出会い
「おーい。そんなとこで一人でいると、物騒なもんと勘違いされるぞ」
夜勤明け、何となく普段とは違う道を帰っていると、橋の上に人影が見えた。俺は運転していた車を道の脇に停め、窓を開けた。そして、橋の上に立つ少年に声をかけた。
ーーーーーー
人を見かける方が珍しい、山奥にある寂れた神社の少し手前、生茂る木々の中。神聖な場と喧騒をつなぐように架けられた橋の上に、その少年は立っていた。
橋の遥か下には大きな川が流れている。目がくらむほど遠い水面は、淵は底を映すほどに透きとおり木漏れ日をキラキラと反射させていた。たまに白い飛沫を飛ばしながら、枯れ落ちた葉や小枝を小気味好く運んでいる。一方で、川の水は淵から離れるほどに光を吸収し、中心は川底を隠すように濃淡をつくり出していた。
車を降りると朝のヒヤリとした冷たい空気が肌をさした。
閉じようとしたドアを再度開き、助手席に無造作に掛けていた上着を手に取る。申し訳程度に埃を落とそうと手で払いながら橋のたもとまで歩くと、そこには学生服を着た線の細い少年がいた。下から駆け上がってくる風に色素の薄い髪を靡かせ、苔むした石橋に両手を掛けて立っている。
視線の先には下流へとのびる川が見え、その脇には点々と、人が住んでいるのかもわからない程古びた家屋が目に入った。
「こんなとこで何してるんだ?」
突然見知らぬ男から声を掛けられたにもかかわらず、少年は横目で俺を一瞥しただけで、何事もなかったかのように視線を戻し、遠くを見ている。
どうしたものかと考えていると、
「死ぬっていうのはさ、人が自由に選択できる幸せの一つだと思うんだ」
緊張感のないままにぼんやりと遠くを眺めながら、少年は答えとも言えぬその言葉を呟いた。
「・・・あぁなんだ。あったあった、俺にもあったよそういう時期。黒とシルバーの文房具ばっかり集めてたな」
どう返すべきか一瞬悩み、とりあえず惚けた返答をしてみた。するとその返答が気に食わなかったのか、少年は目を据えるようにして、初めて首ごとこちらを向いた。そして小さく息を吐き、また正面へと顔を戻す。
「はぁ。・・・確かに、現に僕はまだ子どもだし、あなた達大人みたいに経験とやらが足りない、所詮未熟者なのかもしれない。でもだからといって、勝手な決めつけで話を聞いてもらえないのは腹立たしいことこの上ないね」
“大人達”と含みを持つその言葉に、なんとなく俺だけに言っているのではないのだろうと感じた。というか、そもそも今の彼の眼中に俺は入っていないのだろう。
理屈めいた物言いに、儚げだと感じていた少年の輪郭がはっきりと景色の中から浮かび上がる。
「おっと、それもそうだ。悪かった」
「先生や親もそうだったけど、話を聞いてもらうのに若さってつくづく邪魔でしかないね」
「そうなのか?」
少年は橋の欄干に肘をつき、遠くを見つめたまま話を続ける。
「何を言っても誰もまともに受けあってくれない。僕はあんたらの過去じゃないのに。『子供の悩みなんて』って、世間話の一つみたいに笑ってるんだ。・・・まあ、もうどうでもいいけどね。結局は僕が甘えてたんだ。誰かに理解されたいなんて、甘ったれてた。どうせ誰もわかってくれない。わかろうともしてくれない。それなら、疲れることはしないに限る」
「んー、なるほどなあ…」
さっきから薄っぺらい返ししかできていないのは自覚している。なんとか気の利いた言葉を頭の中で漁ってみてはいるが、どう答えるべきかはわからず、咄嗟に出てくる言葉たちは紙より薄い。
「・・・はぁ。お兄さんも物好きなのかなんなのか知らないけれど、こんな状況のヤツに話しかけない方がいいんじゃない?スルーしてどっかに行ってほしいんだけど。それとも何、もしかして見たいの?そういう趣味の人なの?」
