温室育ちのマリーベルは今日も温度差が悩ましい
目を開けると、そこは温室だった。
シダっぽい巨大な葉が生い茂り、ビビットな色の花が咲き乱れ、そこかしこにトロピカルなフルーツがたわわに実って食べ放題。
そんな南国の楽園のような温室にも夜は来る。
夜来香の甘い香りが漂う中、ストンとしたマキシ丈のワンピースを着た私は呆然と立ち尽くしていた。
足元には金髪のおじさんが一人、うつ伏せに倒れている。
「……やばい」
自分的には、「やばい!!」くらいの勢いで声を発したつもりなのに、実際はひどく緩慢になってしまった。
もっと巻きでしゃべりたいのは山々なのだが、いかんせんこの身体はとびきりおっとりさんなようだ。
この身体、なんて言うと他人事みたいだが――正真正銘、他人なのだ。
今私が動かしているこの身体は〝マリーベル〟という名前らしい。
足元に倒れているおじさんがそう呼んでいた。
しかもこのマリーベル、純日本人の私自身とは似ても似つかない。
黒髪のボブはキラキラとした金色の長髪になり、日本人らしい焦げ茶色の瞳が私の誕生石であるアクアマリンみたいな水色に変わってしまっていた。
これで戸惑うなというのが無理な話だ。
そもそも顔の造りからして全然違うし、雰囲気なんかはっきり言って正反対。
大学卒業後にアパレルのバイヤーとなって五年余り。
精力的に仕事をこなしていた私は、姐御肌でパンツスーツがよく似合うと評判のキャリアウーマンだった。
対するマリーベルは、レースやフリルが似合いそうな小動物系の女の子。
「まるで、あの子みたいな……」
男の後ろに隠れておろおろしていた女を思い出し、私は遠い目をした。
結婚二年目で夫の浮気が発覚。
相手は、短大を卒業したばかりの新社会人だった。
不倫相手との間に子供ができたから離婚したい――そう言ってきた夫に対し、私はもはや愛情の欠片もない。
ぶっちゃけ稼ぎは私の方がいいのだが、人の道に外れたことをしたからにはちゃんとけじめはつけてもらわなければ。
そういうわけで即行慰謝料の話をしたところ、夫も不倫相手も難色を示したものだから、三つ年下の弟に紹介された弁護士に相談して裁判の準備を始めた。
その後、外聞を気にした彼らの親が慰謝料の肩代わりを申し出て早々に和解。
しかし、おかげで家族から総スカンを食らった夫と不倫相手の新婚生活は前途多難になりそうだ。
私の知ったことではないけれど。
私のことを金の亡者と罵ってきた夫は、協議書の作成に立ち会った弁護士が「裁判する時は声をかけてくださいね。今の暴言について証言しますので」とにこやかに言うと黙った。
とはいえ、好き合って結婚したはずなのにいがみ合って別れてしまい、何だか無性に虚しい気持ちになる。
私は少しでも気分を晴らそうと、近場だがちょっといいお宿の露天風呂付きの部屋を取った。
出迎えてくれた女将さんも、部屋まで案内してくれた仲居さんも感じが良く、何より贅沢な湯船を独り占めしつつ飲んだ酒は最高だったのだ。
頭上には、滲んだ満月が浮かんでいた。
それを眺めつつ、ほろ酔いでうとうととしたところまでは覚えているが――次に目を開けると、そこは冒頭の通りの温室だったのである。
それが、おおよそ一月前の話。
今まさに私の足元に倒れているおじさんとは、その直後に出会った。
「やばい」
回想という名の現実逃避をやめた私は、のろのろとしゃがんでその身体に触れる。
おじさんは、息をしていなかった。
背中に耳を当てると鼓動も聞こえない。
「やばい」
心肺停止が五分を過ぎると、一分ごとに十パーセント蘇生率が下がるという。
AEDなんてこの温室のどこにもないし、マリーベルの細腕で心臓マッサージをしたところで効果があるかどうか。
