祝福の少女
シンシアがガザニアと結ばれる話です。
アドレイとは特に恋愛感情は持ち合わせていません。また、設定上シンシアの見た目はもともと「金髪碧眼」です。
オキシペタルムクラッスには、ユーカリ殿下によく似た少女がいる。ユーカリを女性にしたらこんな姿であろうというほど、少女はそっくりだった。
少女――シンシアは元々義賊で、大陸中を旅して回っていた。実際に貴族に戻ったのは一月のことだった。
士官学校に入学した後、六月のことだっただろうか。夜、ガザニアが温室に行くと、シンシアが座り込んで何かをしていた。
「……何をしている?」
声をかけると、シンシアは振り返って彼を見た。
「あ、こんばんは、ガザニアさん」
「いや、こんばんはではなく……」
少女の手には薬草が握られている。恐らく、自分で育てていたのだろう。
「見て分かると思いますが、水やりをしていたんです。それから、薬草を摘んで……」
少女の目の前には白い植木鉢。そういえばアドレイとこれは誰のものなのかと話していたことを思い出す。これは彼女のものだったのか。
「昼にやればいいのではないか?」
ガザニアがもっともなことを告げた。もちろん、それが出来たならいいのだ。だが、シンシアにはそれが出来ない理由がある。
「昼は皆が見ていますからね。一応、王国貴族ですし、やっぱり気に食わない人もいるみたいで。あ、兄様は認めてくださったんですよ?むしろもっと教えてほしいと言ってくれたぐらいで……」
物語に出てくる王女様のような彼女は元々義賊だ、恐らくその過程で得た知識なのだろう。元来の天才でもあるため、その知識量は人並み以上だ。
隣に座り、シンシアを手伝う。
「……いいですよね、普通の人は。好きなことを堂々と出来て……私の、偏見かもしれませんが」
ふと、少女は呟いた。
「……やはり、肩身が狭いか?」
「……そうですね。こうして植物を育てることも、料理を作ることも、服を作ることも……全て、私の趣味ですから……」
少女は貴族の血を引きながら、五つの時まで平民として過ごしてきた。母を失った後、今の担任であるアイリスと出会い、一時期傭兵として過ごし、義賊になった。
「……いい母になるだろうな」
素直な感想を告げると、シンシアは「……ありがとうございます」と寂しそうにお礼を言った。
「でも、貴族としては……あまり、よくないんです。何でも出来るというのは、仕事を奪ってしまうということだから……」
だからこそ、シンシアは城でも疎まれている。平民として暮らしていたからか、元来の性格か、どうしても自分でやりたいと思ってしまうのだろう。だが、人の上に立つ者としては彼女以上に素晴らしい人が現れるとは思えない。
しかし、そんなことを言うことは出来なかった。
その数日後、王国兵士が突然来てガザニアを捕らえようとした。
「どうされたのですか?」
しかし、シンシアが庇うように前に出た。今はこの少女が国務をしており、何か事件があった時もシンシアが最初に対応することになっている。
「何かあれば、まず私に通すように言っているハズですよ?」
少女が睨みつけると、兵士の一人がシンシアに告げた。
「フレット人は裏切る可能性が高い。そのことはシンシア様もご存知でしょう?」
「……はぁ。それで?今回の愚行と結びつきませんけど?」
シンシアは理由を聞かなければ納得しない人だ。そのことを知っている彼らは答えた。
「我々はそれを事前に阻止しようとしていたのです。殿下も危険にさらされる可能性が高いのですから」
「……なるほど」
あぁ、今度こそ見捨てられると思った。彼らの言っていることは正論だ。危険な芽は先に摘み取るに限る。たとえ、無実であっても。
だが、シンシアはため息をついた後、
「……なら、私からも言わせてもらうわ。
私の学友に、そんなことをする人はいない。あんた達の勝手な正義で身勝手な行動を起こすな」
なんと、それを聞いてなおガザニアを庇ったのだ。まさかそんなことをするとは思っていなかった兵士達は驚く。
「な、納得されたのではないですか?」
「えぇ。納得しているわ。納得したうえで、そう言ったの。何度も、は言わない。分からなかったのならば、もう一度だけ言う。私の学友に裏切る人なんていない。私やユーカリ殿下を殺そうとする人だっていない。あんた達の行動は王城内の騎士団、ひいては王国の評判を下げる可能性があるものだ、今後は控えなさい」
頭のいいシンシアが、そんなことを分からないハズがない。だからこそ彼らには理解出来なかった。
「で、ですがフレット人は前陛下を……」
「殺したと?どこにその証拠がある?ユーカリ殿下も、フレット人が父王を殺していないと言っておられただろう」
「お二方は騙されているんです。シンシア様こそ、何を根拠に……」
「――なら、証拠があればいいんだな?待っておけ。今まで集めた証拠を全て持ってきてやる。一から説明してやるよ」
怖い顔をしたシンシアは、一度部屋に戻る。そして、フレットの悲劇についての調査を書いた紙束を持って教室に入り、机の上にドンッ!と置いた。
「……で?一つずつ説明していこうか。大丈夫、要点だけ話すから時間は取らせない」
「え、えっと……」
まさかこんなに調べ上げているとは思っていなかった兵士達は後ずさりをする。だが、すごく綺麗な、それでいて殺気を宿した笑顔を浮かべている国務代理に動きが出来なくなった。
「まず大前提として、フレット人はディオース人と同じ女神達……アモールとユスティシーを信仰していない、知らないということを、頭に入れておいてね?
