邂逅を告げる第一闘争 -Ⅶ
平常という名の異常。「いつもどおり」の世界はしかし、そうあることで明らかな違和感を伴いユウを困惑させる。
そして再来する飢え――――浮かぶ謎は数知れないが、目下最大の問題であるその衝動を押さえ込むため、彼は目的地へと向かう。
日が傾き、仄かに黒みを帯びた橙色の夕闇が街を包み込む。逢魔が時とはよく言ったものだ。特別暗いというわけではない、だが決定的に昏いこの時間帯の空は古今を問わず人々の不安を煽る。
大量の食材をひたすら食べることで昼間から今までの時間、闘争への飢えを抑え込んでいた燐堂ユウは足早に廃工場へと向かっていた。交通費も含めて出費がかさむが背に腹は変えられない。そして等の工場だが最寄りのバス停からでも、雑草と砂利が広がる何もない更地を横目に徒歩で30分以上かけなければ辿り着けない立地だった。噂には聞いていたがこれでは開発の手が伸びないことにも大いに頷ける。
故に半ば必然としてそこに世間の目は向けられず、権力の手も届かない。社会への不満やモラトリアムを拗らせた、あるいはただ単に火遊びによる悦楽を求める、そんな反社会的な若者達が集うには皮肉にもこれ以上ない好立地だ。「廃工場」という頽廃的な言葉の響きもまた、それに拍車をかけているのではなかろうか。
ほどなくして目的地に到着する。門は閉じられていたが、自分の体がこうでなくとも楽に越えられる程度の高さしかなく、飾りのように張り巡らされていた有刺鉄線はそのほとんどが切断されていた。誰かが日常的にここを出入りしているのは確実だ。とりあえず無駄足にはならなかったようなのでユウは胸を撫で下ろした。
そして、そこまで高くはないといっても1.5メートルはある錆び付いた門を助走無しの跳躍で軽々と飛び越え中に侵入する。
門番はいないようだが見張りぐらいはどこかに潜んでいるはず、というより潜んでいてくれた方が有難い。よそ者の侵入を知らせてくれれば文字通り蜂の巣をつついたようにこの場所を縄張りとする者達は現れるだろう。できることなら強敵を相手取りたいものだが殺到する雑魚共を単身で次々蹴散らす闘争も、それはそれで愉しそうだ――――
「…………愉しそう?」
感じた違和感を口に出して初めて、我に返る。知らず知らずの内に思考が鬼のそれに塗り変わりかけていた事実に慄然とした。これ以上の殺しを重ねないためにもやり過ぎてしまうことには注意しようと考えていたがどうやらそれどころではなさそうだ。
飢えがまだそれほど強くはないとはいえ、もはや一瞬たりとも油断できない。不良の巣窟という極大の敵地に単身乗り込んでおいて目下最大の敵が自分自身とは何とも馬鹿げた話であった。
そして違和感はもう一つ。敷地内に侵入してからそこそこの時間が経つのに一向に敵が現れない、気配すらない。辺りには、ある意味ではとても廃工場らしい不気味な静謐が満ちている。
「アテが外れた……? いや……」
そもそもここに不良など最初からいない、という最悪の展開が頭を掠めるが地面に散乱している真新しい空き缶や吸殻、何かを燃やしたような跡から鑑みるにそれだけはないと断言できる。もしかしなくてもこれは待ち伏せをされているのだろう。遠目からでもわかる優男一人に雁首揃えて待ち伏せとは少々大袈裟な気がしないでもないが門を一足で飛び越えたところを見て警戒しているのかもしれない。今までは敷地の外縁、野ざらしの部分を回っていただけだったがそろそろ覚悟を決めて、不良達が手ぐすね引いて待っているであろう建物の内部へ向かおうとした、まさにその時。
「お、お、お前……お前もっ、あ、アイツの仲間かああああああああああああ!」
物陰から恐怖と怨恨に支配された叫び声を上げながら、バットを持った男が一人襲いかかってきた。ほとんど奇襲に近い攻撃だったがしかし、狂乱状態にあるからなのか無茶苦茶に振り回される得物を躱すことは今の自分にとっては雑作もない。
自らの攻撃が掠りもしていないことにすら気づかず泣き叫びながら眼前のユウに向かって暴れ続ける男。見ればその顔は決壊したように溢れる涙と鼻水で大洪水を起こしており、そして何かを恐れているかのように酷く歪んでいた。