温室の中には私とおじさんしかいないので、助けを呼ぶには外に出なければならない。
自力での救命を早々に諦めた私は、おじさんのズボンの後ろポケットから鍵を取って走り出した。
しかしながらこの身体、ちょっとびっくりするほど足が遅い。
その上、巨大な葉っぱや人工の小川、木の根のトンネルなんかが行く手を阻み、さながら障害物競走だった。
それでもどうにか巨大な閂と南京錠で閉ざされた扉に辿り着く。
マリーベルの身体で目覚めてからおおよそ一月ほど経つが、その間私が会った人間はおじさんだけだ。
温室の所有者は彼らしく、生活に必要なものは全部用意してくれたが、私が外に出るのをひどく嫌がり自分が留守にする昼間は厳重に鍵をかけていた。
私も私で、他人の身体で生きているという理解不能な状況に混乱し、そんな軟禁生活に甘んじていたわけだが……
「おじさんが死んじゃったら……私は?」
人命第一だとか情が移ったとかではなく、思いっきり保身のため、彼を死なせるわけにはいかない。
あと、温室に遺体があっても困る。とろけちゃう。
私は拝借してきた鍵で南京錠を開き、ひいこら言いながら巨大な閂を引っこ抜く。
そうして、いざ取手を握った手を、私は思わず引っ込めた。
温室でぬくぬくと過ごしたこの一月余り感じたことのない冷たさだったからだ。
痺れるような冷たさに顔を顰めつつ、どうにかこうにか扉を開けば、さらにもう一つ扉が。
私が悪態を吐く間も惜しんで二つ目の扉の鍵を開けた――その時である。
外から吹き込んできた風により、扉が勝手にこちら側に開いた。
「ひぇ」
たちまち、これまで経験したこともないほどの冷気に襲われる。
私はか細い悲鳴を上げて、文字通りその場で凍り付いた。
二つ目の扉の向こうは、まさしく極寒の世界だった。
冷え冷えとした月の光の下、全てが白いものに覆われている。
ひゅっと息を吸い込めば、尋常ならざる空気の冷たさに喉の奥が凍るようだった。
これまで過ごしていた温室との凄まじいまでの温度差に私の足は完全に竦んでしまう。
「だ、だれか……」
吹き付ける風に目も開けられず、ガチガチと歯を鳴らしながら何とか声を搾り出した時だった。
「――そこに誰かいるのか?」
ふいに、声が返ってくる。
必死に両目を抉じ開ければ、若い男が一人、訝しい顔をしながらこちらに向かってくるのが見えた。
年は二十代前半――私よりは年下のようだが、マリーベルよりは年上だろうか。
氷みたいに冷たそうな白銀の髪と冷涼とした青い瞳で、やたらと身形がよくて近寄り難い雰囲気である。
ところがそんな彼が、私の顔を見たとたん、はっと息を呑んだ。
「マ、マリーベル!? そんな、まさか……」
男は薄い唇をわなわなと震わせながら、まるでお化けでも見たような顔をしてそう呟く。
私は私で、彼がマリーベルを知っているのならおじさんのことも知っているかもしれないと思った。
ところで、私はいまだにおじさんの名前さえ知らない。
初めて顔を合わせた際に、どちら様ですか? と尋ねてひどく傷付いた顔をされたのだが、それから結局名乗られないまま今日まできてしまった。
そんなことを思い返している間にも私の身体はどんどんと冷え、手足の感覚はすでにない。
何とか手を持ち上げて温室の中を指差したものの……
「マリーベル!?」
焦ったような男の声を聞いたのを最後に、私の意識は暗転した。
ウィンダリア王国は一年の半分以上が雪に覆われ、国土の三分の一は農業に適さない永久凍土が占めている。
そのため、温室を利用した栽培技術が発展しており、私がマリーベルの身体で目覚めて一月あまりを過ごしたのも、そうした技術を結集して作られた最大にして最高の温室であった、らしい。
教えてくれたのは、私が温室を飛び出したところで出会った男。
