【7】ジニーの絶対能力、イーサンの断罪
翌朝、午前八時。
インターフォンの音が、ノアの耳をくすぐった。
寝室の扉がノックされ、イーサンの低い声が響く。
「ノア、起きてるか?」
静かに扉が開き、イーサンが顔を覗かせた。
「横になったままでいい」
そう言って、彼は一人の人物を紹介する。
「ノア。こちらはジニー・スミスさん。
うちのハウスキーパーで、月・水・金に来てもらっている。今日は君に紹介してから出勤したくて、一時間早く来てもらった。
この家で分からないことは、何でも彼に聞けばいい。料理も得意だ。
ジニー、こちらが昨日話したノアだ。
病気だから、家事よりも彼を優先してやってほしい」
「うん! 分かったよ、イーサン!」
小柄なジニーは百六十五センチほど。
ネクタイにベストを着こなす姿は端正だが、声は小学生のように明るい。
ノアに向かって深々と頭を下げる。
「初めまして!
僕はジニー・スミスです。よろしくお願いします!」
ブランケットの影から、ノアは小さく「よろしく」とだけ返す。
「じゃあジニー、仕事を始めてくれ。ノアはあと三十分は動けない」
「分かった!」
ジニーは部屋を見回し、すぐに口を開く。
「イーサン。この部屋の時計、ベッドサイドは25秒遅れてるし、掛け時計は45秒進んでるよ」
イーサンが苦笑する。
「全部電波時計なんだがな…。
ジニーの腕時計で三十分だ。
あとで直しておいてくれ」
「了解!」
元気よく答え、ジニーは階段を降りていった。
その足音が遠ざかるのを聞きながら、ノアが小声で呟く。
「……すげえ…」
静けさが戻ると、イーサンがブランケット越しに話す。
「ジニーは赤ん坊の頃に脳炎を患って、知的障害が残った。今も知能は十歳前後だが――一度見聞きしたことは決して忘れない。記憶力は絶対だ」
ノアが目を丸くする。
「さらに、クロスボウの名手だ。
私有地内では自衛のために使用が許されている。もちろんセキュリティ会社も入っているが、ジニーの矢は正確無比だ。君を守る即応力になる」
「……そんなに優秀なのに、なんでハウスキーパーなんかやってるの?」
「“研究”と称して近付く人間を避けたいんだ。
普通に働き、対価を得て暮らしたい。
家事も心から好きだしな。
理にかなってるだろ?」
「……ふうん。ドーナツ、作れる?」
イーサンが微笑む。
「お菓子は得意分野だ。
君が好きだと聞いたから、頼んでおいた」
ノアの瞳が一瞬で輝く。
「何のドーナツ!?」
「お楽しみに。……じゃあ、行ってくる」
ノアはブランケットを握りしめ、少しだけ俯いた。
「……昼には戻る?」
「ああ。必ず」
小さく頷いたノアの横顔に、
朝の光が差し込む。
「行ってらっしゃい」
その声に、イーサンは静かに微笑み返した。
――セレニス・ベイ署。
「イーサン、おはよう。…何かあったか?」
ベックが歩きながら声を掛ける。
「どういう意味だ?」
「いや、雰囲気が違うから」
「俺は普段と変わらない。それで?」
「彼の具合は?身体と記憶」
「身体は良い。だが記憶は相変わらずだ。
……振り回されてるよ。
すぐに俺を“馬鹿”呼ばわりする、わがままな王子様だ」
ベックは吹き出した。
「お前を馬鹿呼ばわりできる奴なんて、全米を探しても彼くらいだろうな」
「俺は彼をノアと呼んでいる。
供述でもそう呼ばれていた可能性が高い。
ジョン・ドゥではあまりにも可哀想だ。
……で、本題は?」
「クラブ・ジョーの顧問弁護士から連絡があった。本物のオーナーが動き出したらしい。
弁護士は慌てて、自分のオフィスに家宅捜索令状を取ってくれと」
「よし、すぐに動こう」
――弁護士事務所。
一流スーツに身を包んだフィリップ・テイラーは、令状を受け取ると安堵の息を漏らした。
「助かりましたよ。
私は秘匿特権がある以上、令状が無ければ話せない立場ですから」
オフィスは整然としていた。
だがテイラーは低く声を落とす。
「昨夜三時過ぎ、このビルの警備がハッキングされました。
予備電源まで潰され、三時間復旧できなかった。その隙に、クラブ・ジョーのオーナーに関する記録だけが消えたたんです。紙もデータも全て」
イーサンが眉を寄せる。
「最初から存在しなかったように、ですか」
「ええ。だが、私には別の保険がある」
そう言って観葉植物を動かすと、白い壁にブルーの光で長方形の輪郭とキーパッドが浮かび上がった。
イーサンが頷く。
「生体認証付きの秘密庫ですか」
「そうです。
顧客のリストは、必ず予備をここに保管している。秘書も知りません」
「それなら、契約書を拝見できますか?」
「ええ、もちろん!」
フィリップが手をかざしかけた時――
「待って下さい」
イーサンの低い声が遮る。
「これはあなたの生命線だ。
裁判で存在を明かす可能性もある」
テイラーの顔色が変わる。
「それでもあなたは、我々に見せなければならない理由がある」
鋭いアイスブルーの瞳に射抜かれ、テイラーは言葉を失った。
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