的外れな返答ばかりする俺に痺れを切らしたのか、苛立ちを隠そうともせず少年は急き立てる。
「おっと、その、あのな、違う、違うんだ。車で走ってたら人影が見えたんでな。あー、ここらへんじゃ人は全く見かけたことがなかったから、幽霊かなんかかと思って見に来たんだ。とりあえず生きてる人間でよかったよ」
「変なの。普通は幽霊だと思ったらスルーしない?」
「そうか?科学で証明出来ないものを実際に見て体験する。それって男の浪漫みたいな、そんな感じあるだろ?」
「えー、そうかな…」
「そうだろ」
「変わってる」
「そうか?」
「じゃあさ、お兄さんはなんで僕が生きてるって思うの?」
「『なんで』?」
「もしかしたら幽霊かもしれないでしょ」
ふいに目を細めて微笑むように話す姿は、少年というには戸惑うほど大人びて見えた。
「・・・こんな喋る幽霊いないだろ」
「ははっ、確かに」
コロコロと色を変える表情に自然と視線が集中する。
「でも僕って生きてるって言えるのかな」
「ん?」
「スマホとか財布とか、全部道中で捨ててきたんだ。周りとの関係は全部断ち切る思いでここまで来た。今の僕は誰とも繋がりはないし、僕を僕だと証明できる物も何も持ってない。僕がどんなに波を荒立てても応える音が何もしない。波はどこにもぶつからなくて、誰も気づかないまま小さくなって消えてっちゃう」
「・・・」
「今僕が息をしていようがいまいが、世界は何も変わらないんだ。それって生きてるって言えると思う?」
からかいの延長か、純粋な本心か。
弧を描く目蓋の奥、まっすぐにこちらを見つめる少年に惹きつけられる何かがあった。
「・・・」
沈黙した俺に、それでも答えを見出そうと見つめてくる瞳に、思わず視線を上へと泳がせながら拙く言葉をつなぐ。
「っ、言われてみれば、一理あるかもな。人間は互いの作用の中で生きているって聞いたことがある。まぁ…なんだ、とりあえず言えるのは、今は俺がいて、君の言葉を返しているんだから、ちゃんと生きてるんじゃないか?」
「まぁ、それもそうだね」
「・・・なんか学校で嫌なことでもあったか?」
「お兄さんは死にたいって思ったことある?」
どうやら質問には答えてくれないらしい。とりあえず話を止める気はないらしい少年に合わせて会話を続ける。
「ん?んー恥かいて思ったことは山程あるよ」
「死のうとしたことはなかった?」
「まあ、痛いのは怖いしな」
「じゃあさ、ビルから飛び降りようとする人は何を思ってると思う?」
「そりゃ辛いとか逃げたいとかじゃないか?」
「確かにそれもあると思う。でも僕はさ、痛そう、怖いなって気持ちを超えた、自由への期待の方が大きいんだと思うんだ。死ぬのを選ぶ人たちは望みを持って、一歩を踏み出してるんだと思うんだ」
「期待か」
「実際、今日ここに立ってみて、僕は晴れ晴れしい気持ちでいっぱいだよ」
「まあお前が最初に言った通り、死ぬことが人の幸せだとするんなら、結局はどんな人生の最後にも幸せがあるってことだ」
「確かに、そう言われればそうだね」
「・・・だったらよ、それまでちょっと、ちょっとだけさ、俺の時間に、遠回りに付き合ってくれないか?」
「は…?遠回り?お兄さんの…?あなたも死ぬつもりだったの?」
「いや違う。俺はまだそこまで達観してないしな。痛いのも嫌いだし。つまんねぇ人生だがまあまあ生きていくつもりだよ。だがお前が良いなら、ちょっとだけ死ぬのを延長して、俺の頼みを聞いてくれないか?」
「頼み…?さっきの話聞いてた?タイミングは自由に選択できるものであって、他人に左右されるものじゃないんだよ」
「だから、君が俺と遠回りするって決めればいい。そしたら君が決めた選択だろ?なに、ちょっとの間だけだ。嫌になったらいつだって選択し直せばいい」
「・・・」