近くの住民の話によれば、当日「女神が望まれたこと」という言葉を聞いたらしい。だけど、フレット人は男神を信仰していた。この時点で矛盾が生じたわね?それから、あの時フレット人はあの道を通っていなかった。彼らは当時、夜中にあの道を通ることは許されていなかったからだ。そして……フレット人は、魔法を使えない。だから、突然炎が燃え上がるなんてありえない。火を持っていたのであれば、遠くからでも見えただろう。仮に森の中に隠れていたとして、火を持っていた状態ならすぐにバレる。しかも、木に燃え移る可能性だってあり得る。フレット人に一切被害がないということはあり得ないことだ。
……で?ここまで聞いて、何か反論は?」
笑顔が怖い。ここまで威圧のある笑みがあるのかというほどで、兵士達は答えられなかった。
「私ね、どうしてもフレット人が陛下を殺したとは思えなくて、彼らの歴史や神話を調べつくしたの。何なら直接フレット地方に行って、失礼ながら学校にあった教科書とかも調べさせてもらった。……私が出した結論は「フレットの民は、アルバート陛下を殺してはいない」だったよ。少し調べたら分かることを、あんた達は一切調べなかった。それで「裏切りの民族」?「殿下を守るため」?はっ、笑わせるな」
シンシアは鼻で笑う。馬鹿にするような態度の中には、怒りが含んでいた。しかし、ガザニアにはそれさえ美しく見えた。
あぁ、この人は自分の立場が危うくなろうが関係ない。ただただ、他人のために尽くせる人だ。真実を見極め、間違いを正せる人なのだ。
「この……!」
年下の娘にそんなことをされて、耐えられる人間ではなかった兵士は剣を抜き、少女を斬ろうと振り回す。
「……………………」
剣が頬をかすめたが、シンシアはそれをチラッと見ただけだった。十三歳とは思えないほどの威厳に、今度は怯え始める。
「……失せろ」
それが、とどめだった。兵士達は脱兎のごとく逃げ出す。それを見届けたシンシアは、ガザニアの方を向いた。
「大丈夫ですか?お怪我は……」
「俺は大丈夫だ。……それより、お前の方はいいのか?」
シンシアの頬からは血が流れていた。小さなものではあるが、貴族の、しかも女性の顔だ。しかし、シンシアは特に気にした様子もなく、むしろ「これぐらい、いつものことですから」と言ってのけた。
「それにしても……この分だと、早めに調査報告は出した方がいいな。ほとんど書き終わっているから明日にでも出せるけど……」
とにかく、出来次第おじい様に提出するようにします、と約束してくれる。王都にも送り、ユーカリにも渡すと言ってくれた。
「悪いな、シンシア」
「いえ、大丈夫ですよ、兄様。隠密行動は得意なので」
シンシアは兄に笑いかける。ただ、それだけだったのだが、ガザニアの胸にモヤモヤが現れた。
それが何か分からないまま、彼は二人を見ていた。
後日、一向によくならないとガザニアは男性陣を集めて相談する(ちなみに、集めたのはシルバー)。
「恋煩いかー?」
シルバーはからかうように言った。いや、からかっているのではなく本当のことを言っていただけだ。ガザニアは驚いた表情を浮かべる。
「恋……」
「シンシアを見ていると落ち着かなくなって、他の男と話しているとモヤモヤするんだろ?それって恋以外の何物でもないだろ」
これが、恋……。ガザニアは胸を押さえる。かつて自分を助けてくれた、主君によく似た少女に恋をするとは思っていなかった。
「お前になら、シンシアを任せられるな」
ユーカリが笑う。アドレイも「うん、いいと思うよ」と言った。フィルディアは何も言ってこないが、反対する気はないようだ。
「シンシアは婚約者もいないしな」
「……だが」
いくらシンシアでも迷惑だろう。平民の、しかも周囲から忌み嫌われている民族なんて。級友として、遠くから見ているだけの方がいいのではないか。
「シンシアは、お前がフレット人だからと断るわけがない。好きな人がいるからとかならあるかもしれないが、少なくとも民族で見ることはないさ」
「そう、でしょうか」
「あぁ。そもそも、もし民族で見ていたらお前と関わりすら持たないだろう。無実を信じていなかったら、あそこまで調べもしない」
主君はそう言ってくれるが、やはりまだ迷いがある。するとシルバーが「なら、本人に直接聞いてみようか?」と言った。
コンコンと扉を叩く音が聞こえ、シンシアはこの時間に誰だろう、今日は集まる日ではなかったハズだけど、と思いながら小さく開いた。そこにいたのはシルバー。
「……どうしました?先に言っておきますけど、匿いませんよ」
「第一声がそれって……」
「日頃の行いでしょう。……それで、何の用ですか?」
「ちょっと散歩に行かないか?」
突然の誘いに、シンシアはあり得ないものを見る目をした。しかし、他意はないことが分かったのか、「……まぁ、そろそろ一息つこうとしていたところでしたし、構いませんよ」と頷いた。
「それにしても珍しいですね。シルバーさんが私と散歩に誘うなんて。いつも小言ばかり言っているから、避けられているかと思いました」
「小言を言っている自覚はあんだな……」
二人で話しながら、中庭まで来た。ここでシルバーがピタッと止まる。
「……どうしました?」
突然のことに首を傾げていると、「少し聞きたいことがあるんだ」と彼は口を開いた。
「あんたは、ガザニアをどう思ってる?」
「どう、とは?」
「少し聞きたかったんだ。本当はどんな風に見ているんだろうなって」
シンシアは疑問に思いながらうーん、とうなり、
「……頼りになる男性だと思いますよ。私のつまらない話もちゃんと聞いてくださって、植物も大事に育てていて、料理も上手で……優しい人なんだなって思います」
「でも、フレット人だ」
シルバーが冷たく言うと、シンシアはキョトンとした。
「それがどうしたんですか?民族なんて、変えようがないでしょう。私が帝国と王国、平民と貴族の血を引いているように。私はその人の本質をちゃんと見て、どんな方なのか見極めているつもりですよ」
どうしたんですか?シルバーさんらしくもない。
シンシアは不思議そうに聞いてきた。シルバーは「いや、何でもないんだ」と笑う。
