、まだ十歳にも至っていないであろう。数世紀前ならともかく、今の子どもには僕ら妖精は視認できない筈だ。なのにこの少年には、僕らが視えている。その瞳を見るに、よほど清らかな心をもっているのだろう。
妖精たちは、胸の内で好奇心が揺らいだのを感じた。
『君は不思議な子だね。本当に僕たちを怖がらないんだね。』
「……? どうして怖がる必要があるの? 」
『――は、ははは。そうだね、ありがとう。どうやら君は、とても優しい子どもみたいだ。』
本当に、不思議な子だ。変に警戒していたのが馬鹿らしく思えるくらいだ。
と、妖精の脳裏に一つの案が浮かんだ。それは彼らにとって、二度と叶わないと諦めかけていた夢の一つだった。
根拠なんてない。拒否されるかもしれない。むしろ断られる可能性の方が、遥かに高いのだ。
…でも、もしかしたら、この子なら。
『あのさ。君が嫌じゃなければ、僕たちと、友達になってくれないかな? 』
「――! もちろん! 」
その時の少年の笑顔を、僕たちは一生忘れないだろう。
それは、これから語られる物語より、ほんの少し前の出来事。
彼らの記憶に深く刻まれた、とある夜の、なんとも奇妙な出会いだった。
2019.2.9 加筆修正