7:接点
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極僅かな振動が、地に接する足裏から伝わる。 キソスの地の処々に施された禍術の影響。 衰弱した〈地〉の精霊が、囁くような声でナハに地下の変化を伝える。
「青白い炎? ああ、それなら炎帝の炎だろう。 つまりはラスターが動き始めたってこと、か。 カナルも無事に会えたんだ。 報せてくれてありがとう。 気分が優れないところに頼んで、すみませんでしたね。 さ、あなたは少し休んで。 後は他の方々に聞くので」
周囲を揺らめき漂う白光の珠に手を差し伸べながら、ナハは少し垂れ気味の目を細め笑った。
光珠は、そんなナハの言葉に頷くかのように数回瞬くと、すぅと周囲の闇に溶け消えてゆく。
辺りは静寂の闇に包まれる。
「さて、と。 こちらも急いで探し出さないと、巻き添えを喰いかねないな。 ラスター、ああ見えて熱いからなぁ。 どうも、ここに捕獲対象がいるようだしね――」
ナハは、ぼさぼさの頭を掻きながら周囲を見回す。 処々に崩れた彫像の残骸や何処からか入り込んだ木の葉等が落ちている。
窓のないキトナ大神殿旧宝物庫内は、今やすっかり陽の落ちた外の闇よりも、更に濃い黒の闇に沈んでいる。 月は満月に向かい肥えてきてはいるが、建物内を照らすことは不可能に近い。 それでも、月が生む淡い光が、開け放たれたままの大扉から入ることで、ナハの視界をいくらか援けてくれている。
ナハは膝を折り右手を砂埃の溜まった床に着ける。 ひんやりとした床石の感触が、じわりと伝わる。
「子供が二人。 昼少し過ぎ位か。 ふぅん? 女の子より、男の子の方が落ち着きがあったんだ。 おぅや、その後を通るこれは何だ? あんまり見て嬉しい顔じゃあないな。 蜥蜴、いや蛇? 半妖ってところだな。 露骨につけられているのに、アルフィナも、まだまだだなぁ――」
暢気な口調でひとりごちると、ナハは立ち上がり、二人の子供が通った、つまりは今から自分が辿るべき道を見遣った。
一切の光のない進路は、深い沈黙の闇に沈んでいる。
「ラスターやあの少年程に、私の目は闇では利かないのだけどなぁ。 労力をケチるなってことか」
ナハは頭を掻いていた右手を正面に差し出し握ると、口の中で詞を唱え、手を広げる。
すると掌の上に、淡い白金の光珠が生まれた。 光珠は、優しい光でナハの周囲を照らす。
「これを出し続けるって、結構体力使うんだよね。 後でしっかり奢ってもらわなけりゃだな」
光珠を優しく自分の顔の高さまで持ち上げると、ナハは珠に軽く息を吹きかけた。 すると光の珠は意思を持つかのように、ひとりでにナハの手を離れ周囲を浮遊し始める。
「さて、と。 大扉の陰の君達。 いい加減、出て来たらどうだい? それとも、この光珠でお出迎えした方がよいかな?」
明朗な声で背後に言葉を投げ掛けると、ナハはゆっくりと大扉へと振り返る。
黒い大扉の陰から、淡い月の光を背に受けた人影が二つ現れる。 逆光のため顔貌は判然としないが、まだ線の細さを感じさせる体型から、二人は限りなく少年に近い青年だと思われた。
「やあ、今晩は。 こんな月夜に男の子二人で廃墟散策かい? 中は真っ暗だ。 散策なら、昼に出直した方がよいと思うよ?」
にこやかに挨拶を終えると、ナハは腰に手をあて、二人の出方を待つ姿勢をみせた。 しかし、二人は彫像のように身体を固くし、口を開こうともしない。
埒が明かないことを見極めると、ナハはため息吐き、頭をがしがしと掻いた。
「君たち、〈聖神聖教〉の――〈狩り人〉かい?」
ナハの言葉に、不動だった二つの影が形を変えた。 右の影が、より大きな身体をしている隣の陰にぼそぼそと何か訴えている。
「怖いのなら、お前は帰れっ。 俺はこいつを捕らえ連れて行く。 ここで手柄を立てれば、上へ取り立てられる可能性だってある。 いつまでもこんな下らない仕事ばかりさせられてたまるかっ」