「そうですか?……何かあったら、すぐに相談してくださいね?出来る限り迅速に対処しますから。ガザニアさんにも、そう伝えていてください」
では、私はそろそろ仕事に戻らないといけないのでこれで、と一礼し、部屋に戻った。シルバーはそれを見届けた後、
「……だ、そうだぜ?」
茂みの方に声をかけた。ガサガサと音を立てながら、四人が出てくる。
「殿下がおっしゃった通りだろ?シンシアは民族なんかでお前のことを見やしないって。あいつは俺のこともすぐに見破ってな、何でも相談に乗ってくれるんだ」
「僕も、何度か相談に乗ってもらってるよ。シンシアは他人の悪口とか言わないし、差別発言もしないどころか「どうすれば皆、納得してくれるんだろう」とこぼしていたぐらいだし」
「さっき、シルバーらしくないと言っていただろう?それは、シルバーも人種で差別する人間ではないことを知っているからだ。だから違和感を覚えたんだろうな」
シルバー、アドレイ、ユーカリがそう告げる。
「だが、俺は……」
「……ならば、あいつが他の奴に取られてもいいのか?」
戸惑っているガザニアに、初めてフィルディアが口を開いた。
「あいつを狙っている輩はそこかしこにいる。このままだと、本当に政略結婚もあり得るぞ。それでもいいのか?」
「それは……嫌だな」
「――なら、行ってこい。お前なら、あいつを任せられる」
ガザニアはフィルディアの言葉にようやく覚悟を決め、シンシアのところに走っていった。
「これで、お見合いの話とか少なくなればいいんですけど」
「まぁな。あいつ、結構困ってたし。たまには役に立ちたいもんな」
「無自覚とはいえ、シンシアもガザニアに好意を持っていたからな。しかし、まさかフィルディアもそう思っていたとはな」
「……ふん。あいつを他の屑みたいな貴族共に預けるよりはマシだからな」
実はおせっかい焼きの四人だった。
ガザニアはシンシアの部屋の前に立っていた。
――ここに、シンシアがいる。
そう思うと、かなり緊張した。手を伸ばして、また引いてを繰り返していると、ガチャッと扉が開いた。
「……ガザニアさん?」
「し、シンシア……」
「人の気配を感じたから、何事かと思いました。すみません、短剣を片付けますね」
少女の手には、鞘におさめたままの短剣。抜いていないのは、知り合いの気配だったからだろう。引き出しに短剣をしまいながら、「それにしても、今日は来客が多いですね」と笑った。
「それで、どうされたんですか?何か話があるから来たのでしょう?」
「そうだが……外で話さないか?」
ガザニアの誘いに驚いた様子を見せながらも、シンシアは頷く。
「ガザニアさんって、意外と不良なんですね」
「その誘いに乗っているお前も十分な不良だろう」
「ふふ、そうですね」
少女がいたずらっぽく笑う。実際、どちらかと言えばシンシアの方が不良だ。よく一人で夜中に出歩いているのだから。
二人は温室に来た。目の前にはたくさんの花が咲いており、その一角に見覚えのある小さな花があった。
「あ、これ、確かフレット地方で咲く花ですよね。綺麗だったので、覚えています」
シンシアはしゃがみこみ、それを見る。その隣にガザニアが座った。
「そうだな。妹が、好きだった花だ」
まさか、この花を知っているとは思わなかった。それだけ真剣に、フレット地方に通い詰めて真実を見つけてきたのだろう。
「妹さん……その、王国兵士に、ですか?」
「……あぁ。恐らく、お前が思っている通りだ」
シンシアの顔が曇る。そして「……ごめんなさい」と謝った。
「私があの時から国務代理をしていれば、きっと妹さんも殺されることはなかったでしょうに……。本当に、申し訳ない」
「……いや、構わない。そもそもお前の責任ではないだろう」
当時、となると彼女は九歳だ。国務代理など普通の女の子には難しいし、むしろ命を救ってもらったのだから感謝するべきだ。
「それに、その花を王国内の誰かが知ってくれているだけで……あいつも、喜んでくれる」
特に、シンシアのように植物を愛せる人が知っているのならば。他人の痛みを自分のことのように感じてくれるだけで、どれ程救われるか。
「……シンシア、聞いてほしい」
「はい、どうしました?」
ガザニアが立ち上がると、それにつられてシンシアも立ち上がり彼の方を向いた。
「俺は、お前が好きだ。付き合ってほしい」
「……………………………………」
シンシアは思考が停止する。ガザニアはそれを、嫌だと勘違いしたらしい。
「無理なら、そう言ってくれ。俺も、いつも通り級友として……」
「あ、いえ、そういうわけではなく……」
少女は炎魔法が放てるのではないかと思うほど顔が真っ赤になる。
「そ、その……恋人になった、ら……」
「なんだ?」
「……あ、あまえても、いいんですか?あなたに……」
だんだんと小さくなっていく声。しかし、ガザニアの耳にはちゃんと届いていて。
「当然だろう。むしろ、たくさん甘えてくれ」
「――――――――!」
ガザニアが微笑むと、シンシアははじかれたように彼の胸に飛び込んだ。
「わ、私、他の人には頼られたいと思うけど……あなたにだけは甘えたいと思っていて……でもそんなの迷惑だって思って……」
「これからは我慢しなくていい」
四十二cmも背の低い年下の少女を、彼は抱きしめる。思っていたよりずっと小柄で、この背に守られていたのかと衝撃を受ける。
――今度は、自分が彼女を守る番だ。
ガザニアは胸にそう、誓った。
次の日の放課後、シルバーがニヤニヤしながらガザニアのところに来た。
「どうだった?」
シンシアをチラッと見ながら、尋ねてくる。それには答えず、恋人になったばかりの少女を見つめていると、それに気付いたのか彼女は微笑んだ。もちろん、それを見逃すシルバーではなく。
「よかったなぁ。いやー、青春だなぁ」
「……俺はまだ何も言っていない」
「さすがに分かるぜー?」
「ガザニアさん」
いつの間に来ていたのか、シンシアはガザニアの傍にいた。シルバーは「うおっ⁉」と声をあげた。気配を感じさせず近付くなんて、さすが元義賊だ。
「これからお茶会をしません?丁度仕事が終わったんです」
「……あぁ、構わない」
どうやら聞こえていたらしく、僅かに頬が赤かった。恋愛ごとには慣れていないのだろう。初々しい二人を、シルバー(と他の人達)は見守ることにした。