セトと名乗った彼は、なんとこの国の王子様であるという。
さらには……
「あなたのおかげで父は一命を取り留めた。何と礼を言えばいいか……」
「……いいえ」
なんとなんと、あのおじさんの一人息子だった。
息子が王子様ということはつまり、おじさんは王様ということになる。
その心肺は無事蘇生したものの、いまだ意識は戻っていないそうだ。
それはさておき、私は慌てて頭の中に覚えている限りの世界地図を広げ、〝ウィンダリア王国〟なるものを探してみたのだが一向に見当たらない。
それもそのはず。ここは私がいた令和の日本ではないどころか、まったく知らない世界のようだ。
異世界なんて、小説や漫画じゃあるまいし。
困惑の極みの中、何も覚えていないと告げた私に、王子様ことセト君がマリーベルの素性を語ってくれた。
「あなたは、マリーベル・シュバリエ。シュバリエ公爵家に長女として生まれ――そして、二十年前に亡くなった」
「……二十年前に……亡くなった……?」
死後二十年経った人間が、享年十八歳の姿のまま生きているなんて、それこそ小説や漫画の中でしかあり得ない話だ。
この身体はマリーベルの血縁者、あるいは単なる他人のそら似では、とセト君も最初は思ったらしい。
ところが、国王の忠臣である侍従の告白により、衝撃的な事実が判明する。
「父は、婚約者だったあなたの死を受け入れられなかった。墓地に埋葬された遺体を侍従とともにこっそり掘り返し、あなたが生前愛したというあの温室に隠していたんだそうだ」
マリーベルは寒がりだから永久凍土に埋葬されるのは可哀想……って!
それで温室とか、正気ですか!? とろけちゃうでしょうが!!
とはいえ、どういうわけかマリーベルの遺体はとろけることなく、生前の美しいまま温室の花畑に安置されていたという。
そんな彼女の固く閉ざされた瞼が唐突に開いたのが一月前。
覚醒した意識はマリーベルではなく私なのだが、これには二十年もの間堅く口を閉ざしていた侍従もさすがに恐ろしくなったのだろう。
この夜、おじさんこと国王が倒れたのは、政務をこなしつつ温室で過ごす時間を捻出しようとした末の過労が原因なのに、侍従は死者への冒涜に対する神罰ではないか思ったらしい。
それゆえ彼は慌てて、二十年間抱えてきた秘密――国王の狂気っぷりを暴露するに至ったわけだ。
今から二十年前、同い年のマリーベルと国王ビクターは婚約者同士という立場にあった。
そんな二人の前に、クーデターによって国を追われた同盟国の王女モリガンが現れる。
年上のお姉さんの色気に容易く陥落したビクターは、婚約者のマリーベルとは清い関係であったにもかかわらずモリガンとは一線を越えてしまい、さらに彼女は早々に身籠ってしまった。
そうして生まれたのがセト君だ。
国王の第一子、しかも次の国王となり得る男子を産んだことで、ビクターはモリガンを正妃に、元々の婚約者であるマリーベルを側妃にすると言い出す。
当然シュバリエ公爵家は猛反発したものの、おっとりとしたマリーベルは正妃になって政治に携わるよりも後宮でのんびり過ごす方がいいのでは、という世間の声が国王の身勝手を後押ししてしまった。
これにより、マリーベルが受けたショックは計り知れない。
ビクターとモリガンの結婚式が行われたその夜――彼女はひっそりと、シュバリエ公爵家の裏にある湖で命を絶ったらしい。
そんな一連の話を聞いた私は――とりあえず、おじさんが目覚めたら一発殴ると決めた。
「あなたを失ってやっと、みんな目が覚めたんだ。なんてひどいことをしてしまったのだろう、と。父も母も、そして私も……。あなたがどうやって甦ったのかは分からない。だが、償う機会が与えられた奇跡に、私は感謝する」
