邂逅を告げる第一闘争 -Ⅰ
――――何かをその手に掴むことができるのは、己の『飢餓』を忘れなかった者だけである。
※前のは導入なので正確にはこの話が第一話となります。
Time series “the Present”
「起きろー、兄さーん、朝ご飯できたからさっさと食えー」
「うぅ……今日はまだ寝ててもいい日なんだって――」
はぁー、とため息混じりの声。何かを考えるように一拍間が置かれ、
「燐堂ユウ、現実と向き合う時間だ。諦めて投降しろー。抵抗を続けるようなら社会的武力行使も辞さないぞー、具体的には今から家中の窓を開け放って黄色い悲鳴を――」
「勘弁してください……」
ノロノロとした挙動で寝床であるリビングのソファから起き上がる。寝ぼけ眼にボサボサの髪といった寝起きそのままの格好で洗面所に向かい、バシャバシャと雑に顔を洗ってから食卓につく少年、燐堂ユウ。柔らかい朝の陽射しが窓から差し込む現在の時刻は朝6時半前。大学生である彼が今日受けることになっている講義は午後からなので正直なところ後3時間は寝ていたかったが、枕に「社会的」という何にも勝る恐ろしい接頭語が付いた武力行使が為されるとあれば起きないわけにもいかなかった。
「冷めちゃったのわざわざ温め直すんじゃ時間とお金の無駄だっていつも言ってるでしょ、寝ぼすけ」
悪戯っぽく笑いながら出来立ての朝食を甲斐甲斐しく運んでくる制服の少女はサク、ユウの妹だ。大人の女性らしい艶やかさこそ見られないが大きくパッチリとした眼に形のいい鼻梁、先にも見せた悪戯っぽい笑顔がとてもよく似合い、低めの身長と相まって小悪魔のような可愛らしさを纏っている。快活な性格も相まって通う高校では人気のある方らしい。中肉中背で顔もいたって普通、特に光る箇所のない平凡な容姿をしているユウとは似ても似つかないがそれもそのはず、二人は血の繋がらない義理の兄妹なのだった。
「いただきまーす」
「はい、召し上がれ」
朝食のメニューは白飯、味噌汁、焼き魚、昨日余った煮物に漬物というこれぞ日本食! なラインナップだったが相変わらずどれもこれもがとても美味しい。両親のいない燐堂家では基本的に二人の交代制を採用している家事だが料理だけはサクに一任されていた。ユウ自身も別に料理下手というわけではなくサクがいない時は節約のため自分で料理もするのだがどうあがいても彼女のそれには遠く及ばないので完全に白旗を上げてしまっていた。
高校生であるサクが毎日料理当番ではさすがに悪いと常々思っているのだがサク曰くユウが毎日ソファをベッド替わりにしているのに対し自分だけいつも寝室のベッドを使っていることとでおあいこらしい。
狭いマンションで二人暮らしをしているため寝室にできる部屋は一つしかなくさすがに年頃の男女が同じ部屋を使って寝るのは諸々マズいというわけでユウから進んでリビングのソファを寝床としている現状。元来どこでも眠れるタチだったこともあってそれを不満に思ったことなど一度もないのだがサクがそれでいいというのなら別にいいか、という何とも他人本意な兄なのであった。
ちなみに似た理由で洗濯も自分の物は自分で洗うことになっている。
「はぁー、夜更かしなんかしてるから朝そんな状態になるんだぞー。最近はほぼ毎晩みたいだし」
頻繁に欠伸を挟みながら朝食を摂るユウをジト目で見ていたサクが堪えかねた様子でお小言を漏らす。
「……ちゃんと昼間に寝だめしてるからぁ……大丈夫らって」
「確か人間は寝だめできないって何かの本で読んだ気がするよ兄さん……。それに大欠伸噛み殺しながら言われても全然説得力ないし……。涙出てるよ」
「……。いやーやっぱりサクの料理は最高だな!」
「ていうか昼間に寝だめってそれ絶対大学の授業中だよね……どうなっても知らないからなー」
「……っ!? さ、最高だな!」
露骨すぎる誤魔化しは呆れたようなため息を返事代わりに完全スルー。なんだかんだで自分を心配しての発言であることはわかるので若干後悔するが、こちらにもいろいろと事情はあるので大目に見てほしいところだった。