部屋で紅茶を飲んでいると、シンシアが髪を押さえているので「……邪魔じゃないのか?」と尋ねた。
「ん?あぁ、義賊の時は結んでいたんですけど、面倒で」
「俺が結ぼう」
紐はあるか?と聞かれ、シンシアは義賊時代に使っていた黒い髪紐を渡す。器用に結ぶ彼に「……前にも、誰かにこうして結んでいたんですか?」と尋ねた。
「あぁ、妹にやっていた。……どうした?」
少し不服そうにしている恋人に首を傾げる。シンシアは「そ、そう……」と俯いた。
「ご、ごめんなさい……。その……ちょっとだけ、嫉妬しちゃって……私もいとこに勉強を教えるように、兄が妹にやっているだけなのに……子供っぽいですよね……」
頬を染めながら告げる恋人が可愛くないわけがない。しかも、こんな可愛らしい嫉妬をされるとは。根っからのお兄さん気質であるガザニアにはかなりの必殺技だ。
「そ、その、嫌いにならないで……」
「なるわけないだろう、その程度で」
むしろ、この子の場合はもっと甘えるべきだ。(繰り返しているとはいえ)自分達より年下なのだから。ガザニアは少女の髪に頬を摺り寄せる。手入れをしていないと言っていたにも関わらず、髪はサラサラで綺麗だった。
付き合い始めてから数か月後、ガザニアのことをよく思っていないクラスメートから陰口を叩かれていた。
「シンシアって、フレット人と付き合ってるんだって」
「えー、マジ?いつ裏切られるかも分からないのに?」
「騙されているんだよ。ほら、シンシアって貴族令嬢に戻ったばかりじゃん」
「しかも、ユーカリ殿下によく似ているからね」
そのたびにシンシアの元に話が行かないようユーカリがたしなめるが、その場は落ち着くもののすぐに再開する。ガザニアは、シンシアを守るために自分は引いた方がいいのではないかと思い始めていた。
そんなある日、とうとうシンシアの耳にその陰口が届いてしまった。いや、直接言われた、と言った方が正しい。それも、いやらしくガザニアやユーカリの目の前で、だ。
「シンシア、フレット人とは別れた方がいいよ」
「……なぜですか?」
教室内が数度下がった気がするが、シンシアに申している人達は気付いていないらしい。
「いつ裏切られるかも分からないんだよ。それなら、おれと付き合った方がいいって」
「そうそう。騙されているんだよ。シンシアは未熟だからね、そういったことも判断出来ないんだよ」
あぁ、シンシアはどういう反応をするのか。その場にいた人はひやひやした。
「……あのね」
さんざん言われたのち、シンシアは初めて口を開く。
「それは「あんた達」の主観でしょう?真実が見えていないのはあんた達の方だ。今まで、彼が兄様を裏切ったことがあったか?裏切るそぶりを見せたのか?そもそも、私を騙せると思っているのか。確かに、あんた達の言う通り私は貴族としては未熟だ。あんた達より貴族であった年数は圧倒的に短い。だけど、その分私は「旅人」として、「義賊」としていろいろなものを見てきた。だからこそ分かる。彼は、そんなことをしない。根拠もないのに、人の交友関係に口出しするな」
怒っているが、これでもかなり耐えているような気がする。内心は大憤慨しているのだろう。だが、手を出さないように拳を握っている。
クラスメートは口を噤んだ。この人に逆らってはいけない、そんな雰囲気を感じ取ったからだ。
彼らは散っていく。シンシアは一息ついた後、ガザニアのところに来た。
「ガザニアさん」
名前を呼ばれ、僅かに震える。なんと言われるのか想像出来ないからだ。
「ごめんね。あんなことを言われてるってもっと早く知っていたら、私も対処していたんだけど……」
しかし、少女の口から出たのは謝罪の言葉。ガザニアは驚き、少女を見る。
「しかし、本当にどうしたものかな……。報告書を出しても駄目、おじい様や兄様が説得しても駄目……他に手が尽くせるかな……」
シンシアは困った顔をしていた。本気で悩んでいるようだ。
「……別れる、とか言わないのか?」
恐る恐る尋ねると、シンシアは首を傾げた。
「なぜ?なんでその判断になるのか、私には分からないのだけど」
それは、純粋すぎる疑問だった。最初から、そんな考えなど持っていなかったらしい。
「俺と一緒にいたら、また何か言われるかもしれない」
「そうですね」
「お前が、傷つくかもしれない」
そういうことか、とシンシアは微笑む。本当に、この人は優しいのだから。
「それは覚悟の上ですよ。私だって、ダテに永いこと生きていません」
ばかですね、と笑う少女は綺麗だった。ばかという言葉ですら、とても優しくて。
「あなたが私のことを嫌いになったのなら、仕方ありませんけど。あんな奴らの言葉で別れることの方が、私には耐えられませんよ」
あぁ、この子は本当に美しい。身分だけでなく、人種すら違うというのにここまで愛してくれるなんて。
シンシアはガザニアを抱きしめる。ガザニアは椅子に座っていたので、顔は胸に当たっている状況だ。
「もし、あなたが嫌じゃなければこれからも付き合っていてほしい。それが無理だというのなら、私だって身を引く。級友として過ごすことにするよ」
答えなど、とっくに決まっている。
「……それは、俺から言うことだろう。これからも恋人でいてくれ、シンシア」
細い腰に腕を回す。力を込めてしまえば折れそうなこの身体は傷だらけだ。それは、この少女が生きてきた証だった。それが、ガザニアにとっては愛おしく思えた。
舞踏会の日、ガザニアはシンシアを探していた。
少女は外にいた。女子制服で、誰もいない場所に立っている。
「シンシア、こんなところにいたのか」
「ガザニアさん」
声をかけると、恋人は手を振った。そして「あなたならここに来てくれると思いました」と笑う。
「なぜここに?寒いだろう」
「うーん、ここの状況で分からないかぁ……」
ここは、舞踏会の音楽が聞こえているが誰も見ていない。それに気付き、ハッとなる。
「……俺と一緒に踊ってくれませんか?お嬢さん」
「……はい」
彼女は気を遣ってここにいたのだろう。ガザニアも、少女と一緒に踊りたいと思っていたから探していたのだ。
音楽に合わせ、二人は動き出す。慣れていないガザニアの動きはぎこちないものだったが、シンシアは気にせずそれに合わせた。