ひらりひらりと軽やかに攻撃を躱しながら考える。
男が発した『アイツの仲間か』という言葉。
おそらくはそれは端から質問ではなく、それ故こちらの返答など望んでいないだろうし、したとして男がそれを認識できるかどうかがまず怪しいが、如何せん状況が掴めない。ダメ元で気になったことを聞き返してみる。
「おい! 『アイツ』って一体誰のことだ!?」
「あ、アイツって言ったらアイツしかいねえだろうがよおおおおおおおおおおお! お前っ、アイツのな、仲間なんだろうがぁ、とっ、とぼけてんじゃねえぞ、よくも、よくもよくもよくもみんなをおおおおおおおおおおおお!」
質問が男の癇に障ったのかさらに激昂し一際大きく振り下ろされたバットを鮸膠もなく素手で受け止め弾きながら小さく舌打ちをする。ダメだ、まったく要領を得ない。だが数少ない情報からでも見えてくるものはあった。
まず第一に目の前の男の仲間、つまりこの場所に居着いていた他の不良達は『アイツ』とやらにどうにかされてしまったらしいということ。おそらくは殺されたか、そこまではいかなくとも再起不能となる程度には打擲されたのだろう。一通り屋外は回ったが倒れている人間は見当たらなかったので事件は工場内部で起こったものと思われる。しかしそうなると複数形ではなく単数形なのが気になる点ではあったが。
第二に自分はその『アイツ』の仲間だと勘違いされているということ。だが先の問答でこの男と意思疎通を図ることの難しさは理解できたので誤解を解くことは諦める。そもそも解いたところで何か進展が生まれるとも思えない。
よって結論。男にもはや用はない。詳しい状況については目の前にある工場の屋内に入ればすぐにわかることだ。ならば先程から闘争の匂いを敏感に感知してゆっくりと、だが確実にその存在感を増しつつある飢えの犠牲となってもらおう。まさしく泣きっ面に蜂な男の悲運に少なからず同情の念を覚えるが最初からそうするつもりでここに来たのだ、初志は貫徹するに限る。
殺しはしないから、とエゴに塗れた慰藉を心の中で呟きながら必要以上に大きな動作でバットを振り抜いた男の顎を、努めて力を抑えながら拳で打ち抜く。
呻き声を上げながら仰向けに倒れた男の姿を見て不謹慎ながら安堵する。今ので歯が何本か砕けたかもしれないが首から上が弾けた柘榴と化していなくて本当に良かった。飢えがこの程度ならば意識して力を抑えることもできるということがわかっただけでも悪くない収穫と言えよう。
しかし、残念ながら等の飢えはまだまったく沈静する様子を見せていない。確かに手応えの薄い格下の人間一人相手の一方的な闘争で満足しないのは当然と言えば当然かもしれなかった。
「となると……、これはちょっとマズいんじゃないのかなあ……」
そう、この状況はマズい。目の前で伸びている男の言葉が正しいならこの廃工場の不良達はすでに謎の襲撃者によって全滅している。飢えが求める闘争の相手がいない可能性があるのだ。そうなれば後は時間と共に増大していく飢えに恐怖しながら徐々に理性を奪われ最後には――その先のことは、考えたくもない。
だがまだ希望は残っている。できることならもう頼りたくはない二文字だったが他に道は残されていないのだ。つまりは謎の襲撃者がまだ工場内部に残っている可能性。多人数の喧嘩慣れした不良達を単身で相手取り、一人取り逃がしはいたようだがあまつさえほぼ全滅させるほどの猛者だ。闘争の相手としてはたとえ一人でも申し分ないだろう。どういった所属の人間なのかは知る由もないがおそらく銃などで武装していてもおかしくはない。いくら身体能力が上がっているとはいえ生身で飛来する弾丸を捌ききれる自信はさすがになかったがここで引き返したとして待っているのは破滅。どちらを選んでも悪いようにしかならないのならせめて、死中に活を見出せそうな選択肢にするべきだ。
深呼吸は吸うことよりも吐くことの方が重用だというどこかで聞いた豆知識を意識しながら呼吸を落ち着け、腹を括る。
夕闇と鉄錆と静寂が相俟って見ているだけで不安になる不気味な威容を放つ建物へと近づき、希望と恐怖とが同居した複雑な心境でやたらと重く感じられる扉をゆっくりと開く――――
お楽しみ頂ければ幸いです。