黒き水面
ぴしゃっ、ぴしゃっ、ぴしゃっ。
コンクリートの地面に大粒の水玉が広がり始めたと思う間もなく、バサバサバサバサッという雨の音で、聞こえていた蝉の鳴き声が掻き消された。
瞬く間に、制服はずぶ濡れで重みを感じるようになり、肌にまとわりつく。
「仕方ない。あまり気が進まないけど、近道するか。」
そう思うやいなや、駆け出して路地裏に入った。古くから無造作に建築されて住宅街が成り立っているこの土地一体は、家と家の間を通り抜けることができる道なき通路が張り巡らされてる。人一人通れるような狭い隙間には、草がぼうぼうと生えていた。
「あー、もう蜘蛛の巣が張ってるところもあるー。」
爪先立ちして跨いだり、屈んだりしながら、気づいた蜘蛛の巣を躱していく。でも、気が進まかったのは、雑草や蜘蛛の巣だけじゃない。長らく人が住んでいない空き家の横を通らなければならないのが一番嫌だった。この家は、自分が幼い頃からすでに空き家だった。締め切った雨戸は汚れ、腐ちかけている。子どもたちの間ではお化け屋敷と噂されるほどの気味悪さだ。苔の生えた壁からなるべく体を離し、反対側の手入れがされていることがわかる建物の壁に沿って足を進める。
「ここを抜ければ開けた場所に出るはず。」
前を見やるとそこには大きな水溜りが広がっていて、ばしゃばしゃと雨が注いでいた。打ち付ける雨は、水面を跳ね返り水滴を撒き散らし続けている。
「えっ?どうしよう。」
水溜りの直前まで来てピタッと止まった。広がる水面は明らかに自分の足では飛び越えられない距離があった。
「でも、どうせ、もうすべてがびしょびしょだし。」
制服のスカートは絞れそうなほど水を吸っており、紺のハイソックスも黒いローファーも水浸しだ。それでも水溜まりの中に靴をつけるのは最低限にしたいから、飛び越えられる距離は大きく取ろうと、覚悟を決めて前を向く。しかし目の前の光景を見て怯む。
水滴を巻き散らかしていたはずの雨が水面に打ち付けられたところから、ドライアイスを水に入れたときみたいに黒い霧のようなものが発生しているのだ。あっという間に水面は透けた黒に覆われ、その霧のようなものは蠢きだし、やがて無数の手に見えてきた。そして、その手は束になり、自分に覆いかぶさってきた。
「いやー!!!!」
気づけば、もと来た家の間を戻っていた。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
息切れがするほどに走り抜けた。雨が降り出したときに駆け込んだ裏路地を出ると、
「まぶしっ。」
ギラリと太陽が出ていた。湿り気のない乾いた道路からはゆらゆらと陽炎が登っている。ただ、呆然と立ち尽くしていると通りすがりの近所の方に声をかけられた。
「どうした?バケツの水でもかぶったのかぁ?」
雨音で聞こえなくなった蝉の声が、何事もなかったように響いていた。