【27】硫黄のガスと偽りの花屋――悪魔の作戦、発動
翌朝は、雲ひとつない快晴だった。
ノアの再検査は「午前10時30分」と記録上には設定されていた。
だが、それは囮。
実際の検査は、外来が開く午前9時に極秘で行われる――。
この事実を知る者は、ごくわずか。
病院側では医師と秘書、受付責任者の三名。
捜査側ではイーサンとベック、制服警官五名、そして待機中のSWATチーム。
制服警官には「10階で重要証人の検査がある」としか伝えられておらず、
SWATにも「警護任務」としか説明されていなかった。
ノアの検査は、彼を救出した直後に診察した医師のオフィス階で行われる。
そこは一般患者が立ち入れない完全封鎖区域。
黒のSUVは目立ちすぎるため、イーサンはあえて平凡なセダンを選び、
ノアを連れて救急外来専用の入口から病院に入った。
車は玄関前に残し、駐車場への移動はベックに任せる手筈だ。
朝からノアは緊張で食欲がなく、カフェオレしか口にしなかった。
シャワーから身支度まで、イーサンが甲斐甲斐しく世話を焼く。
ノアが身につけたのは、白地に淡いイエローの鳥と植物の刺繍が施されたシャツ。
ジーンズと革靴というシンプルな装いながら、
彼のグリーンの瞳や淡いゴールドの髪、透き通る肌を一層際立たせていた。
廊下をすれ違う人々が思わず振り返るほどの美しさに、
イーサンは隣で苦笑する。
自分のコーディネートセンスに。
それでも、いつも通りのスーツ姿の彼は、
誰よりも自然にノアの隣に寄り添っていた。
エレベーターで二人きりになると、ノアがため息をつきながら肩に寄りかかる。
「何も心配いらない」
イーサンの力強い声に、ノアが小さく頷いた。
軽やかな音と共に、エレベーターは10階へと到着した。
検査は順調に終わった。
医師が明るい声で告げる。
「薬はきちんと使われていますね。もう普通の生活に戻っていただいて結構です」
ノアの手を握ったまま、イーサンは安堵の笑みを浮かべる。
「よかったな」
「ありがとう、イーサン!」
ノアが満面の笑みで答えると、医師が言った。
「もう着替えていただいて結構です。それと、クロフォード捜査官にお見せしたい書類が」
イーサンは優しく頷き、ノアに言葉をかける。
「着替えていろ。すぐ戻る。
警備は万全だが――俺が戻るまで、決して部屋から出るな」
「分かった。待ってる」
輝く笑顔で頷くノアに微笑みを返し、イーサンは部屋を後にした。
扉が閉じると同時に、ノアはベッドを降り、
検査着を脱ぎ、用意していた服に着替えはじめた。
シャツに袖を通し、ジーンズを履き、靴を履き終えたその瞬間――。
「ノア、私だ」
部屋の隅から声がした。
白いポロシャツにグリーンのエプロン。胸元には花屋の名札。
三十代ほどの男が立っていた。
ノアはあまりの衝撃に息を呑む。
男――ルシアンは静かに、しかし厳しい声で言った。
「ノア、リオに連絡を取れ」
棒立ちになったノアの前へ歩み寄り、肩に手を置く。
「無事でよかった。リオが心配している。すぐに連絡を。
今ここで、私に伝言を託しても構わない。時間がない」
震える声でノアが問う。
「あんた……誰……?」
「私だ。ルシアンだ。どうした? リオへの伝言は?」
ノアの顔から血の気が引いていく。
じりじりと後ずさりながら、震える声を絞り出す。
「あんたなんか知らない……リオも知らない……!」
ルシアンの手が、わずかに力を込めた。
その瞬間、ノアの身体が大きく震え、
背中を撃ち抜かれたように崩れ落ちそうになる。
慌ててルシアンが支えるが――
「イーサン! イーサン助けて! 頭が……痛い! イーサン!」
ノアが絶叫した。
「ノア……!」
ルシアンの手が思わず離れ、ノアは床に倒れ込む。
両手で頭を抱え、呻き声を上げた。
「痛い……助けて……イーサン……頭が……痛い……」
やがて声は掠れ、力なく呟く。
「……イーサン……助けて……」
長い睫毛の先から涙がぽろぽろと零れ落ちる。
ルシアンはその背中に視線を落とし、
静かに振り返った――。
イーサンがノアを迎えに行くと、
扉がわずかに開いていた。
同時に、鼻をつく異臭が漂っている。
「……」
ノックしても返事はない。
イーサンは即座に銃を構え、
音を殺して扉を押し開けた。
床に横たわるノアの姿が目に飛び込み、血の気が引く。
駆け寄って脈を確かめる。――生きている。
安堵する間もなく無線を取り、
低く鋭い声で指示を飛ばした。
「証人が襲われた!
