第一章:静かなる喪失
第一章:静かなる喪失
「最短ルートを計算しました。予定より三分二十秒、早く到着します」
耳元のデバイスから流れる合成音声は、今日も完璧だった。二十六歳の甲斐太陽(カイ)は、無機質な高層ビルの廊下を、計算された歩幅で進んでいた。彼の仕事は、都市の物流、エネルギー、そして人々の行動までを「最適化」することだ。
カイの周囲では、誰もが同じようにデバイスに操られるように歩いている。視線を合わせる者はいない。視線を合わせることは、情報の処理速度を落す「非効率なノイズ」だからだ。かつて父が言った言葉を、カイは時折思い出す。
「時間は資産だ。一秒の無駄も出すな。感情はバグだよ、太陽。バグを排除した先にだけ、完成された人生がある」
幼い頃、カイが学校で作った不格好な粘土細工を父に見せたとき、父は一瞥もせずに言った。
「それを作るのに何時間かけた? その時間があれば、基礎数学のモジュールを二つ終わらせられたはずだ」父にとって、目に見える成果を生まない時間はすべて「死んだ時間」だった。
父は言葉通り、完璧な人生を歩み、そしてある夜、デスクに突っ伏したまま過労で孤独死した。後に残ったのは、父が最後にチェックしていた株価チャートの履歴と、整然と並べられた無機質な遺品だけだった。
父の死さえ、カイにとっては「一つのシステムの停止」という記号的な出来事に過ぎなかった。カイはその父の遺志を継ぐかのように、システムの頂点へと登り詰めた。
しかし、三ヶ月前、彼はある光景を見てしまった。自身が設計したドローン配送網の効率化アルゴリズム。それは都市の血流を極限まで滑らかにするはずのものだった。しかし、その余波として、配送ルート上に位置する「非効率な空間」が次々と整理されていった。
カイが通勤の合間に唯一、無意識に立ち寄っていた古い公園の売店もその一つだった。その売店の老婆は、いつもカイが注文する前に「お疲れさま。今日は風が冷たいね」と、銀紙に包まれた蒸したてのサツマイモや、温かい缶コーヒーを手渡してくれた。彼女との数分間の会話は、システムの計算外にある「無駄」だったが、カイにとってそれは唯一、自分が「人間」であることを確認できる時間だった。
ある朝、いつものように公園へ向かったカイの目に飛び込んできたのは、無機質な白い仮囲いだった。老婆の姿はなく、そこにはカイ自身の署名が入った「再開発・最適化完了」のホログラムが浮いていた。老婆がどこへ行ったのか、誰に聞いても分からなかった。近隣の住民は皆、デバイスを見つめ、公園が配送ポストに変わった利便性だけを享受していた。
その瞬間、カイの視界から突然、色が消えた。それ以来、彼は「空虚症」に侵されていた。何を食べても味がせず、誰と話しても意味を感じない。自分が効率化すればするほど、世界から「意味」が削ぎ落とされていく。世界は透明なガラスの箱のようになり、自分自身がその精緻な歯車の一部に過ぎないという事実に、息が止まりそうになる。
「……もう、無理だ」深夜、カイは自宅の暗い部屋で、禁忌とされている「非公認ネットワーク」にアクセスした。
そこには、政府の効率化プログラムから漏れた、古い、古臭い、しかし異常な熱量を持ったデータが漂っていた。『ライス・ネットワーク(RN)へようこそ。ここでは、あなたは生かされる側になります』画面に表示されたのは、月の光を反射する、階段状に重なった鏡のような風景——棚田だった。
カイは震える指で、最新型のハプティクス(触覚)スーツを装着し、リンクボタンを押した。視界が暗転し、次の瞬間、彼は「音」に包まれた。水だ。サラサラと、あるいはトクトクと。一定ではない、予測不可能なリズム。そして、重い感覚。足元に、ぬるりと絡みつく粘り気のある重み。
「泥……?」
驚いて足元を見ると、そこには漆黒の泥があった。VRのはずなのに、そこには「温度」があった。太陽に温められた表面と、その奥にあるひんやりとした冷たさ。
「動かないで。苗を驚かせてはいけないよ」
穏やかな、しかし芯の通った声が響いた。顔を上げると、そこには一人の老婆が立っていた。泥で汚れた作業着を着ているが、その瞳はカイがこれまで見てきた誰よりも澄んでいた。「ここは……」「姨捨の棚田。君が、新しく『従う』ことを選んだ若者かい?」ミズキと呼ばれたその老婆は、手元にある青々とした小さな苗を、慈しむように見つめている。
「太陽が父。水が母。私たちは、その間に挟まれた子供に過ぎないんだ。ここでは、効率なんて言葉は通用しないよ。稲が、水が、お日様が決める。私たちはただ、それに付き添うだけさ」
カイは呆然と立ち尽くした。完璧な最短ルートも、秒単位のスケジュールもない。ただ、足の裏に感じる泥の感触と、頬を撫でる風の湿り気。
カイの頬を、一筋の雫が伝った。それはシステムの演算によるものではなく、彼自身の内側から溢れ出したものだった。十年ぶりに、彼の中に「色」が戻ってきた。
「……暖かい」
ミズキが微笑み、一束の苗をカイに差し出した。
「さあ、腰を落として。土と、対話するんだ」
カイは震える手で苗を受け取った。それが、都市の最適化から外れ、彼が「生命」という巨大な流れに従い始めた瞬間だった。