「……償う?」
セト君の言葉に、私はぎょっとする。
だってマリーベルが亡くなった時、彼はまだ生まれて間もなかったはずだ。
そんな彼が何故マリーベルの顔を知っていたかというと、その悲劇的な生涯が王国中に知れ渡り、彼女を偲んで肖像画が多く描かれたかららしい。
当時は赤ん坊だったセト君が、罪の意識を持ちながらここまで生きてきたのかと思うと愕然とする。
と同時に、私はふいに、それを自身のことに重ねてしまう。
私が元夫と不倫相手に慰謝料を請求したことで、その支払いを巡って彼らは親族との関係が壊れてしまった。
不倫相手のお腹にいる子供は、後々その理由を知って気に病むのではなかろうか。
両親の不義理、その結果命を絶ったマリーベルを思って自分を責めるセト君を目にし、私の中には凄まじい罪悪感が涌き上がってきた。
「ご、ごめんなさい……」
「どうしてあなたが謝るんだ。悪いのは私だ。私が生まれてしまったから、あなたは……」
「ちが、違います。あなたは何にも悪くない。子供に業を背負わせたりしちゃだめなんです」
「いや、いいや……あなたを死に追いやったことは、私が生まれながらに背負った罪だ……そう思って生きてきた」
けれど、とセト君は恭しく私の、というかマリーベルの手を取って続けた。
「あなたは今こうして私の前にいる。どうか……どうか、私に償わせてほしい」
「そんな……」
そんなの気にしないで自分にために生きてほしい。
そう思いはするものの、マリーベル自身ではない私が口にしていいものかどうか。
まさしく薄幸の美青年なセト君を前に、私は頭を抱えるばかりであった。
と、その時である。
「――姉上!!」
息急き切って部屋に飛び込んでくる者がいた。
私自身と同年代と思しき男である。
男はマリーベルの姿を目にしたとたん、水色の瞳にみるみる涙を浮かべた。
そして猛然とベッドに駆け寄ってくると、セト君を押し退けるようにして私の両手を掴む。
「姉上、僕です! あなたのたった一人の弟、ユーゴです! 覚えておいでですか?」
「……ユーゴ……ええ、もちろん」
自己紹介してくれて助かった。
だって、私は彼のことなんてこれっぽっちも知らないのだから。
マリーベルと髪と瞳の色がそっくりな彼はユーゴ・シュバリエ。
マリーベルとは年が離れているが、実の弟らしい。
偶然もあるもので、私の弟と名前の読みが同じだった。ちなみに、弟の優吾は新地でホストクラブを経営している。
マリーベルが命を絶った時にはまだ七歳だった弟君は立派な紳士に成長し、家督を継いでシュバリエ公爵となっていた。
「ああ、姉上……姉上が甦ったなんて知らせを受けた時には、何の冗談かと思いましたが……夢のようです。さあ、家に帰りましょう。姉上の部屋はそのままにしてありますよ」
「えっ? でも……」
有無を言わさず私をベッドから抱き上げようとする弟君に戸惑っていると、その腕を掴んで止める者がいた。
セト君だ。
「待ってくれ、シュバリエ公爵。彼女は二十年間ずっと温室にいて、外に出たとたんに寒さで卒倒したんだ。まだ、屋外に連れ出すのは危険過ぎる」
「ご心配なく、殿下。僕がこうして毛皮で包んで抱いていきます。髪一筋さえ冷気には晒しますまい」
「いや……いいや、だめだ。連れていかないでくれ。私はまだ、マリーベルに償えていないんだ」
「おやおや……償えるなどとお考えになるのが、そもそも烏滸がましいことでございますよ。どうしてもとおっしゃるなら、母君の胎にでもお戻りになってはいかがですか?」
セト君の訴えに対し、弟君の返しは辛辣だ。
現国王一家のせいで最愛の姉が命を絶ったのだから、その気持ちは分からなくはないが……。