左の影はイライラと右の影を怒鳴りつけた。 その声から、二十前後の青年だと察しを付ける。 言葉の僅かな訛から、左の青年は南方の出身らしい。
「ああ、やはりね。 まだ〈狩り人〉じゃなくて、見習いの見習い、ってところ? 見回り程度の仕事しか任されないから腐っているんだな。 若いっていうのはいいね。 様々な事に怒りを覚えられて」
のんびりとしたナハの言葉に、左の青年が怒気も露わに振り返った。 見えずとも、その顔が怒りに歪んでいる事がわかる。
「貴様何者だっ。 ここへ何しに来た。 ここは一般人は立ち入りが禁じられている」
敵意を剥き出しに、青年は数歩ナハの方へと歩み寄る。
ナハは光球を手元に呼び寄せると、押し出すように青年へと向かわせた。
生き物のように自ら動く光の珠に、青年は素早く身を引いたが、一定以上に近付かない事を確認すると、姿勢を慌てて正し、改めてナハを睨み付けた。
栗色の髪に焦茶の瞳を持つ青年の顔は、なかなかに整ってはいるが、両頬に残る引き攣れた獣の爪痕と、妙に険しいぎらついた眼差しが、神経質な印象を与える。
引き締まり均整の取れた身体と、捲った袖から覗く左腕の火傷痕から、おそらくは火を使う、鍛冶のような職業に就いていたのだろう。
青年の様子を見取り終わると、ナハは「ふむ」と顎に手を当て、首を捻った。
「そう。 ここはキトナ大神殿の管理下にある建造物で、一般人の立ち入りは禁じられている。 廃墟になったとはいえ、それに変わりはない。 それは知っているよ。 ただね、私は多少、大神殿とは関わりがあって、出入り出来る立場にあるんだ」
「はっ。 浮浪者の如き貴様が、どうして大神殿に関わりが持てる。 虚言を吐くなら、もう少し頭を使ったらどうだ。 もっとも、それ以上の思い付きがあれば、だけどな」
嘲るように口の端を上げ、青年は侮蔑の言葉を投げつけた。 ナハはその言葉を受け、自身の姿をまじまじと見回す。
「――うーん。 そんなにボロボロかねえ? 確かに半月は野宿したけど、それなりに気は使っていたんだけどなあ」
パンパンと埃を叩きながら、ナハは視線を正面に立つ青年へ戻す。
「ま、ボロボロなのは認めるとして、それでも私は、ここへ立ち入る権限を持っているのは本当だよ。 私は〈地の長〉だからね」
〈地の長〉という言葉に、青年の表情が変わった。 背後に立っていた青年も、驚いたようにやや身を乗り出しナハを見ている。
「我々〈精霊使い〉を生業とする者は、聖都ティルナの精霊王殿で任命を受けるんだよ。 あまり知られていないことだろうけれど。 だから極端に言えば、我々は精霊王殿に属する専任の術者だ。 そういう所以もあって、〈精霊使い〉は大神殿で何かしら事が起こっている場合、その事実を把握し、対処する事をついでの職務として負っている」
諭すように話しかけるナハの言葉に、青年は表情をより険しくしていく。
そんな青年の顔を見て、ナハは苦笑した。
「納得できていない顔だね。 ま、私が本当に〈地の長〉なのか、今は証明できもしないから、後は君の判断に任せるけど、君達こそ、大神殿に関わりはないだろう? 本来、〈聖神聖教〉はティルナを始めとする大神殿を嫌い抜いているんだから。 そもそも君、最近まで鍛冶師か、とにかく鉄を扱う職を生業にしていたのだろう? それを辞めて、〈聖神聖教〉のそんな下請け仕事に転職したのかい? もったいないな」
「な、なんでそんなこと知って――」
青年は顔を強張らせ身動ぎをする。 ナハを睨みつける目に深い闇が降りる。
「臭いだよ。 君の身体にまだ残っている鉄の臭い。 鉄は〈地〉に属するからね、ここにいる〈地〉の精霊達が教えてくれる」
「ね、ねえ、トラン。 戻ろう。 この人は本当に〈地の長〉だよ。 精霊が付き添っているよ。 精霊を怒らせちゃいけないよ」