「で? 夜な夜な遅くまで何してるの? 電気代のこともあるしさっさと寝られるならそうした方がいいと思うんだけど……」
「……少し調べ物をね」
ユウは大学の合間を縫ってバイトをしているにはしているが、一番の稼ぎ手である社会人の大人がおらず貯金を切り崩しつつの生活を強いられているこの家では節約は基本中の基本。その事実は一応の大黒柱である自分自身が痛いほどに理解している。なので電気代を引き合いに出されてしまえば正直に白状するより他なかった――別にやましいことがあるわけではないので最初から話を通しておけば済んだわけだったが。
「調べ物? 大学のレポートか何かに使う?」
「いんや。個人的に、って言うと誤謬があるけどちょっと興味があることについて」
「へぇー。あ、もしかして仕事のことについてとか!? 小学校の卒業文集に将来の夢は公務員! とか書いちゃうぐらい夢がない悲しい兄さんにも遂にやりたいことができたの!?」
人の黒歴史(卒業文集)を勝手に見るな! というツッコミが喉まで出かかったがここでそれをしてしまうと話題があらぬ方向――自分の黒歴史大公開時代への突入――に行ってしまう予感がしたためギリギリのところで思いとどまる。
味噌汁を啜って一旦気分を落ち着けると、
「残念ながら夢は今も変わらず公務員だ、悪かったな夢がないお兄ちゃんで。ほらアレだよ、最近ニュースで話題の南の方で流行ってる新しい病気について」
「あー……」
予想とは違う(彼女にとっては)面白くない回答が帰ってきた落胆と、心当たりがあった故の納得が半々といった様相の返事をしつつ頷くサク。
割と前からテレビや新聞で細々と取り上げられてはいたのだが、最近ではネットニュースのヘッドラインでも見かけることが多くなってきたので時事に全く興味がない人間以外は大半が知っているであろう話題だ。
「感染者は発狂しちゃうとかだっけ確か」
「そうそう。感染すると狂乱状態に陥りそのまま数日後に死亡する。今のところの致死率は堂々の100パーセントだけど媒介がすぐに死ぬから感染力自体はかなり低い模様。とは言っても感染ルート自体がよくわかってないみたいだけどな。初めて確認されたのは25年前で、南の方にある名前は忘れたけど聞いたことないような島でなんだと。あと正式な病名はまだ付けられてないそうで」
「25年前……って意外に昔からだったんだね、知らなかったなんか悔しい」
「いやそんなことで対抗心燃やされても困るぜ……。それはそうと長らく表立って報道されなかったのは単純に感染地域の狭さとこの国からの遠さ、それと感染力の低さかららしい」
ふーんと声を漏らすサクの様子からもわかるとおりこの国の人間にとっては所詮対岸の火事に過ぎず、名前も知らない南の島の奇病などよりも有名芸能人のスキャンダル等の方がよっぽど重要で興味関心もあるだろう。平和ボケした人間が危機感を覚えるには距離があまりにも遠すぎるのだ。ユウ自身、調べてみて初めてわかるその情報の少なさに驚きを隠せなかった。
「それで、何でまた急にそんなことに興味持ったわけ?」
――こと今この場面においては最も重要な案件であるユウが件の病気に興味を持った理由について。我ながら妄想が過ぎている自覚はあったがここまできて外連を弄する意味もないので諦めて正直に打ち明ける。
「……あくまでも仮定の、いやどちらかと言えば妄想の域を出ないんだけどさ。もしかしたらこの病気、俺たちと直接の関係は無いにしても遠因ぐらいはあるのかもしれない、なんて思ったんだよ。……結局詳しいことは何もわからなかったんだけど」
わかりやすい相槌が打たれることはなかったが、ピクリと彼女の眉が反応し、虹彩には喫驚の色が浮かんでいることがユウにはわかった。
その上で、自分へ言い聞かせるように嗟嘆混じりの呟きを漏らす。
「今みたいな生活をいつまでも続けるわけにもいかないだろ……」
「……別に私はそれでもいいと思ってるけどね、兄さんと一緒なら。まあなんにせよしっかり考えてくれてたのはちょっと見直したかも」