ただ、私にとっては他人の家であるシュバリエ公爵家よりも、曲がり形にも一ヶ月間交流を持った国王の城の方がまだ安心できるし、何よりマリーベルの代わりに、彼が目覚めたら一発殴ると決めたのだ。
私は火花を散らす二人を見上げ、あの、と口を開く。
「せめて、おじさ……陛下のお目覚めを待ってはいけませんか?」
とたん、セト君も弟君も、まるで眩しいものを見るような目を私に向けた。
「マリーベル、あなたって人は……あんな父のことを思い遣ってくれるのか……」
「姉上……あなたは優しすぎるんだ……」
自ら命を絶つほどの目に遭わされてもなお、マリーベルは国王を案じている――そう解釈されたらしい。
今更だが、マリーベルの元来のそれに近づけるためか、私の言葉遣いには勝手に補正が入る。
どうやってもおっとりのんびり、いかにもおずおずといった感じになり、それが元夫の不倫相手を彷彿とさせて舌打ちしたい気分になった。
これもマリーベル補正のせいで、舌打ちしたくてもできないのだけれど……。
とにかく、自分が男達の中で美化され過ぎていることに、私はひたすら鳥肌が立った。
そんな中、弟君が口を開く。
「姉上の望むようにいたしましょう。ただ、しばし姉弟水入らずの時間をいただけませんか?」
「……分かった、私は席を外そう」
セト君は、気遣わしげに私を見やりながらも素直に部屋を出て行った。
それを冷ややかに見送っていた弟君だったが、パタンと扉が閉まった瞬間――その眼差しを一変させる。
「姉上……ねえさま、会いたかったぁ……!」
弟君はそう呟き、ベッドに座ったままの私の膝に擦り寄ってきた。
すでにマリーベルの享年を越え、私自身とはちょうど同い年の弟君。
にもかかわらず、まるで姉と死別した七歳の頃に戻ったかのように甘えてくる彼に、私は危うくキュンとしかけた。ギャップ萌えってやつだ。
とはいえ、マリーベルにとっては実の弟であるからして、この心臓は間違ってもときめいてはいけない。
平常心、平常心……。
私は心の中で般若心経を唱えつつ、大きな弟の頭を無心で撫でるに留めるのであった。
そんな私の心の内など知らない弟君は、目一杯甘えた声で続ける。
「かあさまったらひどいんだ……ねえさまが死んだっていうのに、役立たずだなんて言うんだもの」
「そ、そう……」
マリーベルの母親は、娘を正妃にすることにひどくこだわっていた。
そのため、モリガンの登場によって側妃に降格させられることが決まると、お前がちゃんと国王の心を掴んでいないから悪いんだ、と彼女をひどく責めたらしい。
とんだ毒親である。
婚約者に裏切られ、母には詰られ、マリーベルの心痛はどれほどであっただろう。
沈痛な面持ちになった私に、精神年齢が七歳まで退化中の弟君は「でも、安心して」と笑って言った。
「意地悪なかあさまは、僕がちゃあんと始末したからね。――もう、この世界のどこにもいないよ?」
「お、おう……」
甘えた声とは裏腹に、ニタリと真っ黒い笑みを浮かべる弟君に背筋が寒くなる。
母は毒親、弟はサイコパス。父は……どうやら空気だったらしい。
大変だったんだね、とマリーベルに同情せずにはいられなくなった――その時である。
「マリーベル!!」
またもや息急き切って部屋に飛び込んでくる者がいた。
今度の乱入者は、赤毛のどえらい美女である。
美女もやっぱりマリーベルの姿を見て息を呑んだ。
「これはこれは王妃様」
とたん、弟君がさっきにも増して真っ黒い笑みを浮かべる。
その前に舌打ちしたの、おねえちゃまは聞き逃しませんでしたよ。
ともあれ、王妃ということはこの美女がセト君の母親であり、マリーベルの未来を奪った張本人、モリガンだろう。
年を重ねて色褪せるどころか凄味を増した色気は、女の私でもくらっと来ちゃいそうなほどだ。