音楽が終わると、不意に腕を引っ張られる。そして、唇が重なった。離れると、少女は僅かに頬を染めていた。
「……他の女性にやってはいけませんよ」
「お前にしかやらないに決まっているだろう」
少女は恋人の胸に耳を傾ける。少しだけ早い鼓動は動いた後だからか、それとも……。
――修道院にトリストが襲撃し、アイリスが行方不明になってしまった。王国に戻るとユーカリがアマンダに捕らわれ、処刑されそうになる。間一髪のところでシンシアとガザニアが助け出したが、逃げている途中でガザニアが負傷してしまう。
「ガザニアさん!」
シンシアが駆け寄ると、ガザニアは「先に行け」と言った。
「でも……」
「この怪我では足手まといだろう。……っ、安心しろ、後から追いつく」
確かに、この怪我ではシンシアが白魔法を使っている間に追手に追い付かれてしまう。王子の命と、恋人の命。今の状況でどちらが大事かと言われたら……考えれば、いや、考えなくともすぐに分かることだ。
シンシアは唇を噛み、涙を耐える。
「……絶対に、追い付いてね。城か、修道院に、いるから」
少女は彼に口づけを落とし、兄と共に走り出した。それが、少女からの初めての口づけだった。
五年間、シンシアは待ち続けた。他の人達が諦めていても、少女だけは信じて戦いながら恋人の帰りを待っていた。
そうして五年後、シンシアはユーカリと共に修道院に向かい、アイリスや級友達と再会した。数日後、教室で会議していると、外から足音が聞こえてきた。シンシアが警戒しながら、しかしよく知った気配に安堵して扉を開く。
「遅くなり、申し訳ございません。殿下」
そこには、ガザニアが立っていた。彼は、大きくなった少女を見て微笑んだ。
「待たせて悪かった、シンシア」
その言葉にはじかれ、シンシアは彼の胸に飛び込んだ。
「全く……いつまで待たせるつもりだったの……?」
涙声になっている。五年も待ち続けたのだ、感動もするだろうし、積もる話だってたくさんあるだろう。
「おいおいガザニア。あんまり女の子を泣かせるんじゃないぜ?」
シルバーがからかうように告げる。皆が彼の近くに集まった。
「本当に悪かった」
「……クッキー作ってくれたら許す」
「お安い御用だ」
案外可愛い要求をしてくる恋人が愛おしい。この日はシンシアにも休息をと解散になった。
「それにしても、大きくなったな」
食堂で一緒にクッキーを作っている少女に声をかけると、「そうですか?自分ではあまり分かりませんが……」と答えた。
「あ、でも通れたハズの場所に頭をぶつける回数は増えましたね」
「それは大変だな」
元々ユースティティア家の人間は、身長の高い人が多い。その中でもシンシアは背が高いのだ。この軍の中でも女性の中では一番高い。
ガザニアはシンシアの傍に来る。そして、唇を重ねた。
「……本当だな。口づけがしやすくなった」
「どんな確認方法ですか……」
頬を赤らめる少女はこの軍を支える軍師と同一人物には見えなかった。
遠くから見ていたシルバーにからかわれることは言うまでもない。
大戦争が終わり、一年が経とうとしていた。他の人達は結婚していたが、シンシアだけはいまだ婚約すらしていなかった。
「シンシア様、ぜひ我が息子と……」
「いえ、私はまだ二十歳にも満たぬので……」
この日もまた見合いの話が舞い込む。もちろん、シンシアは断るのだが、これ以上は難しくなっていくだろう。
――私も、そろそろ腹をくくった方がいいか……。
シンシアは覚悟を決め、王城に手紙を送った。
一週間後、ユーカリとガザニアが来た。ガザニアは陛下がなぜ一緒に来たのか、よく分かっていない。
「久しぶりだな、シンシア」
「申し訳ありません、兄様。こんな急に呼び出して……」
「いや、構わないさ。お前達の今後を決めることだからな」
二人を執務室に通し、使用人には誰も入らないように指示を出す。
紅茶を出し、シンシアも席に座った。
「時間がないのですぐに切り出しますが、私の元に見合い話が何通も来ていることは知っていますよね?」
「……あぁ」
「今までは断ってきましたが、やはり私も貴族令嬢……それも、もうすぐ領主となる身。やはり戦後は領民を喜ばせる発表をせねばなりません。だから私もいい加減、腹をくくらねばと思いまして」
「……そ、そうか」
それはつまり、自分と別れるということだろうかとガザニアは落ち込む。……だが、それも仕方ないと思った。自分は平民、ましてフレット人だ。さすがに彼女と釣り合っているハズ……。
「それで、ガザニアさん。あなたに聞きたい。
――あなたは、貴族の一人になる勇気はありますか?」
しかし、予想とは斜め上の質問に、ガザニアは驚いた。それに気付いていたが、シンシアは続ける。
「平民から貴族になるには、それなりの苦難がある。あなたの場合、さらに大きいと思うの。それを受け入れる覚悟はある?」
「ガザニア、後はお前の意思次第だ。ユースティティア家に婿入りするのであれば、俺の従者ではいられなくなる。俺の、友となるんだ」
あぁ、だから陛下が来ていたのかとようやく気付いた。これは自分達だけでなく、主君にも関わってくることだから。
「……俺は、お前の傍にいていいのか?」
「当然だよ」
「お前の迷惑にならないか?」
「迷惑上等。文句を言ってくる奴は片っ端から論破してやる。安心なさい」
「――俺は、お前を愛していいのか?」
「もちろん。人を愛するのに、人種とか関係ないでしょ?」
全てを許してくれるシンシアにガザニアは立ち上がり、彼女の前に跪く。そして、ポケットの中から小さな箱を取り出した。
「――俺と、結婚してください。シンシア」
箱からは彼らしくシンプルな、花の模様が刻まれた指輪が入っていた。シンシアは微笑んで左手を差し出す。
「……お受けいたします」
ガザニアは彼女の左手を優しく取り、薬指に指輪をはめた。――あぁ、ようやく二人が結ばれるのかとユーカリは感慨深く思った。
「……他の奴らにも、この光景を見せてやりたかったな」
王妃となった元担任、同じ学び舎で学んだ学友達……きっと皆、彼らを祝福してくれるだろう。
この婚約は、シンシアが正式に領主となったと同時に発表された。敬愛する新しき領主シンシアの元に婿が来るという喜びと、フレット人が旦那になるという不安が人々に見られた。だが、陛下の元従者であると聞いて、一応は納得された。