制服警官は10階を徹底捜索、不審者は即確保!
SWATは配置につけ、この病院から誰一人として出すな!
敵はガスを使用している可能性がある。成分は不明!
ベック、聞こえるか!」
『ああ!』
「応援を呼べ。この病院を封鎖する!」
『了解!』
全ての指示を終え、イーサンはノアを膝に抱き上げ、
涙に濡れた頬をそっと撫でた。
「ノア……ノア、俺だ。聞こえるか?」
「……」
「頼む、目を開けてくれ……!」
その時、背後から医師の声が響いた。
「クロフォード捜査官! 患者を動かさないでください!
頭を打っている可能性があります。
それにこの匂いも危険です。あなたも検査を受けてください。――我々に任せて!」
イーサンは歯を食いしばり、短く頷いた。
「分かりました。ただし、検査中も制服警官を常駐させます」
「構いません」医師は即答した。
――しばらくして。
黄色い規制線が張られた再検査室に、ベックが現れた。
防護服姿の彼を迎えるのは、カリスタとヴィヴィアン。
二人も同じくバイオハザード用の防護服を身にまとい、
黙々と証拠を採取していた。
「何か出たか?」
カリスタが眉を寄せる。
「犯人も学習したようね。指紋はノアとチーフ、病院関係者のものだけ」
ヴィヴィアンが苦笑して肩をすくめた。
「でも、収穫はゼロじゃないの」
カリスタの声には怒りが滲む。
「病人のノアに暴力を振るうなんて……! 肩には指の跡が残ってたわ。
しかもガスまで撒いて――許せない!」
「同感だ」ベックは険しい顔を崩さずに言う。
ヴィヴィアンが淡々と報告を続けた。
「足跡が残っていたわ。微物も採取済み。
それにバレスが調べてるノアのシャツからも何か出るかもしれない」
ベックは番号が振られた足跡を見下ろし、しゃがみ込む。
「……これは土か?」
「正解」ヴィヴィアンが頷く。
「犯人は“花屋”に化けていた。
監視カメラを解析したら、ノアがこの階にいた時間帯に“花屋”が出入りしていたの。
しかも、病院が封鎖される前に堂々と正面玄関から出ていった。
顔を伏せていたけど、顔認識ソフトで“柄物スーツの男”と一致したわ」
「なるほど……だが花屋といえど、受付でIDチェックは必須だ。
どうやって通過した?」
カリスタが即答する。
「その線はチーフが押さえてる。受付主任と担当者を徹底的に締め上げてる最中よ」
「気の毒に」
ベックは肩を竦めつつも真顔で続けた。
「――で、どうやって部屋に入った?」
ヴィヴィアンが答える。
「ノアが検査を受ける前に忍び込んでいたの。
受付を通過したのは8時32分。
制服警官が配置についたのは8時45分。
つまり、犯人には13分の猶予があったのよ」
さらに言葉を続ける。
「再検査室は急遽用意された場所で、鍵も解放されていた。
警官たちは動線警備に集中していたし、花屋なら言い訳はいくらでもできる。
――完璧に裏をかかれた、というわけ」
カリスタが険しい表情で頷いた。
「それ以上に問題なのは、ノアの再検査時間を正確に把握していたこと。
内部に協力者がいる可能性が高いわ」
ベックは苦々しく息を吐く。
「了解。協力者の線でも捜査を強化する。
それと、このガスは何なんだ?」
ヴィヴィアンは小さく首を傾げた。
「うちでもCDCでも分析したけど、危険な化学成分は出なかった。
ただ……硫黄を限りなく100パーセント近く濃縮したものが検出されたの」
「硫黄!?」ベックが目を剥く。
カリスタが苦笑する。
「病院の滅菌室が爆発した時の匂い、覚えてる? あれと同じ。
不快で吐き気を催す臭気よ。実際、制服警官の一人は浴びた瞬間に失神してる」
「……だが理由は不明、か」
「ええ。ノアを奪う気なら、こんなガスを撒く必要なんてないのにね」
ベックが問う。
「……ノアの容態は?」
ヴィヴィアンが微笑みを浮かべた。
「病状は私たちにも知らされてないけど、
VIP用個室で制服警官が二名、24時間体制で警備してる。
治療も受けてるから大丈夫だって、チーフが言ってたわ」
その言葉に、ベックはようやく表情を和らげた。
「そうか……よし、また後で」
そう言い残し、規制線の外へと姿を消した。
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