その色気を武器に童貞国王を陥落してまんまと王妃の座に着いた彼女には、かつてのライバルであるマリーベルの復活は喜ばしいことではないだろう。
修羅場の予感に、マリーベルに感情移入し始めていた私はスンとしかけたのだが……
「また会えるなんて……夢みたい!!」
王妃は猛然とベッドに駆け寄ってくると、弟君を押し退けるようにして私の両手を掴んだ。
かと思ったら、膝に突っ伏して泣き始める。
「かつて、這う這うの体でこの国に逃れてきた私に、あなたは誰よりも先に優しい言葉をかけてくださったわ! それなのに、私のせいで……!」
モリガンは自国の王家復興を夢見てウィンダリア国王に取り入ったが、けしてマリーベルを蔑ろにさせようとしたわけではなかったという。
しかし結果的に立場を奪ってしまい、それによって彼女が命を絶ってしまったことでずっと自分を責めてきたようだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……こめんなさい、マリーベル!」
「はあ……」
私の、いやマリーベルの膝にしがみついて幼子のように泣きじゃくる王妃に、何とも言えない心地になる。
加害者の謝罪なんてものは、所詮は自己満足だ。
王妃がいくら懺悔しようとも、本当のマリーベルはもうこの世にはいない。
彼女の身体に入っている私が、今ここで一言「許す」と言えば王妃は救われるだろう。
しかし、それはマリーベル自身の気持ちを踏みにじることになり兼ねないと思うと、私にはできなかった。
とはいえ、涙で湿った膝が冷たいし鼻水をつけられるのも嫌だからそろそろ泣きやんでもらいたいというのが本音だ。
それに、王妃は味方にしておいた方がよさそうだという打算から、私はさっき弟君にしたように彼女の頭を撫でた。
「はぁああんっ! すきぃ!!」
「や、やめて……やめてください――やめろ、貴様! ねえさまを潰す気かっ!!」
とたん、語彙力を無くして飛び付いてくる王妃と、早々に体裁をかなぐり捨てた弟君。
ぎゃあぎゃあと喧しい二人に挟まれて、私がうんざりしていた時だ。
「マリーベルは病み上がりなんだぞ! 騒がしくするなら出て行けっ!!」
騒ぎを聞きつけて戻ってきたセト君が、王妃と弟君を一喝して追い出してくれた。
薄幸の美青年っぷりが嘘のような頼もしい姿に、私は両目をぱちくりさせる。
かと思ったら……
「す、すまない、大きな声を出して……その、私も席を外した方がいいだろうか……?」
私と目が合うと、恥ずかしそうに俯いてしまうのだ。
胸が、キュンとした。
二十年前に息絶え、一度は埋葬されたはずのマリーベルの身体の中で、彼女の心臓は今、私の心と連動してドキドキと力強く脈打っている。
こんな気持ちになったのは、いったいいつぶりだろう。
思い返せば、夫にときめかなくなって久しかった。
そんな私は、気付けばセト君の袖を掴んでいた。
「ここに、いてくださる?」
「私で、いいのか……?」
あなたにいてもらいたいのと答えれば、セト君の白い頬がほんのりと色付く。
はい、可愛い。
私は、今度は般若心経を唱えなかった。
だって、マリーベルと血の繋がりのないセト君相手にならときめきを抑える必要なんてないだろう。
マリーベルがどうかは知らないけれど――私、ギャップに弱いんです。
それでなくても、セト君は親のやらかしのせいでカルマを背負わされた百パーセント被害者だ。
きっとマリーベルだって彼を邪険にしたりしないだろうから、私が代わりに労ってあげても問題ないはず。
「騒がしくて疲れただろう。お茶でも淹れようか?」
「ええ、いただきます」
マリーベルらしい控え目な笑みを浮かべて頷けば、セト君がはにかんだ。
はい! 可愛い!