「シンシア、これを植えていいか?」
婚約中、城の温室にいる二人をよく見かけた。
「わぁ……綺麗だね……」
婚約を機に、シンシアはガザニアに敬語で話すことはなくなった。自身の祖父でさえ、仕事中は敬語を使っていたのにこの婚約者には四六時中ため口だ。シンシア曰く、「夫になるのに、なぜいつまでも敬語でいなければいけないのですか」とのこと。
「……結婚式には、あなたの故郷の花を飾ろうかな」
「ははっ。お前がいいのなら」
普段は無表情で何を考えているのか分からない主君の婚約者も、フィアンセと共にいる時は笑っていることが多い。彼の左手の薬指には、シンシアから渡された指輪がはめられていた。
「……そういえば、よかったのか?二つも指輪をもらって……」
ガザニアは首にかけられているもう一つの指輪を見て、尋ねた。その首元の指輪は、シンシアの母の形見だ。大事なものであるハズなのに。
「いいんだよ。その指輪は元々、将来好きな人が出来た時に渡すように言われていたものだし」
もちろん、父が母に贈ったものであるのでガザニアの指に合うハズもなく。母の形見の指輪は首にかけて、後日改めてシンシアがガザニアの指に合う指輪を用意したのだ。
「それに、少し心配でもあるから。その……あなたが、誰かに殺されちゃうんじゃないかって。だから、牽制というか……」
シンシアは、「母親」という大事なものを目の前で失っている。ガザニアとの婚約は一応納得してもらえただけで、よく思っていない人だっている。だからこそ、不安なのだ。
ガザニアは、もうすぐ妻となる女性の肩を抱く。
「大丈夫だ。そうならないよう、先生から護身術も学んでいる。それに、お前を一人置いて死ぬわけにはいかない。ユーカリとも約束したからな」
――シンシアは意外とさみしがり屋だからな。もう泣かせるなよ、ガザニア。
こちらに来る直前、ユーカリがそう告げた。それが、主君として最後の命令だった。
――はい、分かっています。陛下。
――もう「陛下」ではない。シンシアの旦那になるのならな。
――……ユーカリ。
その時ようやく、シンシアと結婚するのだと実感した。兄に、妹を任せられたのだと。
「……私も、あなたを守るから」
「それは俺のセリフだ。必ず、お前を守り通してみせる」
守られているだけじゃ気がすまないのはこの子らしいと思いながら、ガザニアは髪に口づけを落とした。
シンシアが二十一歳になる前月の一月二十八日、結婚式が行われた。この日は丁度、旦那となるガザニアの誕生日でもあった。式には、領民と一部の知り合いが参加していた。大貴族にしては慎ましい式ではあったが、二人は幸せだった。結婚式で飾られていた花は、ガザニアとシンシアが育てたものだ。
その時の花嫁の美しさは、誰もが見惚れるほどであったという。
それから数年後、二人は様々な苦難を乗り越えながら幸せに過ごしていた。
「ねぇねぇ、ははうえ」
「どうしたの?アザレア」
ソファに座っていたシンシアはもうすぐで五歳となる息子を抱きしめながら笑いかける。
「ちちうえはなんでおはだの色がちがうの?」
「お父様はね、お国のさらに上にある場所からここに来たの」
シンシアは彼の頭を撫でる。
「ぼくとフィオーレは、ほんとうのきょうだいじゃないの?」
「どうしてそう思ったの?」
息子の疑問に、シンシアは尋ねた。彼は母にすり寄りながら不安そうに言った。
「だって、ぼくはははうえと同じ白いおはだなのに、フィオーレはすこしだけちがうの。ぼくたち、きょうだいじゃない?」
確かに、娘であるフィオーレは僅かに褐色が入っている。だから息子は不安になったのだろう。シンシアは抱きしめて、優しく答えた。
「いいえ。あなた達はちゃんと、お母様の子供よ。フィオーレはね、少しだけお父様に似ただけなの」
「ぼくも、ちちうえのこども?」
「もちろん。その証拠に、あなたのお目目はお父様と同じ緑色でしょう?」
「うん。このおめめ、ぼくのじまんなんだ!」
息子は母からそれを聞いて、安心したようだ。今度は母のお腹に耳を当てる。
「ねぇ、つぎはおとうと?」
「こればかりはお母様も分からないよ。でも、弟が生まれたらいいね」
シンシアはアザレアの頭を優しく撫でた。この子は、結婚して一年後に生まれた子だった。
ガザニアが二歳になったばかりの娘を抱き、二人の元に来た。
「あ、ちちうえ!」
「どうした?アザレア」
「おなかのあかちゃん、うごいてるの!さわってみて!」
ガザニアは妻に視線をやり、いいと許可を得た後、シンシアの大きくなったお腹に触れた。
「……本当だな。もしかしたら弟かもしれん」
「ほんとう⁉」
「あぁ。お前もよく動いていたからな」
妹を妊娠していた時はまだ二歳だったので、よく覚えていないのだろう。息子は興奮していた。
ガザニアは、息子が生まれた時のことを思い出す。
「……子供?」
あれは、結婚して数か月後のことだったか。本棚に本を片付けていると、シンシアから子供が出来たと告げられた。
「うん。最近、体調が優れていなかったでしょう?だから、医者に診てもらったの。そしたら、懐妊しているって」
「俺とお前の、子供……」
気付けば、持っていた本を全て床に落とし、シンシアを抱きしめた。
「……夢を見ているようだ……」
そう呟くと、妻は「夢じゃないよ」と笑った。
シンシアはつわりが酷く、とてもじゃないが公務どころではなかった。ガザニアはヨハンやテレンスと協力してシンシアを支え続けた。
やがてつわりも落ち着き、ある程度公務が出来るようになったある日、
「ねぇ、ガザニアさん。お腹の子が動いたの、触ってみて」
シンシアにそう言われ、ガザニアはそっと我が子がいるところに触れた。妻の言う通り、お腹の中で動いていることが分かった。
「……かなり動いているな」
「元気だよね。……本当に、母親になるんだなぁ……」
その言葉に、自分も父親になるのだと急に実感してきて。
「もう、ガザニアさん。泣かないで」
「すまない……俺が、こんなに幸せでいいのかと思ってな……」
「何言ってるの?あなたはもっと幸せになるんだから」
シンシアは優しく、夫の頭を撫でる。