これまで闇に隠れるように立っていた右の青年は、恐る恐るトランと呼びかけた青年の背後に立つと、その袖を引いた。
トランは激しい勢いで掴む手を振り払い、声を掛けた青年の肩を突いた。 身長は大差なかったが、明らかにトランより線の細い青年はよろめき、床の窪みに足を取られ尻餅をつく。
「〝いけない〟? 何が? こいつの言うことを真に受けて、その言葉に騙されおめおめ引き下がれというのか? 俺はシュア、お前のように今の状況に満足してはいないんだ。 お前みたいな臆病者と組まされて、はっきり言って迷惑しているんだよっ」
激しい語気で怒鳴りつけるトランに、立ち上がったシュアは怯えた目を向けた。
トン、と何かを打つ音がした。
次の瞬間、トランががくりと崩れた。
シュアは何が起こったか分からず、気を失い倒れているトランを呆然と見つめた。
「なかなか、血気盛んで自尊心の高い青年だ。 野心は向上心にも繋がるから、程々に持つのは結構なことだけど、一緒に組む君は、なかなか苦労しそうだね」
いつの間にか、〈地の長〉だと名乗った男が目の前に立っていた。 シュアはさっと身を固くし、ぎこちなく防御の姿勢を取る。
「安心していいよ。 シュア君、だっけ? 君に危害を加える気は全くないし、このトラン君? 彼も気を失っているだけだから。 悪いけど、彼も連れて帰ってもらえるかい? 今からここは、ちょっと荒れるだろうから」
にこやかに微笑みかけながら、ナハは狼狽しているシュアの顔を覗き込んだ。
柔らかな蜂蜜色の髪に薄い水色の瞳をした、優しい顔立ちの青年。 〈狩り人〉になる事を目指すようには見えない、穏やかな空気を纏っている。
「君、どうして私が〈地の長〉だと言いきれたんだい? 精霊が付き添っている、って言っていたね?」
青年は一瞬目を大きくすると、照れくさそうに少し俯き、躊躇いがちに口を開いた。
「あの――別に理由はないんです。 ただ、あなたの周りの〈地〉が、柔らかく光って見えて、それに、何かがひそひそ囁いているような気がして。 何を言っているかなんて、全然分からないんですけど、ああ、精霊があなたに何かを語りかけているんだって。 僕の祖母、〈水の守〉だったんです。 〈水〉の精霊と語っている時の祖母を包む空気と、似ていると思って。 精霊達と話す祖母はとても綺麗で、キラキラした優しい――」
懐かしげに祖母の思い出を語っていたシュアは、じっと自分の顔を見つめるナハの視線に気付き、慌てて姿勢を正す。
そんな様子をナハは微笑ましく見ると、光珠を手元に呼び寄せ、シュアから少し離れた。
「そうか、君のお祖母さんは〈水の守〉だったんだ。 なるほどね。 ところで君、これから何処へ向かうつもりだい?」
「あの、僕達に与えられた宿舎は東外れの古い教会堂の地下なので、そこに彼を運ぼうかと――」
素直に答えた青年に、ナハはいま一度笑いかけ、光球をシュアの方へと押し出した。
「やはり地下、か。 いいかい、この丘を下りたら、その地下には戻らず地上の、なるだけ大神殿から離れた場所に行きなさい。 現在、このキソスの地下は酷く汚染されていてね、身体に良くない。 もっとも、君が今の仕事が好きで、どうしてもそこへ戻りたいというなら、私に止める権限はないのだけれどね」
「汚染。 ――なんとなく分かります。 僕、地下の集会所や宿舎に戻ると、いつも凄く不安で、気持ち悪くなるんです。 この丘の上も、本当はとても気持ち悪くて、怖くて来たくはなかった――。 この仕事だって、別に好きでやっている訳じゃないんです。 ただ、家族が誰もいなくなって、食べるのに困って、どうしようもなくて……」
蒼ざめ俯くシュアに再び歩み寄ると、ナハはポンと、軽く肩を叩き笑いかけた。