普段から自分でしているのか、手際よくお茶の用意を整える彼をにこにこしながら見守る。
いや正しくは、その綺麗な横顔にうっとりと見蕩れていたのだ。
だから、気付かなかった。
彼が茶葉に注いだのがお湯ではなく温めたお酒だったことに。
そして、私は知らなかったのだ。
寒冷地にあるウィンダリア王国では、お茶感覚でアルコールを摂取して身体を温める風習があることも。
にもかかわらず、マリーベルがめちゃくちゃ酒に弱い体質だということも。
「マリーベル!?」
カップに口を付けたとたん、私の意識は二度目の暗転を迎えたのである。
そうして、思い出した。
婚約者だった国王の裏切り。
母からの心無い叱責。
国王の結婚式が執り行われたあの日の夜、傷心のマリーベルは――
『はぁああ!? やってらんねぇ、ですわ!!』
シュバリエ公爵邸裏の湖の畔で、こっそり飲んだくれていた。
マリーベルは、そもそも国王のことなんて全然好きじゃなかったのだ。
有無を言わさず婚約させられ、母の手前それに甘んじていたが、国王に「俺のことが好きだろう」的な顔をされるのに辟易していた。
あの温室だって、南国土産のフルーツを社交辞令で褒めただけなのに、マリーベルに強請られたからと嘯いて国王が勝手に作ってしまったのだ。
彼がモリガンに惹かれていると察知した時は、これでようやく解放されると喜んだほど。
それなのに、「俺のことを好きなお前を捨てるのは可哀想だから、正妃は無理だけど側妃にしてあげるね」などと言い出されてウンザリである。
世間には腫れ物みたいに扱われ、母にはキレられ、そりゃあやけ酒だって飲みたくもなるだろう。
母も母で、やっと生まれた跡取り息子が母親の自分より姉のマリーベルに懐くのが面白くなかったようだ。
弟君に好かれれば好かれるほど母の当たりはきつくなり、マリーベルは弟を疎ましく思ってしまう自分への嫌悪感に苦しんでいた。
そんな諸々の嫌なことを、酒と一緒に全部飲み干してしまえればよかったのだ。
だが、残念ながら酒に弱いマリーベルは、ベロンベロンに酔っぱらった末、湖に顔を突っ込んで眠ってしまった。
つまり、彼女の死は事故であり、自殺ではなかったのだ。
ちなみに、マリーベルは国王の侍従が好きだったらしい。
それなのに、当の彼は国王と一緒に自分の遺体を掘り返して盗んでいただなんて……あまりにもマリーベルが浮かばれない。
勘違い俺様国王に悲劇のヒロイン気取りの王妃、母は毒親で弟はサイコパス。
そうして、好きになった人は諸悪の根源とも言える国王の全肯定botときた。
自分勝手な彼らに振り回されてばかりの日々に、マリーベルは辟易していた。
何より、そんな人生に抗えない自分自身に絶望していたのだ。
「――マリーベル!!」
目を開けると、私はベッドに仰向けに寝かされていた。
弟君と王妃が、私の左右それぞれの手に縋って泣いている。
セト君は一人、ベッドの側に立ち尽くしていた。
真っ青な顔をした彼は、私を見下ろして唇を震わせる。
「私の……私のせいだ……」
私は、セト君が淹れてくれたアルコール入りのお茶を飲んで卒倒したらしい。
しかし、面識のない、しかも二十年前に死んだ人間が酒に弱いことを知らなかったからといって、誰が彼を責められようか。
私は弟君と王妃から両手を引き抜いて、セト君へと差し伸べた。
「あなたは何にも悪くない。私の方こそ……ごめんなさい」
うっかり死んでしまったことをマリーベルが詫びなければいけないとしたら、それはセト君にだけだ。
そして、謂れのない罪を背負わされた彼を救えるのはきっと、今こうしてマリーベルの身体を動かしている私だけ。
私に引き寄せられるままベッドの脇に膝を付いたセト君は、ぎゅっと泣きそうに顔を歪める。
はい、可愛い。
ただ私には、セト君が幸せになれば、元夫と不倫相手の子に対して覚えた罪悪感も和らぐかも、という打算もあった。
だから……
「はぁああんっ! 尊いっ!!」
「ねえさまったら、まったく! あなたは優しすぎるんだっ!!」
王妃と弟君から浴びせられる熱視線はあまりにも温度が高すぎて、どうにもこうにも悩ましい。
掌に擦り寄ったセト君の頬の温かさくらいが、私にはちょうどよかった。