「そ、そりゃどうも……」
こちらの目をまっすぐ見つめ、軽く小首を傾げながら薄く微笑むサク。その仕草に、義理ではあるもののれっきとした自分の妹であることを一瞬忘れ、不覚にもドキリとしてしまう。
いかにもゴスロリとか似合いそうな容姿をしているくせに、たまにこうやって大人な魅力を醸し出してくるから本当に困る。つくづく小悪魔な妹であった。
だがさすがにこのまま妹の掌の上で踊らされるばかりでは釈然としないので、今更な感はあるが兄としてのメンツを保つためにも意趣返しを断行する。
「というかだな、お前だって昨日の夜かなり帰りが遅かったじゃないか。もし朝帰りなんてされたらどうしようかお兄ちゃん心配で気が気がじゃなかったんだぞ」
「またまたー、心にもないことを」
……結構な札を切ったつもりだったのだが驚くほど動じていない。
そして一応、心配だったのは本当である。
「花も恥じらう女子高生があんな遅くまで、一体何してたんだ〜?」
「定期考査明けの軽い慰労会でカラオケ行った後ご飯食べてきただけだって。ていうか『花も恥じらう』って……」
「高校生がそんな遅い時間まで遊んでちゃいけません!」
「いやいや、遅いって言っても夜の8時半じゃん……。兄さんには友達少ないからわからないかもしれないけどイマドキの高校生なら別に普通だって。兄さんには友達少ないからわからないかもしれないけど、ね?」
意味ありげに二度同じ台詞を繰り返し、ニヤニヤ笑いながら流し目を向けてくる。事実なので何も言い返せないのが余計に悔しい。ぐぬぬ……。
「それにちゃんと8時半には帰りますってメールしたでしょー」
「も、もしかしたら朝の8時半かもしれないじゃないか」
「えー……。曲解し過ぎだよ兄さん……。私はそんなに軽いオンナじゃあないぞ。……ってああなるほど返信でやたらと動揺してたのはそういうことだったのね」
……確かに『8時半には帰ります』をその日の夜ではなく翌日の朝だと捉えるのはよく考えなくてもおかしい。が、当時のユウの脳内は憤怒哀咽寂寞妬心その他諸々がごちゃ混ぜになった動揺で満杯だったのだ仕方ないそう仕方ない。
愛する妹が朝帰りする可能性はそれほどまでに世間の兄を狂わせる。
「とにかく、大人気なサクちゃんは色々と忙しいのだよ」
「自分で言っちゃうのか……」
「だって事実だしー?」
「さいでっか……」
……またしても完全に、擁護のしようなく手玉に取られてしまった。兄としてのメンツなどひとえに風の前の塵に同じ、である。つまり、降参だ。
「…………ごちそうさま」
「お粗末さまでーす」
サクの勝ち誇ったような笑顔は達成感に満ちており、『一昨日きやがれ』という心の声が聞こえてくるようだった。
そして、そんな世間話とするにはいささか物騒な会話をしながらの食事であったが箸を持つ手は止まらずいつの間にかに完食してしまっているあたりサクの料理の腕はやはり推して知るべし。
しかし妙な緊張状態からも解放され腹も膨れたことで忘れていた「アレ」が再び押し寄せてきた。
同じく朝食を終えたサクの方は、手早く歯磨きを済ませると先のことがよほどお気に召したのか機嫌良さげに鼻歌を唄いながら登校の準備を進めている。時刻は7時前、片道一時間弱の電車通学をしているので彼女の出発は毎朝早い。
「よしおっけ。じゃあ兄さん、悪いけどお皿洗いお願いねー」
「へいへい」
日課なのか癖なのか、いつもどおりに今日の分担の確認をしてくるサク。よく出来た妹だ。
「買い物はテーブルの上にリストが置いてあるからそれをよろしくー、いらない物買ってくるなよー」
「へいへ」
「お風呂掃除は今日私の当番だから兄さんはやらなくて大丈夫、部屋の方をお願いね」
「へい」
「今日の講義は午後からなんでしょ、遅れないようにね」
「へ」
「二度寝するんじゃ……ない……ぞー……」