「君はお祖母さんの血を継いでいる。 その感覚を信じて、自分が気持ち悪くない、と感じる地に身を置きなさい。 ただ、その場合トラン君は、連れて行かない方がいいかもな。 彼は、君とは違いそうだから」
「いえ。 彼も僕と同じ所へ連れて行きます。目が覚めて、どうしても戻りたいと言ったら――僕にはとても彼を止めは出来ないけど」
はにかむように言うシュアに、ナハは再び肩を叩き微笑みかけた。
「あ、あの――」
闇の先へ歩み出そうとするナハを、シュアは呼び止めた。
「あなたのお名前、聞いてもいいですか?」
ナハは一瞬驚いた顔をしたが、破顔すると自分の名を告げ、迷わぬ足取りで闇の先へと消えていった。
*
『どうだ? ワシを敬いたくなったであろう?』
「――~~っ」
しししと鼻で笑い、くるくると光る緑の隻眼でカラを上目に見遣ると、蜥蜴は炎の残滓を含んだ鼻息を大きくひとつ吐く。 それはカラの脛辺りにかかった。 鼻息は、ズボンの上からでも火傷をしそうな程の熱を含んでいる。
「あ、熱っ、熱いじゃないかっ。 おっさん、わざとだろ、今のっ」
『それが〝命の恩人〟に対しての口のきき方かの? 目鼻から大量の水を垂れ流しながら、ワシに命乞いをしたことを、お前の頭は既に忘れたと見得るな』
「誰がそんな命乞いなんかしたんだよっ。 オレだって、おっさんをこの岩牢から出してやったんじゃないか。 恩人なんてお互い様だろ。 すっごく痛いんだぞ、この右手っ」
岩牢の扉を打ち壊したカラの右拳は、骨が砕けたのではないかと思えるほど激しく痛み、みるみる腫れていったが、例の如く自分で舐め、治癒を念じ、幾度も息を吹きかけると、 その成果あってか、多少の疼きが残ってはいても、普通に動かすに支障がないまでに回復をした。 それでも、痛いものは痛い。
むくれ顔でカラは蜥蜴を睨み返すと、蜥蜴は右の眼をくるくると回し、大きな欠伸をひとつ、わざとらしくする。
『お前がワシをこの岩牢から出すには、ふたつの理由があったろうが。 ワシがこんな狭苦しい場へ押し込められたきっかけの件はもとより、お前自身が、あの死獣共を、己の手で撃ち返すだけの自身がなかったのであろう? それとも何か? お前一人で、これらの死獣全てを掃うことが出来たというか?」
蜥蜴はくいっと、顎でカラの後方をしゃくり示す。 そこには黒焦げ、煙を上げる炭の山が累々と並んでいる。
大半はボロボロに焼け崩れ、原型がどのようであったのかはっきりしなかったが、中には、元がどのような姿をした獣だったかが、想像できるものもある。
蜥蜴は有言実行だった。
岩牢から身を出すと、矢継ぎ早に鮮紅の炎を死獣に浴びせかけ、あっという間に全ての死獣を沈黙させた。
蜥蜴が炎の矢を吐き、死獣が焼かれる間、この空間は炎獄のようだと思った。
死獣達の上げる、苦痛か怒りか故の咆哮。
炎に焼かれる死獣達の肉は猛烈な悪臭を放ち、炎からの熱波とそれらの臭いにむせ、カラはまともな呼吸が出来ず、幾度も意識を失いかけた。 ひとつまちがえれば、死獣諸共焼かれかねない位置で倒れそうにもなった。
そのたびに、実にタイミングよく蜥蜴の硬い尻尾がカラの頬を打った。 お陰でカラは、焼かれる死獣のお供をすることなく、ふらつく足で、比較的安全な場所にまで退がることができ、現在の口論にまで至れたのだ。
『ふん、まあよいわ。 ワシは心が広いでな、あとでたらふく肉でも喰わせてもらえば帳消しにしてやるわ。 ああ、言っておくが、新鮮な白天野牛の丸焼きなど、ワシの好物だ。 覚えておくがよかろうぞ』
大欠伸をしながら、蜥蜴はカラの右肩によじ上り、どっしりと落ち着く。
「なんだよそれっ。 それって、幻の牛って言われる、王族とか金持ちしか口に出来ない高級食材だって聞いたことがあるぞっ。 それより、なんでオレの肩に乗っかるんだよ。 重いじゃないかっ、下りろよっっ」
『あれだけ炎を吐いたからな、流石に疲れた。 お前若いくせに、ワシが肩に乗った如きで何を――』