そうして、出産の日を迎えた。かなりの難産で、妻を失ってしまったらどうしようと不安になる。
だが、その不安も杞憂に終わる。部屋の中から産声が聞こえてきて、ガザニアはすぐに部屋に入った。
そこには、赤子用のベッドの上で寝ている我が子と、それをベッドの上で優しく見守っている妻の姿があった。日をまたいでいたのでかなり疲弊していたが、特に異常はないそうだ。
「あ、ガザニアさん」
シンシアは夫の姿を見て、嬉しそうに笑った。産婆は「ごゆっくり、シンシア様」と部屋から出る。
「私、頑張ったよ」
ガザニアは妻に近付き、汗で濡れていることも気にせず彼女に縋りついた。
「……ありがとう……」
頬に涙が伝っていくのが分かる。シンシアは夫の頭を抱いて、「いいんだよ」と微笑んだ。
ガザニアは、傍にいる我が子に目線を向けた。
「男の子だって」
「そう、か……」
生まれたばかりの息子の小さな手に、自分の指を差し出した。すると小さな手がギュッと指を握る。
あぁ、本当に生きている。
ここに、自分達の血を継いだ小さな命がある。胸の中に言いようもない幸福が満たされた。
数日後、子供が生まれたと聞いて兄達が来た。
「おー……可愛いな……」
シルバーがふやけた表情をしていた。こんな表情の辺境伯を見たことがない。
「こりゃあ、将来は美人に育つな」
「一応、男の子ですよ、グロリオケさん……」
シンシアが苦笑いを浮かべる。今は休憩しているのだろう、子供の方を見ていた。産後なのにすぐに仕事をしているのは、やはり領主である彼女にしか出来ないものがあるからだ。それ以外のものは叔父や信頼している兵士が引き受けてくれている。
「……そういえば、この子に乳母はいないのね」
姉の言葉に、他の人達も気付いた。確かに、乳母の姿が見当たらない。
「あー……その子には乳母をつけていないの。確かに私の子供ではあるんだけど、同時にガザニアさんの子供でもあるから。よく思わない人もいると思って。この子に何かあったら困るし、ガザニアさん達フレット人を見直させるチャンスかなって思って。幸い、私もガザニアさんも子供が好きだし、お世話したこともあるからね」
なるほど、とその場にいた人達は思った。子供を守るためには、自分達で育てた方がいいだろう。特に、この夫婦の場合は。
「でも、大変でしょう?帝国から信用出来る乳母を送るわよ?」
アネモネが心配そうに告げるが、シンシアは首を横に振った。
「ガザニアさんが積極的に協力してくれるし、叔父様もおじい様も手伝ってくれるから平気だよ。心配してくれてありがとう、姉様」
「そう?それなら、いいけれど」
姉とそんなことを話している間に、ガザニアが飲み物を持ってきた。
「ありがとう、ガザニア。……シンシア、珍しいな、ホットミルクか?」
ユーカリが妹の飲み物を見て、驚いた表情をする。確か、彼女はコーヒーが好みだったハズだが。
「ん?あぁ、コーヒーは子供にミルクをあげる時に悪い影響を与えるらしくて。今は控えるようにしているの。飲むとしても一日一杯にしてるかな」
「そうなんだな」
「まぁ、調べてくれたのはガザニアさんなんだけどね。私は全く知らなくて、この子を産んだ後はいつも通り飲んでいたの。そしたら、ガザニアさんにそう教えられて。少しならいいんだけど、多くは飲んじゃダメなんだって。だから最近はホットミルクかハーブティーを飲んでいるかな」
「なるほど。……いい旦那を持ったな」
普通の男性なら、ここまで調べてくれない。それだけ妻と子供の体調を気遣ってくれているのだろう。特にシンシアは忙しい身だから、それぐらいしてくれる旦那の方がいいのかもしれない。
「本当にね。私にはもったいないぐらいの、自慢の夫だよ」
シンシアは笑う。ガザニアはぐずり出した息子を抱き、シンシアのところに連れてきた。
「シンシア、腹が減ったらしい」
「分かった。ごめんなさい、少し席を外しますね」
シンシアは息子を預かると、奥の部屋に入った。代わりにガザニアがユーカリの隣に座る。
「憧れの夫婦像だな、ガザニア」
かつての従者に笑いかける。ユーカリとアイリスも二人で子供を育てているが、やはり出来ないところは乳母に頼むこともある。それに比べ、二人はちゃんと調べ、協力して子育て出来ていると思った。環境もあるだろうが、それでも人々の憧れとなるのではないか。
「いえ、俺はシンシアに支えられっぱなしで……」
「そんなことないさ。シンシアもお前には感謝していたぞ」
「そんなことは……俺には出来すぎた妻で……」
シンシアと同じことを言っていて、ユーカリは笑う。この二人は似た者同士だ。もちろんそのことを知らないガザニアは疑問符を浮かべた。
「そういえば、あの子の名前は?」
隣で聞いていたアイリスが尋ねた。
「「アザレア」だ。シンシアが名付けてくれて」
「どういう意味なんだ?」
「花言葉から取ったらしい。確か――」
――「祝福」。
アザレアという花は、祝福を意味するのだと妻は言っていた。確かにその通りかもしれない。息子が生まれたことで、周囲が自分達フレット人を見直し始めたから。
「ちちうえ、どうしたの?」
息子が父の顔を覗き込む。妻は「疲れたなら、休んでいいんだよ?私の代わりにやってくれているんだから、たまには休息も必要だよ」と言ってくれた。
「あぁ、いや。大丈夫だ」
疲れていたわけではないので、ガザニアは首を横に振る。シンシアは「そう?それならいいんだけど」と首を傾げる。だが、時計を見て、
「あ、アザレア。お昼寝の時間だ。ベッドに行こうか」
「うん。ちちうえもいっしょにいこう?」
「……あぁ。フィオーレも行くか」
シンシアはアザレアを抱え、家族で寝室に向かった。目をこする息子を最初にベッドに寝かせ、その隣に娘を寝かせる。そして、母が子守唄を歌った。
それは、フレット地方で歌われている子守唄だった。シンシアは王国の子守唄とフレット地方の子守唄を交互に歌って聞かせるのだ。
一度、なぜフレット地方の子守唄を歌うのかと聞いたことがある。
――父の生まれた場所の子守唄を歌うのは当然でしょう?こんなにいい子守唄を子供達に教えないのはもったいないよ。
そう、彼女は笑って答えた。あぁ、この妻はどこまで出来た人物なのかと思った。違う言語の子守唄を必死で覚えて、子供に歌って聞かせて、受け継がせる。昔のガザニアには考えられなかったことだ。