「俺もなかなか寂しい人間でね、一緒にいてくれるヤツが欲しいんだ。例えそれが短い間の仮初めだったとしてもさ。いいじゃないか、死ぬ前に徳を積んどくんだと思えばさ。その分来世に期待ってな。それに馬鹿みたいに高級なもんは無理だが、遠回りの間は俺が美味いもん食わせてやるよ。これも最期の晩餐ってことでさ」
どうだ?と少年に問いかける。
少年は突然の提案に訝しげにこちらを見つめ、戸惑いの色を浮かべている。
ーーーーー
ぐう。
その時、タイミングよく僕の腹の虫が鳴いた。
我ながら死のうとする直前だというのに、なんと図太い。
腹の虫は目の前にいる男の耳にも届いたようで、ククッと片眉をノの字のように下げながら笑う視線が腹部に刺さる。
状況の間抜けさに顔が若干熱くなる。
・・・いや、別にどうでもいい。そうだ、誰にどう思われようと今更どうでもいい。
・・・それでも、そうだな…。
男の言う事にも確かに一理あると思えた。
せっかく全てを放り出してきたんだ。数日くらい自由に、思いのままに過ごしてもいいのかもしれない。もう何もかも捨て、生きていると言えるのかすらわからない状況だ。いつ死んだって変わらない。それに美味しい食事もつくらしい。美味しい食事が。
この際、これまで周囲の目もあるからと親に口うるさく言われながら栄養や脂肪分などを制限されて生きてきたが、そんなものかなぐり捨てて、好きなだけ食べてからでもいいんじゃないか。
男が言う「遠回り」がなんなのかはわからないが、彼の言うように考えが変わればまたその時に死ねばいい。もう何にも縛られないという喜びから自暴自棄にも似た漠然とした余裕が湧いてくる。
「それで、腹は満たされたがってるみたいだけど。どうする?」
「・・・先に言っておくけど、数日かけて諭されたって僕は思い直さないよ。自殺志願者を食い止めよう、みたいな安っぽい善意ならやめてくれ。そもそもさっきも言ったけど、死ぬことは僕にとって希望なんだ。もし遣らずの雨にでもなろうとしてるのなら、それは無意味だし迷惑だよ」
「わかってるさ」
「迷惑だからね」
「善意なんていいもんじゃない、俺のエゴだ。なんなら自由の身の君だからこそ頼みやすいと思って頼んでる。俺はな、さっきも言ったが時々寂しさと不安でたまらなくなるんだ。自分の足場がわからなくなって、落ち着かない。かといって地に足がつきそうになると、恐怖が逆立って思考もままならなくなる。どうも上手く生きられないんだ。きっと誰かがそばにいてくれたら心強い。言うなりゃ今は自分の願いの為に死人を買ってるようなもんだな。自己都合の提案だ。決して君の選択を邪魔しようとは思ってないさ」
「・・・ならいいけど。まぁやめたくなったら勝手にやめるしね。せっかくこのどん底みたいな人生に幕がおろせるんだ。なら最期くらい少しいい思いをしてからでもいいのかもしれない。あなたの願いが具体的になんなのかは知らないけど、とりあえず美味しい食事とやらを期待しようかな」
「よかったよかった。助かるよ。少しの間かもしれんがよろしくな。飯のことも大いに期待しててくれ」
ーーーーーーー
自宅への帰路を走る車には、運転席に座る俺の他にもう一人。
橋から車へ戻る前に手渡した上着を膝に掛け、助手席に座る学生服の少年。橋の上で話した時は飄々として見えたが、色素の薄い外見も相まって、恐らく初めて見るだろう道を走る車から外を眺める彼は、どこか心もとなさげにも見える。
「君はここら辺に住んでるのか?」
「いや、財布に入ってるお金全部使って電車で行けるところまで行ってたらここに着いた」
「・・・なんというか薄々思ってたが意外と豪胆だな。駅からここまで歩いてきたのか?」
「いや、一応バス停から。そこからは歩き。考えなしに電車とバスで全部使っちゃったからね。ここら辺のバス料金高くて驚いた」
「案外後先考えないんだな」