兄のスケジュールまで把握しているとは素晴らしい甲斐甲斐しさ、高校生の妹なのにもはや母の風格すら漂わせている。これが40代、50代のオバサンからのものであったら耳に逆らう煩わしい小言にしか聞こえないのであろうが可愛い義理の妹からのものとあればそれはもう素晴らしい金言名句に聞こえるのだから人間というのは卑俗なものだ。
しかしそんなことより今ユウの脳内を占めるのはただひたすらな眠……
ピンッ。
「いっつ……」
「こっらあ! 兄さん、8割近く寝てたでしょ今!? ああもう、見直し損だよこれじゃ……」
可愛らしい、けどしっかり痛いデコピンをもろに喰らい、半分ほど現実に引き戻されるユウ。半分ということはまだ4割近く寝ているわけなのだが仕方のないことだ。ただでさえ眠いのにあれだけ美味しいものを食べた直後。食っちゃ寝食っちゃ寝な生活は人類普遍の望みだろう。などと未だ霞が掛かったように模糊とした脳内で声ならぬ言い訳をするダメ兄貴であった。
「はぁー、大丈夫かなあ……せっかく学費払ってるんだから無駄にしちゃ勿体ないよー」
「……大丈夫、大丈夫、多分」
じーーーっ。と猜疑に満ちた半眼でこちらを見てくるサクだったが、ふと時計を見て諦めたようにため息を一つ。
「……まあいいか。じゃあ行ってくるね兄さん」
「いってらっさいお嬢様」
「茶化しても何も出ない」
ニヤリと笑い、扉を開けていざ出発、というところであっそうだと何かを思い出したように呟き、壊れた玩具のように手を振り続ける寝てるんだか起きてるんだかわからないユウの方へと戻ってくるサク。忘れ物だろうか。
しかし何故か彼女はそのまま自室に戻るのではなくユウに近づき幽鬼のように体を寄せてくる。先程までとは打って変わった妹の纏う雰囲気に、ビクリと体が意思とは無関係な部分で反応してしまう。
そして誰も二人の会話を聞く者はいないのに、例の小悪魔のような表情で耳元に顔を近づけ吐息混じりの小声でサクは囁く。恋人にするかのように嫣然と熱っぽく、それでいてどこか狂的に――――
「…………あんな話した後でちょっと恐縮なんだけど……そろそろ溜まってきちゃったから、今夜あたりシよ……、ね?」
――――それは秘め事。血の繋がらない燐堂兄妹を家族たらしめる狂気の秘戯。
二人以外の他人は知り得ず、常人ならば知ったとして一片たりとも理解ができない、人の道を外れた大逆無道な習慣。
狂人の蔑称すら生ぬるい、もはや人ならざる彼ら兄妹をあえて称するのらばそう、「鬼」。遥かな奈落――地獄の底で、生者を呪い飢渇に狂う鬼の名こそが相応しい。
残っていた哀れな睡魔は鬼の瘴気に当てられると蜘蛛の子を散らすように瞬時に消え失せた。ユウの意識が人ならざるモノへと塗り変わる。
くつくつと喉から漏れる歓声を止めることができない。ああなんと魅力的な提案なのだ。そういえば最近はご無沙汰だった、久方ぶりに愛しい妹と■■ができる。今から想像するだけで心が踊る、胸がすく。どうしてくれよう、これでは講義に出ても内容など全く頭に入ってこないではないか。今夜と言ったか、待てるだろうかいいや待たねば。料理にとって空腹――即ち「飢え」が至高のスパイスであるように、我らが欲する■■にとっても高められた「飢え」は何にも勝る薪炭なればこそ、夜までの時間は決して無為には終わるまい――――
「…………さて。それじゃあ改めて、行ってきます兄さん。そういうことだから今日は寄り道なんてしてないでさっさと帰ってきてね」
「ああ……、勿論だとも」
ユウから体を離すと同時に寸前までの妖艶で酷く危険な雰囲気は雲散霧消。いつものサクへと元通り。
ひらひらと爽やかに手を振りながら今度こそ最寄りの駅へと向かっていった。
残されたユウは顔に手を当て、笑う。
今夜の■■への期待に、笑う。
改めて実感した自分とサクとの歪んだ関係について、笑う。
笑う笑う笑う笑う、ただひたすらに笑う。
決して哄笑などではないが、肝胆を絶対零度に凍てつかせる恐笑を――常人が聞けば発狂しても何らおかしくない狂笑を――地獄に住まう鬼の凶笑を――静かにそしていつまでも響かせる――――
誤字脱字、アドバイスや至らぬ点がございましたらぜひぜひご指摘ください。