子供達が寝ると、シンシアはガザニアの隣に座った。
「それで、どうしたの?」
先程のことだろう。子供達も寝ているので、正直に話してもいいだろうと判断する。
「……アザレアを身籠っていた時のことを思い出していた」
「あー、あの時は大変だったね。公務もまともに出来なかったし」
「初めてだったから当然だ。お前も辛かっただろう」
「あなたやおじい様達が支えてくれたから平気だったよ。本当に、いい旦那を持ったよ、私は」
シンシアは微笑む。初めて会った時から、その美しさは変わらない。やはり、女神の血筋だからだろうか。
ガザニアは娘を見る。フィオーレというのは、ガザニアの妹の名前でもあった。
――娘が生まれたら、あなたの妹の名前をつけたい。
フィオーレを妊娠した時、シンシアはそう言った。ガザニアはいいのかと尋ねた。シンシアの子供は、大貴族の嫁になる可能性が高い。それなのに、妹の名前をつけていいのか。
フィオーレって、「花」という意味でしょう?綺麗な名前だし、あなたさえよければそうしたいよ。
そう言われ、ガザニアは頷いた。「そうしてくれ」と。
そうして、娘には妹の名前がつけられた。二度と呼ぶことはないと思っていた名前を再び呼ぶことが出来ることに、ガザニアは感謝していた。
「……実はね」
娘を見ていることに気付いたシンシアは、いたずらっぽく笑う。
「フィオーレを妊娠した時、不思議な夢を見たんだ。フレット人の女の子が出てきてね、「あなたのところに来ていい?」と聞いてきたの。どうして?と聞き返したら、兄の子供に生まれ変わりたいって言われてね。それで、次は娘が生まれるって分かったの」
「……あいつが……」
「元々、女の子が生まれたらあなたの妹の名前をつけるのもいいかなって考えていたんだけど、その夢を見てあなたさえよければそうしようって思ったの」
この子は覚えていないだろうけどね、生まれる前だし、と娘の頭を撫でる。確かに、肌の色が少し薄いことと瞳の色が母のものであること以外は妹によく似ていると思っていたが……そういうことだったのか。
「嬉しかったよ。あなたの妹があなたの娘として生まれ変わることが出来て」
「そう、だったんだな。……うん?」
そういえば、今度は友人の名前をつけようとしていたが、まさか……。
「あ、気付いた?多分、次は男の子だよ」
あぁ、この妻はどこまでも自分に「祝福」を与えてくれる。奪われたものを、全て与えてくれる。
「……ありがとう、シンシア」
「ううん。あなたは理不尽に奪われた分、もっともっと幸せになるべきなんだよ」
女神が、私達を見ているんだから。
彼女の言う通り、女神の血筋と言われるに恥じないほど、たくさんの祝福が来るのだろう。彼女自身につけられた花言葉と同じように。
ガザニア……「あなたを誇りに思う」「きらびやか」「潔白」
ムクゲ……「信念」「新しい美」
アザレア……「あなたに愛されて幸せ(祝福)」
それから数十年後。士官学校を無事卒業したアザレアは三十になる前、母から爵位を受け継いだ。シンシアはまだ若く、五十にも満たなかったが、今まで王国だけでなく大陸中に尽くしてくれたのだからとユーカリ陛下が爵位を引き継いでもいいと許可を出した。
「父上、母上、これからも支えてもらうことが多いと思いますが、どうかごゆっくりされてください」
大人になった息子は、両親がどれほど苦労していたのか理解していた。特に、自分に対してとても過保護にしてくれたことを知っていた。
――フレット人は最初、国王殺しの民族と言われていたけれど、現ユースティティア領主のシンシア様をはじめとする方々によって無実を証明されたのです。しかし、当初それは多くの人々には認められなかった。シンシア様は旦那様であるガザニア様とご結婚するか悩んでいました。けれど、これでよくなるのならばと踏み出したのです。彼女はフレット人と結婚するべきではないと理解されていたでしょう。それでも踏み出したのは……本当に彼を愛し、無実を証明したかったからでしょうね。
あなたが生まれた時はまだ、フレット人に対する偏見がありました。しかし、ご両親はあなたを一生懸命に育て、その姿のおかげで少しずつ誤解が解けてきたのです。
担任に言われたことを思い出す。両親はそんなことを一度も見せたことがなかった。両親は子供達にとって、理想の夫婦だった。仲睦まじく、子供達に平等に接してくれる、そんな両親が好きだった。
その苦労の分、これからはゆっくりしてほしかった。
「ありがとう、アザレア。何かあったら手紙で送ってくれたらいいからね。すぐに駆け付けるから」
シンシアは息子を抱きしめる。母も父も、あの時の容姿から変わっていなかった。
二人は、フレット地方に移り住むようだ。遠くなるが、会えなくなるというわけではない。フィオーレや弟達も大きくなったし、これからは夫婦で過ごしてほしかった。
シンシアとガザニアは、フレット地方でその余生を過ごすことにした。
「……私、ずっと働き詰めだったけど……こうやって穏やかに過ごすのも、いいものだね」
「……あぁ、そうだな」
特にシンシアは、六歳になった時から義賊として旅をし、十三歳の時に公務や国務代理、戦争にも参加し、領主として母として休む間もなく働き続けた。きっと、シンシアが今までしてきたことは、一歩間違えれば暴挙になることもあっただろう。だが、変革を起こすにはそれぐらいのことをしなければいけなかった。
今は、いくら趣味のことをしていても誰にも怒られない。愛する人と共に、こうして過ごせる。もしかしたら、人生の中で一、二を争うほどの幸せかもしれなかった。
二人は、恐らく他の人達より寿命が永い。子供達が先に天へ旅立つかもしれない。だが、兄や姉、級友達がどのような世界を作り上げ、今後どのように世界が変わっていくのか。それを、最後まで見届けるのが「女神とその配偶者」になった者の役目なのだろう。
「……幸せだよ」
「あぁ。俺もだ」
二人は手を繋ぎ、遠くを見た。目の前には、かつて二人を繋ぐきっかけとなった小さな花畑。これをいつか愛する妻に見せたいと、何度願っただろうか。
空には、青い月が光っていた。