「いいんだよ。足が疲れようが痛もうが、もうどうでもよかったし。行けるとこまで行ってみたかったんだ」
「へーいいなそれ、浪漫じゃないか」
「といっても、中学生の持ち金なんてたかが知れてるし移動手段もないし。想像していたほど遠くには行けなかったけどね」
「はは、世知辛いな」
「今更だけど、あなたも物好きだよね。同性の僕に頼むなんて。たまたま頼みやすい条件にあったのが僕だったからだろうけど、寂しいなんて時は女の人の方が色々と都合がいいんじゃないの?」
「なっ、」
さっきは若さがどうこう言っていた割に、やはりそういう事がチラつく年頃か。
達観したような事を話しつつも、年相応な思考とそれを口に出してしまう素直さに、思いがけず可愛げを感じ失笑した。
「ぷっ、はは、君意外と下世話な奴だな」
「なっ!」
心外な、といった表情をしてそっぽを向いた少年を一瞥し、ほぐれた顔のまま話を続けた。
「そうだな…。俺が言ってる寂しいはそういうんじゃなくてな、こう、本当にただ単に誰かとつながりを感じていたいというか…。男とか女とか関係なくて。上手くは言えないが、無性に寂しくてな。心細くて不安で、居ても立ってもいられなくて、とにかく誰かと話したいって時があるんだ」
「ふーん。あなたこそ意外だね。誰彼構わず話しかけてそうな感じなのに。僕にしてるみたいに。意外と寂しがりなの?」
「いや、普段は逆に人間関係なんて煩わしいとさえ思ってるんだが。やっぱり人間独りじゃ生きられないように出来てるんだな。そんなとき近くに話をしてくれる奴がいたらなって毎回思うんだ。情けない話だけど最近はそれが多くてね。夜は寝れないし朝は早く目が醒める。睡眠不足が続いて参ってたんだ。そしたらちょうど人生捨てようとしてる君がいて。捨てるならちょっと拾わせてくれないかなって思ってさ。だから言葉が通じさえすればいいんだよ」
「ふーん…」
少年は視線を窓へと移し、つまらなそうに外を眺めている。
「ふーんて…」
「僕も人と話すことは嫌いだけど、たまに酷く独りを突きつけられているような感覚になることあるよ。全部とは言えないだろうけど、あなたのその気持ち、少しはわかるかもしれない」
頭をシートベルトに預け、視線は外に向けながらも、そう話した少年に感心した。
段々と大人びた言葉使いを崩していた彼を、やっぱり年相応の子供だなとどこか思っていた一方で、“全部とは言い切れない”と前置きをするその話ぶりに、彼が言うように年齢だけでは測れないものも確かにあると気づかされる。
彼は自分の痛みとは別に、他人の痛みを思いやれる子なんだろう。
そもそも身を投げようとしていたのだ。きっと色んな体験をして、悩みを巡らせてきたのだろう。
「そうか。少し気持ちが救われたよ。ありがとうな」
己の心が少し軽くなるのを感じた。
「あ、先に言っておくが、ちゃんと仕事はしてるからな。今日は夜勤が終わって帰る途中だったんだ。稼ぎはソコソコだが数日なら君も過ごせるだろ。部屋も一人暮らし用だが、まぁどうにかなるさ。その分料理を頑張りますのでどうぞよろしくお願いシマスってな」
ハンドルから右手を離し、得意げにして親指と人差し指と中指を擦り合わせ、塩をまぶす動作を見せると、少年は呆れたように背もたれにうなだれた。
「・・・聞きたいことは色々あるけど、とりあえず「頼み」とやらは単にあなたの家に居て話をしたらいいの?」
「いや、とりあえず居場所をウチにしててくれたらいいかな。基本自由にしててくれて構わない。せっかくの最期の休息なんだから好きなように行動してくれたらいいよ。そんな高価なものは買えんが、暇つぶしに欲しい物は買ってやる。まぁできたら夜は居て欲しいがな。君スマホは捨てたんだろ?一応身分は学生なんだ、外見でわかるし補導されるかもしれない。・・・というかそもそも、君もしかしたら家出少年ってことになってるんじゃないのか?」