蜥蜴の言葉が途切れるのと、カラが背筋に殺気を感じたのが同時、カラの足は無意識に地を蹴り、蜥蜴を肩に乗せたまま、身体は宙高くに舞い上がる。
一閃の銀光が、目の端を走った。
直後、ガッという重く硬い音が、宙にあるカラの下で上がる。
離れた地点に着地をしたものの、バランスを崩し、カラは見事に尻餅をつく。 その衝撃のせいで、蜥蜴も肩から滑り落ち、床に尻から落ちた。
『このたわけっ。 これしきの動きで体制を崩すなど、鍛錬がなっておらん証拠。 イテテ……お陰でワシまで尻を打つハメになったではないかっ』
「避けられただけマシだろっ。 それよりあれっ、あれ見てよっ」
カラは、直前まで自分達が立っていた地点を震える指で指し示した。 堅い石の床に、刃の厚い大剣が、深く、突き立っている。
「――かわしたか」
低い男の声が、少し先の闇からカラへと向けられる。 落ち着いた、しかしどこか陰鬱な影を感じさせる声の主の姿は、直ぐ目にすることが出来た。 油気のない黒髪を後頭部で束ねた三十半ば程の男。 鍛えられ引き締まった身体を、全身墨色の衣で覆っている。
長い前髪の間に見え隠れする切れ長の瞳は、夜光石の如く深い夜の闇色。 俯き気味ではあっても、その瞳はカラの一挙一動を見逃すことはない鷹のような鋭さを秘め、額に走る一筋の古傷が、その男の印象をより厳しいものにしている。
男は淡い光を手にしている。 見覚えのある、柔らかな、優しい金色の光――。
「それっ、オスティルの剣――」
『――ったく、この阿呆が。 また己から居場所をしっかり教えおって……』
呆れた蜥蜴のしゃがれ声に、今更無意味ではあったが、カラは慌てて口を塞いだ。
遠くに燈芯草の淡い光はあれど、これ程の闇ならば、常人には周囲に存在するものの確認は容易ではないはず。 例え、オスティルの光を持っていたとしても、現在のその光は、カラが手にしていた時の半分にも満たない、蛍の光の如き淡さだ。 それが周囲を照らし、視界を援けるとは思えない。
「――見えているわけか。 この短剣――いや、俺の姿全てが」
男は俯けていた顔を僅かに上げ、カラの顔を正面に捉える。 カラほどではないが、この男も、カラの姿を確かに捉えている。 闇に慣れた、獣の様な眼を持っている。
「古い伝承に、僅かに記される〈オスティルの瞳〉。 なるほど――この闇中でも光り輝く、正に夜空の月の如き、だ。 しかも、その透けた身体。 お前に、間違いないようだな――」
感情の読み取れない、起伏のない喋りだったが、男の声に、カラは敵意を感じはしなかった。 むしろ、どこか懐かしげな響きを含んでいるようにさえ思える。
カラを見据える男の黒の眼差しに、カラも金の瞳で見つめ返していると、肩に上りなおした蜥蜴が、頬を膨らませ、口の端に炎の紅い光を覗かせた。
「だっ、だめダメだめっ、火を噴いてこの人まで焼け焦げにしたらダメだよっっ」
カラは蜥蜴の口を両手で掴み、蜥蜴を身体ごと抱え込むようにした。 蜥蜴の口の中で生まれかけた炎が僅かに口から噴き出し、カラは指に火傷を負うハメになったが、必死に押さえ込み止めた。
『何が〝ダメ〟だっ? こやつが人間だからか? こやつは〈狩り人〉だぞ? この岩牢の番人もしておった、明らかにお前に敵対する側の者だぞっ』
口を押さえられ喋り難そうではあるが、蜥蜴のしゃがれ声は変わらずに聞こえる。
「だ、だって、何となく、ダメな気が――」
蜥蜴はカラの腕の中で激しく尻尾を振り、カラの腕や腿を激しく打ったが、カラは意地でも蜥蜴を離さなかった。 見た目の大きさ以上に力のある蜥蜴を押さえることに必死となり、カラは正面の男から目を外した。
「何者と話している?」
直ぐ鼻先で、男の声が響いた。 顔を上げると、いつの間にか男はカラの目の前に立っていた。 手には、先程床に突き立っていた大剣を握り、カラの首筋にその片刃を当てている。
