1章 ここは乙女ゲームの10年後
きれいなメイドおばあちゃんに"マチルダ"と謎の名前で呼ばれた数時間後。
「マチルダ、ここのお皿を磨いておいて」
「はいっ!!」
「マチルダ、テーブルクロスをセットしてきてちょうだい」
「は…はいっ!!!」
小田切まちこという名だったはずの私は、なぜかすっかりマチルダとしてこき使われていた。
連れてこられた広いキッチンは戦争のようで、たくさんの人が働いている。バイトリーダーみたいなメイドさんの指示に見よう見まねで従っていたものの、やはりぼろは出てきてしまうようで。
「マチルダ、あなたどうしたの? カトラリーの順番が全然違うわ」
おそらく同じくらいの歳の女の子に怪訝そうな顔で声をかけられ、びくっとする。
「あ、あの……ごめんなさい」
「具合でも悪いの? あなたらしくないわ」
「どうしたの?」
「それが、マチルダがね……」
忙しく行き交っていたメイド服の女子たちが異変に気付きちょこちょこと集まってくる。
(や、やばい!! 注目されてる!! ってか知らないよこんな数のナイフやフォーク使うようなレストラン、私行ったことないもん!!
っていうか、
っていうか、
マチルダって誰ーーーーー!!!!!)
自分がミスをしてしまったこととそのせいで作業を止めてしまったことの申し訳なさ、見知らぬ西洋の女性たちが集まってくるちょっとしたこわさ。
混乱もあり思わず泣きべそをかきかけるまちこの横に、スッと誰かが現れる。
「みなさん作業に戻って」
凛とした声が響く。はっと見ると、それは目覚めて最初に会ったきれいな外国おばあちゃんメイドさんだった。
おばあちゃんはかなり立場がある人なのか、集まりかけていた女の子たちは蜘蛛の子を散らすようにまたぱっと散って行った。
わ、私も…でもどこに…と離れようとすると、「マチルダ」と呼び止められる。ひいっと身を震わせながら振り返ると、おでこにぬくもりを感じた。
「熱はないわね」
熱を測るようにひたいに添えられた手がふっと離れる。厳しそうな雰囲気に反した行動に、混乱した心が少しゆるんで泣きそうになる。
「風邪でもひいたのかと思ったけれど」
「あ……いえ、元気、体は元気なんですが……」
もごもご言っていると、おばあちゃんが何か勝手に合点がいったように頷いた。
「そうね。あなたは元々エドワード様付けですから、給仕の仕事は慣れないのでしょう」
………エドワード???
「でも、それも今日で終わり。午後からは元の仕事に戻って大丈夫ですからね。洋行から帰ってくるエドワード様がくつろげるように、頼みますよ、マチルダ」
………洋行??? 元の仕事???
はてなばかり浮かぶ私を残し、凛とした優しいおばあちゃんは去っていく。取り残された私が手持ち無沙汰であわあわしていると、ギイと食堂の大扉が開いた。
「「「おはようございます、旦那様」」」
気づけば完璧にセットされた食卓を取り囲むように、壁際に整列していたメイド含む従業員たち。
まちこも、空いているスペースにあわてて駆け込む。
「おはよう」
入ってきた人物が、気品ある仕草で鷹揚に挨拶を返す。
出迎えた時の規律ある雰囲気と、「この人物に仕えることが誇らしい」というような従業員たちの表情だけで、現れたのがひとかどの人物であることがわかる。
(たしかになんかすごくカッコ…………
………ん??????)
目をこすって凝視する。
一度で足りず、二度三度見返す。
現れた人物は、不思議と見覚えがあった。
記憶のそのままではないけれど、大好きな人物にどこか、いやかなり似ている。その人物は架空の存在であり、こんな生身で目の前に現れるはずもないのだが。
「アルバート………様?」
ぼそっと呟いた声は、驚きのあまり小さすぎて本人には届かない。
届いたところであちらがこちらを知る由もないのだが。
そう、その人は………まちこが生涯で一番愛した乙女ゲームの攻略対象のなかのひとり。
推して推してアクリルスタンドまで持っていたーー
アルバート・レオフォールド公爵。
ゲームの世界から十年を経て少しばかり渋みと色気が増した、その人なのだった。