「さあね、知らないよ。面倒ごとは嫌う人たちだから」
「知らないってなあ」
「まぁせっかくの最期の羽伸ばしを邪魔されたくはないからね。見つからないように上手くやるさ」
「不安になってきた…」
「それと、料理を頑張るって言ってたけど、市販品とか外食じゃなくて、もしかしてあなたが作るの?仕事って料理系?」
「俺の仕事はな、んー…説明が難しいんだが、まぁ世話人みたいなもんだ。そんなことより、世の中にはな、安くて美味くて手軽な料理を教えてくれる“ひっじょーーう”に便利な代物があるんだよ。クックサイトといってな、コレを使えば誰もが一流の料理人よ。俺は日頃から世話になってるし、味は保証するぞ」
「えー…」
「何だよ。君は料理をしたことあるか?クック先生を舐めないほうがいいぞ。メニューは豊富だし冷蔵庫の中の物だけで作れる美味いレシピを教えてくれるんだ。一人暮らしの強い味方だよ。まぁ安心しなって、満足いかなかった時は出前も考えてやるからさ」
「みみっちい…」
「なんだとぉ!?・・・ああ、そういえば」
「なに」
「念のため。さっき君は女の方が都合がいいだろうって言ったが、君を利用するこの状況を仮に、仮にだ。仮にな、誘拐だとするならば、“そういうこと”の対象は何も女の子ばかりではないんだぞ」
「は…?」
「世の中には色んな大人がいるんだ。自衛の為にも、知識として理解しておくべきだよ、お坊ちゃん」
小言への軽い言い返しの気持ちでそう言うと、少年は目を皿のようにした後、俺から距離を取るようにシートベルトを握り締めながら縮こまるように左側に身を捩った。顔色が段々と青くなり信じられないものを見るような目で俺を凝視している。
「・・・!」
「俺は違うし、『仮に』だからな」
「っ!ゾッとした。もしあなたがそういう人なら、そういうことを仕掛けた時点で今世での暮らしは終わったものと同義だからな。あんたもろとも来世に期待だ。見知らぬ未成年を匿う時点で首の皮一枚だということを忘れるなよ変態」
「おーおー途端によく回る口だこって。知識としてって言ってるだろうが。滅茶苦茶怖いこと言うなっ。俺にその気はねえよ、冗談に決まってるだろ。やめろ、犯罪者を見るような目で俺を見るな。俺もお前が未成年なんだってこと、改めて思い知ってゾッとしてるよ。とんでもねぇ爆弾じゃねぇか」
「ふん。タチの悪い冗談はやめろってことさ。僕はもうご飯を食べる腹になってるんだ、今更置いて行ってもいいが、それなら三日三晩あなたの枕元に出て呪ってやるからな。爆弾だと思うなら慎重に丁寧に取り扱うことだ、変態おじさん」
「変態じゃねーしおじさんでもねーよ!悪かったよ、からかっただけじゃねえか」
「内容が悪趣味だ」
いまだ俺から距離をとろうと、シートベルトを握りしめ助手席の左側に詰め寄っている。確かにからかうにしてはやりすぎたと反省する。膝に掛けていた上着が足下へとずり落ちている。
「はいはいすみませんでした」
笑いながら謝りつつ、暖房の温度を少しだけ上げた。仕事柄染み付いた習慣に、我ながら大袈裟だろうかと思いつつ、子供の体感温度なんかわからないし寒いよりはマシだろうとツマミを回し調節する。
「あ、ごめん」
その動きからか、たまたま気付いたのかはわからないが、足元の上着を慌てて拾い、軽く汚れを落とすように撫でながら膝の上に戻していた。
律儀な奴だ。
「今更だが俺の名前は田坂だ。田んぼの田に坂道の坂。どう呼ぶかは自由だが変態だけはやめてくれ」
「それは身の振り方次第だよ。田坂さんね。僕はー…そうだな、ハルでいいよ」
今思いついた仮名か、本名かなんてどうでもいい。
「ハルか。じゃあ、どの位になるかはわからないが、とりあえず、これからよろしくな」
「よろしく、田坂さん」