言葉は出せなかった。 ラスターとはまた違う、鋭利な刃のような黒の瞳が、カラを貫くような目で見据えている。 少しでも動けば、迷いなく手首を動かしカラの首を斬る。
そう、確信のできる、死を与える事に慣れた目をしている。
『だから離せというておろうがっ。 この程度の男ならば、先程の熊の半分の炎でことが足りるわ。 早う離さんかっ』
男に見竦められているカラを尻目に、蜥蜴は変わらぬ調子で喚きたて、尻尾を振り回し続ける。
珍妙な鳴き声を上げ、少年の手の中で暴れる蜥蜴に気が付いた男は、打ち壊された岩牢に視線を向けた後、周囲に散乱している黒焦げの物体に視線を巡らせた。
「その蜥蜴。 あの岩牢の中に在ったものか。 お前が、あの扉を打ち壊し、これを出した――そうなのだな?」
男の厳しく鋭い問いに、カラは無言で頷いた。 口がカラカラに干乾び、それまでとは違う緊張で、身体が固くなっている。 それなのに、何故か男の顔をしっかりと見たい、という思いに駆られる。
僅かに顔を上げ、男の顔を見ようとすると、首に下げていたユーシュが襟元からはみ出し、小さな淡い光を闇に浮べた。
男はほんの一寸、目を見開くと、再び鋭い眼差しでカラを見据えた。
「――お前は、その蜥蜴の鳴き声が、言葉、として理解できるのだな。 その蜥蜴は、俺を殺せと、言っているのであろう?」
男の声には、僅かな変化があった。 ほんの小さな変化だが、厳しさが緩んでいる。
それでもカラは声を出せずに、ただ、男の顔を――その黒の瞳を見返し続けるしか出来なかった。
「お前が止めなければ、そいつは俺に炎を吐きかけて焼いただろうに、何故止める? 俺は、お前を捕らえに来た。 お前にとっては、敵と言ってよい」
男は変わらず無表情であったが、纏っている空気が、明らかに和らいでいる。
カラは逡巡した末に、改めて男の黒の瞳を見据え直すと、おずおずと言葉を口にした。
「――わかんないよ。 だけど、多分、似て――いたから」
「似ている?」
男は僅かに声音を高めると、カラの言葉の続きを待つように口を結んだ。
「アル――オレの知……友達、に。 その子の瞳の色と、あんたの瞳の色、似てる。 ……掴まっちゃったんだ。 オレの名前、呼んでたのに、助けられなかったんだ。 オレ……オレ助けなきゃいけないんだ、絶対。 早く、探し出さないと、いけないんだ――」
見ず知らずの敵らしき男に、訳の分からない事を言っていると自分でも思った。 勝手に口からこぼれ出す言葉。 しかし、それらは全て嘘ではない。 この男の黒の瞳は、アルフィナの瞳に、似ている。 自分の名前を呼びながら、操骸師の男に捕らえられ、連れ去られた――。
カラはきつく唇を噛み、溢れ出そうになる涙を堪えた。
「――アルフィナは、無事だ」
低く、呟くように発せられた男の言葉に、カラは瞳を見開き、立ち上がった男の顔を追うように見上げた。
男の手にあったオスティルの短剣が投げて寄越される。 柄先のオスティルは、カラの手に戻った瞬間、満月の輝きを放ち、次第に小さくなっていった。
束の間の光に照らし出された男の顔は、僅かに笑んだように見えたが、直ぐに元の鋭く厳しい表情に戻ると、カラの首から剣を引き、背後の闇に向かい剣先を向け直した。
「いまの所は――だがな」
大剣のはるか先に、骸骨のような灰色の男が立っていた。 見紛うことなき操骸師の姿。
口元には、引き攣れた薄笑いが見える。
そして、その一歩さがった場所に、白い衣に全身を包み、白銀に輝く長い髪を地まで垂らした少女が、揺らめく幻のように立っている。
見覚えのある、美しく整った顔。
しかし、彼女の髪は黒に近い濃茶だった。
だが――
「……アルフィナ――なの?」
カラの声は擦れ、震えた。
そんなカラの声に、少女の黒の瞳は僅かな揺らぎもみせず、虚ろにただ、開かれていた。
次回、〈8:真実の姿〉に続きます。